二 奥さんとちび姑の襲来 (3)

 翌日はようのバイトがあったので、ピリカを一日だけ預かることになった。

 ピリカの脱走は実はこれがはじめてじゃないみたいで、園長先生は怒りつつも、「向かったのがあなたのところでよかった」と安堵の息を漏らしていたらしい。

 つぐみは小中高と学校はすべて登校せずに通したので、脱走してもきちんと戻るだけピリカはえらいなあと思ったけれど、つぐみの考えかたはたぶん世間からはずれているのだろう。


「じゃあ、お昼になったらピリカとカレーあっためて食べてね」

「うん」


 つぐみは朝から今度とりかかる青浦礼拝堂の構想をまとめようと思っていたので、ピリカとお留守番だ。


「いーい? つぐみさんの仕事の邪魔したら、絶対だめだからね。あとドアは勝手に開け閉めしたらだめ。ここの家、おばけが出るから」


 おばけが出る、という葉の言葉を信じたのかはわからないが、「はーい!」とピリカは元気よく返事をして葉を送り出し、今は居間で折り紙を折っている。さすがに小学生を残していつものように離れにこもっているのはどうかと思ったので、つぐみもスケッチブックをひらいて、ちゃぶ台でデザインをはじめた。

 青浦礼拝堂からは、祈りをテーマにした絵を納めてほしいと依頼されている。

 テーマはそれだけなので、宗教的なモチーフを使わなくてもいいし、聖人を描かなくてもいいらしい。


 ――ここって三年前、台風被害にあってね。ふたりが死亡、三人が行方不明。海に流されたまま、まだ見つかってないんです。


 鮫島さめじまと青浦礼拝堂にはじめて訪問したとき、牧師の橘川きっかわが教えてくれた。


 ――だからというか、礼拝堂の海が見える窓辺に絵を飾りたいと思いましてね。偶然、鮫島画廊の展示会でツグミさんの絵に出会って、飾るならこのひとの絵だって雷みたいに思ったんですよ。その絵は落札されたあとだったんですが……。


 橘川が言っていた作品は「花と葉シリーズ」のひとつで、青い水中にたたずむ葉の素足と無数の水中花を描いたものだ。おなじような雰囲気の作品がいいのかと尋ねたつぐみに、「いえ」と橘川は首を振った。眼鏡の奥の双眸が凪のときの海みたいに澄んでいて、つぐみは思わず引き込まれた。


 ――今のあなたの作品をください。「花と葉シリーズ」であっても、なくてもいい。


 細かい要望に応えていくのもむずかしいが、橘川のようにほとんどなんでもいい、みたいなオーダーも結構つくるのがむずかしい。祈りというテーマに対して、何をモチーフにして、どう描くのか、自分で一から考えなくてはならないからだ。いつもなら、それは葉をスケッチするあいだに、つぐみのなかから自然と湧き上がり、そのまま下図に描き落とせばよかったのだけども。


(今回は、そうじゃない気がする)


 ハルカゼアートアワードに出展する作品を制作するとき、すごく苦しんだ。

 今までのような自分の内側を削る描きかたにはもう限界があるとわかったからだ。「祝福」はそんななかで、今の自分にあるものを必死でかき集めて描いた作品だ。つぐみはすきだけど、ツグミとしては未熟で平凡だった。客観的にそうだったと評している。でも、熱がある。わるくない。それはうつくしい過去の残像を何枚も量産するよりもずっと、描く価値があるものだと思う。


(わたしが今描きたいのは、きっとこれまでのような『葉』じゃない……)


