二 奥さんとちび姑の襲来 (2)
店内をしばらくうろついたあと、「絶対成功する! 彼にプロポーズさせる方法」という見出しが躍る結婚情報誌を手に取る。プロポーズするのはつぐみのほうだけど、参考にはなるのではないかと思ったのだ。
専門家によると、プロポーズにはタイミング、場所、言葉が重要だそうだ。
確かにタイミングってむずかしい、とつぐみは深刻な表情をしてうなずく。
たとえばいつものように、夕ごはんが終わったあと、居間で、
――葉くん、わたしたち結婚しよう。
と言ったら、たぶん葉はほうじ茶をこぽこぽ注ぎつつ、
――え? 結婚してるよね俺たち。
と首を傾げそうである。それで会話が終了してしまったらいたたまれない。
だから、もっと特別感のある――そう、星とか海が見えるような場所で、いつもとちがう雰囲気の――お気に入りのワンピースを着て、相手の心を動かすような言葉を――自分がどれほど葉を大事に想っているかを六歳から二十歳にいたるまでの時間の流れとともに訴えて――想像しているうちにつぐみは眉根を寄せた。
これ、なんだか見たことがある。
サスペンスドラマのラストで、犯人が崖上で告白するシーンだ。
――プロポーズというより、崖から突き落としそうでは?
不穏な想像にふるふると頭を振って、もうすこしロマンチックなシチュエーション――たとえば高級ホテルの一室や夜景が見えるレストランを想像してみたが、閉鎖空間だと落ち着かなくなる自分には無理そうだった。せめて自宅でも、葉の誕生日に(幸い葉の誕生日は来月だ)プロポーズの指輪を渡して――……だめだ、また物で釣っている気がする。
ひらいた雑誌を持ってうなだれたあと、つぐみはぱしんとページを閉じ、似た系統の雑誌を三冊購入した。これは付け焼刃じゃなく、家に帰って深く研究しなければならないと痛感したからだ。プロポーズって何度もできるものじゃないし、きちんと自分の気持ちを整理して、伝える準備をして臨もう。
――でも、もし葉が受け入れてくれなかったら……。
ひやりとしたものが頭をよぎったけれど、考えないことにして本を抱え、書店から出た。
だけど、結果として家でプロポーズの研究や予行練習をすることは叶わなかった。
インターホンを鳴らして、葉が玄関のガラス戸を内側からあけてくれるのを待っていると、いつもよりとたとたと軽い足音がして、勢いよくガラス戸がひらいた。
「おかえりなさい」
現れた人影が予想していたよりもかなりちいさかったので、つぐみは瞬きをする。
「おかえりなさい、葉くんの嫁」
ガラス戸を握ったまま、つぐみをじっと見上げる女の子は、トレーナーに「3ねん3くみ」と書かれたひまわりの名札をつけている。見たことがない子だ。なぜ見知らぬ子どもが家のなかに?
