三 旦那さんと伝えたい言葉のありか (3)

「夜分遅くにわるいが、君と話がしたいと言っているひとがいる」


 え、と怪訝な顔をするように、「電話がつながらなくて」とりつがスマホを示す。それはたぶん、つぐみと長電話をしていたせいだ。葉のスマホはキャッチが入る設定になっていない。見れば、家の石塀に横づけして律のものらしき車が止まっている。


「ええと、話がしたいって、誰がですか? あと今から行くってこと?」

「ああ、詳しい話は車中で」


 有無を言わさず家から引きずり出され、律の車に乗せられる。

 とりあえず財布とスマホだけは持って、モッズコートを羽織ったが、よく考えたら中に着ているのはパーカーにスウェットという完全に部屋着だった。いや、葉の普段着など、鹿名田かなだ家の面々からすれば、部屋着と大差ないと思うが。ただ、スマホの充電が切れかけているのは困った。これだとつぐみと連絡が取れない。


 律が言うには、鹿名田鷺子さぎこが葉と話をしたがっているのだという。

 こんな夜更けに急に呼び出すなんてよっぽどだ。

 つまり、かなりの確率であの記事のことだろう。あのおばあさまに限って、心配して呼び寄せたとか、励ますために呼んだなんてことはありえないから、あまり楽しい話ではない予感がする。逃げたい。……が、逃げるわけにもいかない。鷺子は縁を切っても、つぐみの実の祖母なのだ。

 深夜で空いている高速道を走り、千葉にある鹿名田家の在所近くのインターで下りる。畑がえんえんとひろがっているはずの一帯は、夜闇だと何も見えない。しばらく夜道を進み、やがて現れた巨大な鹿名田家の外観に、葉はそっと息をのんだ。

 相変わらず途切れることなく続く石塀に圧倒されるし、つぐみは葉とはぜんぜんちがう環境で育った子なんだなあと、あらためて感じさせられてしまう。


 スマホで時刻を確認すると、夜の二時過ぎだった。

 雲がふんわりかかった空に、爪痕みたいな月が架かっている。三月に入って小春日和がときどきのぞくようになってきたけれど、夜はまだ冬の寒さが引かない。白い息を吐きつつ、葉は人生で二度目になる鹿名田本家の門をくぐった。

 静まり返った長い廊下を律の背について歩く。鷺子が待っているというので、なんとなく青志せいしの法事があったときのような大部屋に通されるのかと思っていたが、律が足を止めたのは想像よりずっとちいさな小部屋のまえだった。鷺子がプライベートの客を招く茶室らしい。

「おばあさま」と律が控えめに声をかけて障子を引くと、畳敷きの狭い部屋に背筋を伸ばして座す鷺子が応じた。


「連れてきましたよ」

「ああ、遅かったわね」

「……僕も同席しても?」

「わるいけれど、ここ、ふたり以上は入らないの」


 え、四人は入りそうに見えるけど、と葉は思ったが、それは言葉の綾というものらしく、「……わかりました」と律は平坦にうなずいた。励ますように葉の背を軽く叩いて、茶室から出て行く。


「どうぞ、座って」


 炉の電源を入れた鷺子が、立ち尽くす葉にひんやりした眼差しを寄越した。

 鷺子は葉とはちがって、品のよい桜鼠色の小紋を着つけ、白いものが交じり始めた髪をきれいに結っている。いっそ不自然なほどに乱れのひとつもない。


「夜分遅くに呼びつけたお詫びに、一服差し上げますよ。のんだことはある?」

「あっ、抹茶オレとかなら……」


 素直に答えると、鷺子は鼻でわらった。あとは口を引き結んで、湯で茶器を洗い、静かに茶を点てる。葉はイベントで野点を見たことくらいしかなかったが、鷺子の動きは流れるようで無駄がない。

 前回、このひとに会ったときは、青志の左の小指が納められた墓のまえだった。示し合わせたわけではなく、偶然居合わせてしまったのだ。鷺子はすこしだけ驚いたあと、葉のとなりで手を合わせた。そのとき、皮肉るようにつぐみと葉について「意外と続いている」と評していたことを思い出す。

 車中で、くだんの記事の記者が鹿名田家に続報のコメントを取るために連絡してきたらしいことを律から教えてもらった。もちろん、鷺子はゆるさなかったし、記者の連絡は誰にも取り次がれなかった。だが、それでつぐみの記事は鹿名田家にも知られることになったらしい。

 まずつぐみのほうに連絡を取るのかと思ったら、先に君を呼び出せというからすこしびっくりした、と律は肩をすくめていた。ひばりは葉の素性を知っているが、律は知らない。だが、たぶん鷺子は知っている。その鷺子が葉だけを呼び出してする話といったら――さすがの葉にも想像がついて、胸が重たくなった。


「どうぞ」


 きづけば、点てられたお茶が差し出されていた。

 白磁の碗にまみどりの抹茶がどろっと湛えられている。

 葉はこういうときの作法を何も知らない。以前見た野点では、茶碗を一回だか二回だか回していたような気もするけれど、何回が正しいのかも、そうする意味もわからないので、素直に「ありがとうございます」と受け取って、茶碗を持ち上げた。


(もしかして毒とか入ってないよね……?)