 でもそれは、いったいどんなかたちをしているんだろう。

 どんな色だったらふさわしいんだろう。

 ぐるぐるとかたちにならない下図を何枚も生み出していると、


「つぐみちゃんは落書きがお仕事なの?」


 ピリカから真顔で鋭い指摘を受けた。

 ちなみに今日のピリカはつぐみのニットをワンピースみたいに着て、葉が結った左右のおさげをぴょこんと跳ねさせている。


「えと……落書きは、考えている時間なので、お仕事してないように見えるかもしれないけど、たくさん悩む時間も、だ、だいじなので……」


 ぼそぼそと言い訳をしていると、「ふうーん」とあまりよくわかっていないようすで、ピリカが首をひねった。完成させた鶴をちゃぶ台のうえに並べ、またべつの折り紙を手に取る。つぐみが下図を描いては丸めているあいだに、ピリカは鶴やカメを六匹ほど完成させている。


「あ、おやつ、たべる?」

「うん」


 ピリカがうなずいたので、つぐみは台所のおやつ置き場からビスケットと、冷蔵庫から牛乳を出した。牛乳のほうはマグカップに注いで、レンジであたためる。

 マグカップを受け取ったピリカはすこし考え込むようにしてから、「べつに気を遣わないでいいからね」と言った。つぐみが持ってきたビスケットの袋を破き、手のひらサイズのまるいビスケットを取り出す。


「つぐみちゃんもたべる?」

「は、はい」


 気を遣っていることがばれているし、反対に九歳児から気を遣われている。

 スケッチブックを一度閉じて、つぐみはピリカの対面に座り直した。


「ピリカさんは、葉くんに会いたくてここまで来たの?」

「え、ちがうよー。ピリカそんな単純じゃないよ」


 不満そうに首を振り、ピリカはビスケットをかじる。ピリカの腕は、小動物の手足みたいに細いのに力がみなぎっている。忘れもの防止なのか、腕の内側に「じょうぎ」と薄くなったマジックで書いてあった。


「つぐみちゃんは学校、すき?」

「どうだろう。わたし、学校はほとんど行ってないから」

「うそ」


 ピリカは目をまるくして、つぐみを見た。


「ほんとうだよ。小学一年生の、九か月しか通ってない」

「それでいきていけるの?」


 小学三年生の女の子から「生きていける」なんて大仰な言葉が飛び出したので、つぐみはびっくりした。


「いちおう……生きてはいるんじゃないかな。……でも、まえは死んでたのかも」

「え、ゾンビじゃん」

「そうだね」


 ピリカのたとえが的を射ていたので、つぐみはわらってしまった。

 鹿名田かなだ家にいた十年はまさしく生きた屍に近い状態だった。


「生きているのに、死んでたのかも」


 なのに、今になってむっくり起き上がったのだ。


「……ビスケットもう一枚食べる?」


 心配になったらしく、ピリカがビスケットをつぐみにくれた。ミルク味とパッケージに書かれたビスケットをピリカと一緒に口にする。ほんのり甘くてやさしい味だ。


「ピリカのなまえね」

「う、うん」

「ママがつけてくれたんだよね。ママの顔見たことないけど、ピリカのおくるみに書いてあったんだって。でも、さりちゃんがなまえがへんって馬鹿にするの。ピリカはママもパパもいないから、なまえも適当につけたにちがいないって。でも、ママのめいよのために言うけど、そんなことないってピリカは思うんだよね」

「そうだね」

「ピリカの意味って知ってる?」

「うつくしい、きれい、豊かだ。アイヌ語だよね」

「そう!」


 ピリカはぱっと目を輝かせて、何度もうなずいた。


「ね! すてきでしょ……!」

「うん、いいことばだと思う」

「葉くんもはじめて会ったとき、ピリカのなまえ、褒めてくれたの。ピリカ、葉くんのことだいすき。いやなこと言ったりしないし、あと電球かえるのすばやいし、おうち直してくれるから。葉くんはやさしくてきれい。『ピリカ』でしょう?」