「ええと、君は……」
「ピリカ」
意志が強そうな太めの眉をした女の子はきりっとした表情で言った。
「ゆりかもめ小学校三年三組、山本ピリカ、九歳です」
「あ、
つられておどおどと挨拶を返していると、
「あー! ピリカ! 勝手に出たらつぐみさんがびっくりしちゃうでしょ!」
エプロンをつけたまま葉が飛び出てきた。
「だって、葉くんの嫁にはまずはメンチを切っとかないと」
「はじめてのひとにメンチ切らない。あとこのひとはつぐみさんです。ほら、挨拶して」
「もう挨拶したもんー」
いやいやとむずがって、ピリカは葉の足にぎゅっと手を回す。
突如現れた葉とやたら親密な女の子に戸惑っていると、「あー、つぐみさん、説明します」と葉が取りなすように言った。
「この子は俺のいもうと……えーっと、施設にたくさんいる『いもうと』のひとりでピリカ。学校で喧嘩して、施設に帰らなかったらしくて、なぜか俺のところに……」
「だって、葉くんならかくまってくれるもん」
「かくまいません。園長先生にはもう電話したから。いい? あした俺バイトだから、あさってには一緒に帰ろう」
「やーだー」
三つ編みをぱたぱた揺らして首を振り、「それにピリカ、さりちゃんと喧嘩したから、帰らなかったわけじゃないもん!」とピリカが主張する。
「み、みつめいを帯びてきたの!」
「密命?」
「葉くんがあくじょと結婚したって聞いたから、ピリカは葉くんの嫁がほんもののあくじょなのかを探るために、ねえさんたちのみつめいを帯びてきたのだ」
ひえ、とつぐみは思った。
悪女認定されたらどうなるんだろう。
「あとピリカ、葉くんのお嫁さんになるって約束したでしょ。あれはうそだったの!?」
「え、え、言ったかなあ……?」
「かえでねえさんと、ましろねえさんと、あおいねえさんも約束したって言ってた。先着順ならピリカたちが先だよ!」
「えー、でも俺のいちばんはつぐみさんだもーん」
「ひどいおとこ! ピリカたちのことはあそびだったのね!」
ピリカがだむだむと地団太を踏む。
ちなみにつぐみのほうは、「いちばんはつぐみさん」という言葉をリフレインさせてひとり幸福に浸っていた。いや、ピリカとの言い合いで出ただけの言葉だというのはわかっているけれど。いちばんはつぐみさん。いちばんはつぐみさん……。
「とりあえず今日はもう遅いし、ちょうどあした土曜日だから学校も休みだし、うちに泊めるって話に園長先生となったんだけど、よ、よろしいでしょうか……?」
葉がおそるおそるというふうにおうかがいを立ててくる。
つぐみだって、小学生を夜、外に放りだすほど鬼じゃない。
「わかった」と顎を引くと、葉はぱっと笑顔になった。
「よかったー。ありがとう」
あ、「いもうと」のこと大事なんだ、とその表情だけでつぐみにはわかった。葉は人懐っこくて誰とでもすぐに仲良くなるけど、存外、大事にしているものと関心が薄いものがわかりやすい。
「あっ、今日、トマト煮込みハンバーグだから。あとアボカドサラダと、米粉パン、かもめベーカリーで買ってきた。もちもちしたやつ、つぐちゃんすきでしょ?」
「うん、すき」
でも今日はひばりとビュッフェなんて行ってしまったせいで、いつもよりおなかの空きがすくなそうだ。プロポーズのことで頭がいっぱいになって忘れていたけど、ちゃんと葉にメッセージを送っておくべきだった。こういうところがつぐみはいつも気が回らない。
「あ、でもごめん……。今日はすくなめで」
「ああ、ひばりさんとおでかけだったもんね。お茶してきた?」
「うん……」
葉はさして気に留めてないようだったけれど、ピリカのほうは「えー」という顔をしていた。
「夕ごはんのまえにはおやついっぱい食べちゃだめなんだよ」
「ご、ごめんなさい……」
いつも以上に不出来さが露呈している気がして、あわてる。
あとなんだかこれだと、葉に家事をさせて自分だけが遊びにいってきたみたいだ。
といっても、そもそもつぐみには家事をするという習慣がない。
化粧を落とし、自室で部屋着に着替えてから居間に行くと、すでに葉は煮込みハンバーグのお皿をピリカとちゃぶ台に並べていた。この家ではふつうの光景だけど、今日はピリカの視線が痛い。だって、ぜったい、料理どころか配膳も手伝わないでこの嫁、と思っている。