 一瞬おそろしい想像が浮かんだものの、さすがにない、それはない、と首を振る。

 茶碗に口をつけようとしていると、


「それ、毒が入ってるわよ」


 鷺子がさらりと言った。葉は思わず茶碗を落としかける。


「花についた虫を退治する毒」

「……えっと、それ、花がつぐみさんで、虫が俺ってことですか?」


 まわりくどいたとえを使われると、よくわからない。

 割ってしまわないように、葉は一度茶碗を畳のうえに戻した。


「律さんから、おうちに記者から連絡がきたって聞いたんですけど」

「話は、差し出されたお茶をいただいたあとにするものよ。無作法ね」

「毒って言い出すひとのほうが性格わるいなって思いますけど」


 さすがにかちんときたので、言い返した。


「今は礼儀の話をしたのであって、性格の話はしていない」


 目を細めて、鷺子は口の端を上げた。わらったらしかった。


「記事の件は潰したわ」


 取材を断ったではなく、潰すという言いかたを鷺子はした。


「もう出ない。今あるものもそのうち削除される。つぐみの『葉』の素性は、この家の誰も知らない。それでおしまい、今回は。くだらないお金の使いかたをしたわね」


 つまり、お金を渡して記事自体をなかったことにしたらしい。

 つぐみのためにしてくれたのだろうか。思い浮かんだ考えを、目のまえの女性の冷ややかさが打ち消す。ちがう、鹿名田家のためだ。単につぐみが十三年前の誘拐事件の被害者という報じられかただったら、鷺子は手を貸さなかっただろう。一緒に鹿名田家のなまえが出そうになったから潰したのだ。


「ただ、うんざりはしたわね。こういうことがこれから先もあるかもしれないと思うと。あなたという存在はまるで地雷ね」


 鷺子は衿元からふたつに折りたたんだ紙を取り出した。

 万年筆と一緒に葉のまえに置く。白い紙にはただ円マークだけが入っていた。


「――いくら?」

「え?」


 ぽかんとした葉に、鷺子は目を眇めた。


「あの子との手切れ金。以前、ひばりは五千万円を出すと言って、あなたに離婚を迫ったらしいわね。あなたは断った。今度は自分で値をつけていいわよ。あの子との関係にあなた、いくらの値をつけるの? 三千万? それとも三億? いくらでもあなたがつけた額を払ってあげましょう」


 かつて、ひばりに持ちかけられたときは、雇い主でないひとの言うことは聞けないと言って逃げた。鷺子ははじめから逃げ道を塞いでいる。


 ――いくら? いくらなんて、答えられるわけがないのに。


「あの子の愛って苛烈よ」


 黙り込んでしまった葉から視線を外して、鷺子がつぶやいた。


「かわいい顔をして、性格はまるでかわいくない。天国に行けると思わないで。地獄でも、平然と手をつないでくるわよ。逃げるなら今のうち。いつか離すつもりの手なら、今ここで離しなさい」


 確かに葉はいつか離すつもりで、はじめつぐみの手を取った。

 一年なのか二年なのかわからなかったけれど、ずっとは一緒にいられないんだろうなって、いつかはこの子に別れを告げられる日が来るんだろうなって、どこかであきらめながら生活していた。いろんなことを言って言い訳をしていたけど、でもやっぱり、自分がこわくて踏み出せなかったのだ。

 ずっと、ずっと願ってた。

 君がわらっていてくれますようにって、しあわせでいてくれますようにって。

 決して交わることのない道のうえから、ただ月に向かってつぐみのことを祈っているだけの存在が葉だったのだ。

 でも、また出会ってしまった。

 また、ちかづいてしまった。

 言葉を交わすことの喜びを、目のまえで笑顔がこぼれる瞬間のしあわせを、抱きしめたときに伝わる甘いぬくもりを知ってしまった。あふれるようないとしさも、それが苦しいことも、どれもみんな、知らずにいればよかったのに知ってしまった。

 いまさらどうやって手放せるというんだろう。だって、ほんとうは……ずっとがまんしていたけど、ほんとうは……君をわらわせるのは俺がいいし、わらいごえを聴くならいちばん近くにいたいし、ずっとずっとこの手は離さないでつないでいたい。だって、君がすきだから、だいすきだから、だから、どうかおねがい、

 ――俺と一緒に生きてほしいんだって!!!