 確かにその言葉はピリカにも葉にも似合っている気がした。

 でもねえ、とピリカはすこし物憂げな表情で、三つ編みの先を摘まむ。


「葉くんは、ピリカたちのことはたくさんたすけてくれるけど、自分のことは放っておいちゃうんだよねって、まえにシスターが言ってた。ピリカはだから、ねえさんたちと話し合って、葉くんの嫁は葉くんをしあわせにしてくれるひとじゃなきゃだめって、けつろんに達したの」


 袋に残った最後のビスケットにきづくと、ピリカはそれをあたりまえにふたつに割って、ひとつをつぐみに渡した。黒目がちの眸がじっとつぐみを見つめてくる。


「つぐみちゃんは、葉くんをほんとうにしあわせにしてくれるひと?」



 *…*…*



 ピリカ。ピリカ。

 うつくしい。きれいだ。豊かだ。

 エトピリカという海鳥がそういえばいた。

 羽が黒くて、嘴が鮮やかなオレンジ色をしたうつくしい鳥だ。

 夜も遅い時間、離れの制作室で、電子で購入した鳥図鑑をタブレットでひらきながら、エトピリカのスケッチをしていると、ちょうど疲れて一度鉛筆を置いたときに、「つぐみさーん」と葉が半開きの障子戸から顔を出した。


「今、入っても平気?」

「うん。すこし休もうかなと思っていたところ」

「がんばってるけど、おなかは減っていませんか?」


 こういうふうに葉が訊くときは、夜食をつくってくれたときだ。


「減ってる……!」

「ふふっ、だと思った」


 葉が持ってきたお盆にのったお椀からほこほこと湯気が立っている。お茶漬けのようだった。今はとくに紙を広げて制作をしていないので、アンティークの長椅子に並んで座ってお茶漬けを食べる。朝食で出された野沢菜の残りが軽く盛り付けてある。ほんのりわさびが効いていて、さっぱりとおいしい。

 時計はいつのまにか、十時を過ぎていた。もうすこし描いて、キリがよいところで切り上げないと。


「あしただけど、俺、施設にピリカ届けてくるね。夕方までには帰れると思うから」

「うん」

「お昼はサンドイッチかなにか作っとく」

「そのことなんだけど……」


 つぐみはきのうから考えていたことをおそるおそる口にした。


「あした、わたしも一緒に行っていい?」

「え?」


 きょとんとしてから、すぐに「ああ……」とうなずき、葉は微笑んだ。


「うん、いいよ。ピリカも喜ぶと思うし、……えーとあんまりきれいな場所じゃないんだけど」

「ピリカさんを送り届けて、そのあと君が回るつもりだった場所にも行きたいの」


 今度こそ、葉は息をのんで沈黙した。


「回るつもりのとこって……?」

「いつも施設に寄った帰りにお墓参りをしているでしょう。……君の両親の」


 胸のまえでかきあわせたカーディガンをぎゅっと握りしめ、つぐみは言った。べつに葉を追い詰めたいわけじゃないのだ。でも、言葉にしてはっきり口にしないと、はぐらかされてしまう。


「そ……そんなことしてないよ……」


 こちらを見つめる葉の眸にじわじわおびえがひろがっていく。


「そんな、おやじの墓なんて絶対……。だって君がいるのに」


 つぐみが見つめ続けていると、葉はやがてこらえきれなくなったようすで目をそらした。


「……ごめんなさい。もうしないから……」

「わたし、まえに言ったよね」


 つぐみは所在なく膝に置かれた葉の手のうえに自分の手を重ねた。


「君はわたしに謝るようなことはなにもしていない」


 ずっときづいていた。

 葉がつぐみのまえでは、絶対におじさんやおばさんの話をしようとしないこと。

 きづいていたけれど、見ないふりをしていた。再会してから、ふたりですこしずつ積み上げてきたものが壊れてしまうのがこわかったから。

 でももう置き去りにするのはやめる。

 しあわせにできるかなんて、だいそれたこと、つぐみにはぜんぜん自信がないけれど、今よりすこしでも君の心にちかづくためなら、がんばって勇気を出せると思うから。

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