葉にもし姑がいたらこんなかんじなのだろうか。すごくこわい。我ながら九歳児におびえる二十歳ってどうなんだって思うけれど。
「じゃあ、いただきまーす」
ピリカとつぐみの前にはちいさめに切ったハンバーグが置かれている。アボカドサラダは自分で好きなぶんだけ取るかたちだ。
「はい、つぐみさんどーぞ」
つぐみが自分のぶんのサラダを取ると、葉はいつものようにドレッシングを渡してくれる。
「あ、いいよ。葉くんからで」
「え? そう? でもいつもつぐみさんからだし」
葉の言うことはそのとおりで、葉はいつもドレッシングもお醤油も調味料も、なんでもつぐみに先に使わせてくれるし、お風呂だって一番湯はつぐみだし、何から何までつぐみファーストなのだが、あらためてピリカ目線で見ると、自分はどれほどえらそうにしているのだとへこんだ。いや、プロポーズをするまでは、つぐみはあくまで葉の雇用主であって、葉がつぐみを優先するのはあたりまえなのだけど、対等への道はドレッシングレベルから遠い。
「ピリカ、お箸の持ちかたちがうよー。こぶしでぎゅうじゃなくて、こう」
「だって、むずかしいんだもん」
「こぶしでぎゅうのほうが持ちづらくない?」
「むずかしいよー」
「んー、冷めちゃうからしかたないか。あとで練習しようね」
和やかにしゃべっているピリカと葉を眺めつつ、つぐみは頭のなかでふたりの歳を計算する。葉は三月に二十四歳になるが、確か十八歳で施設を出たと言っていた。つまり、六年前。ピリカは九歳だから、ふたりは施設でほとんど一緒には暮らしていないはずだ。どうしてこんなに仲良いのだろう。
「ふふっ、俺がおしめ替えてたのに、ピリカおっきくなったよね」
「そ、そういうのは、セクハラだから!」
ピリカは不満そうに口をへの字に曲げた。
「ピリカさんと葉くんは、どれくらい一緒に暮らしてたの?」
「んー、三年くらい? ピリカはちいさかったし、ぜんぜん覚えてないよ」
「ピリカ、葉くんのこと、最初、ぎょうしゃさんだと思ってたもん。電球かえたり、水道なおしたりしてるから」
「うちの施設、いいとこなんだけど、お金がないんだよねえ……」
ため息をつく葉を見て、つまり電球を替えたり、水道管を直しに帰っていたんだ施設、とつぐみは内心びっくりしていた。ぜんぜん知らなかった。しかも年にいっぺんとかいうレベルじゃなく、ピリカに慕われるような回数。
「でも、葉くん、おうちでもぎょうしゃさんみたいだよね」
煮込みハンバーグをもぐもぐ食べつつ、ピリカが言った。
「おそうじして、ごはんつくって、おふろ用意してる。葉くんの嫁は何もしてないね」
いきなり矛先を向けられ、つぐみは米粉パンを落としかけた。
「そ、それは……」
「ちがうちがう、ピリカ。つぐみさんはすごい絵描きさんで、ばりばり仕事してるんだから。このおうちだって、つぐみさんのもので、俺はそこに住まわせてもらってるんだから、家のおしごとをするのはあたりまえなんだよ」
「ふうーん」
ほんとうかな?という目で見つめられ、なんとなく後ろめたい気分になって目をそらす。べつにピリカがそういうつもりで言ったんじゃないのはわかっているけれど、三千万円をぽんと渡して、結婚してなんて言った自分を見透かされているみたいで、後ろ暗さに駆られるのだ。
ほんとうは葉が大事に想っている「いもうと」なら仲良くしたい。でも、つぐみは葉とちがって、ひととの距離の詰めかたがわからないし、どうやって仲良くなったらいいのかもわからない。どころか、どちらかというと苦手だ、と思ってしまっている自分がいる。
情けなくなって、しょんぼりと息をついた。
「なんだかごめんね。いきなりでびっくりしたでしょ」
おなかいっぱいになると、ピリカはうとうとしはじめたので、葉はピリカに歯磨きをさせて、自分の部屋へと連れて行った。お風呂はごはんのまえに入れていたらしい。
洗いものをする葉のとなりで、つぐみは手巾を持ってお皿拭きをする。いつもはやらないくせに、急にお皿拭きを手伝うあたり、我ながら現金である。
「ううん。びっくりはしたけどべつに……。ピリカさんは葉くんがすきなんだね」