 そこが、たとえまっすぐ伸びた道じゃなくても、地図がない嵐の草野でも、君と歩く道なら、きっとなんだっていとおしいと思えるから。

 

 手にした紙を大きく二つに破く。

 さらに二度三度破いた紙は、細かな紙片になって畳のうえに舞い落ちた。


「いらないです、お金。別れません」


 眉をひそめた鷺子に続ける。


「つぐみさんも激しい子かもしれないけど、結構俺も愛情重いなって最近わかったので! むしろ、逃げられたら追いかけるのは俺のほうなので! どこまでも追いかけてそばにいてほしいってお願いします! ……ごめんなさい、大事なお嬢さんを。苦しめるけど、でも大事にします。俺は何も持ってないけど、この先の俺のぜんぶをかけて、大事にします。だから、俺はつぐみさんのものだし、つぐみさんは、つぐみさんがいいって言ったら、ぜんぶ俺のです!!」


 まくし立て終えて息をつくと、白磁の茶碗を両手で持ち上げて、なかのものを一気に飲み干す。はじめて飲んだお茶はめちゃくちゃ苦かった。花についた虫を殺す毒は入っていたのだろうか。わからない。でも、なんというか、今は勝てる気がする! わからないけど!


「ごちそうさまでした」


 深々頭を下げて、茶碗をお返しすると、葉はコートを持って立ち上がった。

 茶室を出てから数歩いったところで思い出して、戸をひらく。


「あ、記事のこと、ありがとうございました!」


 もう一度頭を下げると、くるりと背を向けて廊下を駆け足気味に引き返す。

 すこしして、鈴が転がるようなわらい声が茶室のほうから響いた。

 まさか、今のわらい声は鷺子だろうか。えらく楽しそうだったけれど。


 ――あの子を迎えにいこうと思った。

 夜に電話をしたとき、制作自体は順調そうだった。完成はいつだろう? でも、もう終わるまで外で待っていればいいや、とひらき直った。待つのは得意だ。数日くらい、どこでだって待っていられる。

 鹿名田家から青浦礼拝堂までの道程を考えていると、玄関のそばの壁に背を預けて立っていた少女が、葉にきづいて顔を上げた。ひばりだ。


「おばあさまとの話、終わったの?」

「えと、いちおう」


 終わったというよりは、葉が強制的に終わらせた気がするけれど、うなずいておく。


「おばあさま、わらってた。何したの?」

「おかしなことはしてないと思うけど……」

「ふうん……」


 つまらなそうに唇をへの字にして、ひばりは葉に向けて何かを投げつけた。思わず受け止めると、鳥のかたちのマスコットがついた車のキーが手のなかにおさまっている。


「貸してあげる」

「え、誰の車?」

「律の車に決まっているでしょう」

「いや、ひとの車は借りられないよ!?」


 しかも、律の車はむちゃくちゃ高そうなのだ。


「いいの、律のものはわたしのものだから。わたしがいいって言ったらいいのよ」


 どこかのガキ大将みたいなことを真顔で言って、ひばりは葉を睨んだ。


「……ねえさまを泣かせたら、殺す」


 ほんとうに殺意をこめた口調で言って、ひばりは長い黒髪をひるがえした。

 屋敷の奥に戻っていくひばりと反対に、葉はスニーカーに足を入れて、鹿名田家の扉をひらく。駐車場に向かって歩きながら、スマホの電源を入れた。……入らない。ご臨終なさっている。

 あきらめて、駐車してあった律の車に「お借りします……」とちいさく手を合わせると、ドアをあけた。

 車についたデジタル時計は三時半を過ぎようとしていた。

 今から車を走らせたら、夜明け方には着くだろうか。

 カーナビの目的地に鎌倉の青浦礼拝堂を指定すると、アクセルを踏みこむ。いつも乗っている軽自動車より、すーっと音もなく進むので、最初まごまごした。勢いあまってどこかにぶつけたら、たぶん葉のバイト代の一年ぶんが飛ぶ。


 外灯がすくない夜道を車を走らせながら、そういえば、絵を完成させたら伝えたいことがあるとつぐみが言っていたことを思い出す。離婚ではないってつぐみは否定していたけれど、ほんとうになんだかわからない。でも、今は葉のほうにもつぐみに伝えたいことがある。

 車が海岸沿いに出る頃には、淡いひかりが水平線の向こうに滲みはじめていた。

 暗かった空が、インクを薄めるみたいに透明な群青に変わっていく。

 トンネルを出ると、青浦礼拝堂の白い外観と三角屋根の十字架が見えた。

 車を海岸の無料駐車場に止めて、堤防から海浜に下りる。最近、晴天が続いていたおかげか、海は穏やかに凪いでいる。打ち寄せては引く波打ち際に、貝や漂流物がぽつぽつ落ちていた。

 つぐみも夜にこの浜を歩いたのだろうか。

 早朝の浜をひとり歩いていると、礼拝堂に隣接して建てられた小屋に灯りがともっていることにきづいた。

 つぐみだろうか。いや、つぐみは早起きが苦手だから、教会の牧師さんかもしれない。

 扉が細くあいたままなのにきづいて、葉はなかから呼ばれたみたいにそっと扉を押しひらく。

 青い海と、空を飛翔する鳥たちの画が、葉を迎え入れた。

 そして、絵のまえに立っていた女の子が、ぱっと驚いたふうにこちらを振り返る。

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