「どうかなー。ときどきお菓子持ってやってくるから、いいやつそうに見えてるだけだと思うよ」
「施設、ときどき戻ってるの?」
「うん。数か月にいっぺんくらいだけど、老朽化がひどいんだよね。戻るたび、園長せんせーにドアあけづらいの直してとか、防水テープ貼ってとか、いろいろいわれる。たぶん、半分くらいの子に俺、業者さんだって思われてる」
そういえば、さっきもそんなことを言っていた。
くすくすわらう葉の顔に心が和んで、つぐみも表情をゆるめた。
「この近くなんだっけ?」
「あ、ええと……ううん。習志野のほう」
だとしたら結構遠い。
きゅっと蛇口を締めた葉が「手伝うー」と言って、拭き終えたお皿を食器棚に戻す。へんなところで話が切れた気がして、すこし考え、あ、とつぐみはきづいた。
習志野は葉のもともとの家があった場所だ。
家のそばにある川で、葉の父親の
(そうか、施設に帰っているんじゃなくて……)
どうして施設に戻ったときの話をつぐみにしないのだろうとふしぎに思っていたのだけど、そうではなく、たぶん別の用事を済ませたあと、ついでに施設にも寄っていたにすぎないのだ。
(お墓……)
つぐみはじわじわと羞恥で身体が熱くなるのを感じた。祖父の
考えたことがなかった自分にも、あたりまえのように口にしない葉にも少なからずショックを受ける。つぐみがそうしてと言ったわけではないのだが、この家において奏の話はタブーになっていて、葉は決して自分の家族のことをつぐみに話そうとはしない。遅い時間に帰宅した奏に、おかえりなさいと無邪気に駆け寄っている葉のすがたは、今はつぐみの記憶のなかで再生されるだけだ。
葉は奏のことを今どんなふうに思っているんだろう……。
胸がせつなくなってきたので、つぐみはお皿をしまっている葉の背中にくっついた。
「わ、どうかした?」
お皿を置いてから、葉が尋ねてくる。
「なんでもない」
なんと切り出したらいいかわからなくて、つぐみは首を振った。何も言えないわたしでごめんなさい、と思ったけれど、つぐみが謝ると葉は余計困惑するだけだろう。
「えと……あ、お風呂いっしょにはいる?」
「ええっ」
このあいだ、聞く耳を持たずに「無理、無理」と断ってしまったので、代わりのつもりで言ったのだが、葉はものすごくびっくりしたみたいな声を上げた。
「いや、いいよ!? どうしたのつぐちゃん、ねむいの!?」
自分のほうは甘い声で誘ってきたくせに、つぐみが言うと眠い認定するのはなぜなのだ。湿っぽかった気持ちがちょっとどこかに行って、つぐみはむっと顔をしかめる。
「葉くんが先に言ったのに」
「それは……そうですけども……」
葉はおなかに回ったつぐみの手に手を重ねながら、「でも無理……」とごにょごにょと言った。
「だって、入っておしまいにならないし……小学生がそばで寝てるし! 園長せんせい怒るとこわいし……」
言われてはじめて、そうか、お風呂に入るだけじゃないんだ、きっとあまり口にできないようなことするんだ、ときづいて、顔にばーっと熱が集まってくる。つぐみはよくわかってなかったので、ほんとうに並んでお風呂に入るのかと思っていたのだ。それだって死ぬほど恥ずかしいので断ったのだけど。
――すごくはしたないことを言った気がする!
「ごめんなさい。今のなしにして……」
葉から離れて、顔を手で覆っていると、「えっ、なしなの」とちょっと残念そうに葉が言った。
「なし、なし」
「えー、無理の次はなしかー」
言葉のわりに楽しがっているようすで、葉はつぐみの身体にふんわり腕を回した。
「ふふっ、頬が熱い」
「だって恥ずかしいよ……」
「そう? じゃあ、次は一緒に入ろうね」
「文脈がつながってないから」
甘いわらい声が鼓膜をふるわせる。
声から匂い立つような愛情に胸がぎゅうと締めつけられた。でも、ほんとうにそうなのか、確証はない。つぐみは葉のことしかすきになったことがないし、なにもかも、葉としかしたことがないから、比べようがないのだ。それに葉はつぐみのことをたくさんかわいいとは言ってくれるけれど、すきだと言ったことは一度もないし。
どれくらいわたしのこと、大事に想ってくれているのだろう。
――お願い、もう一度わたしと結婚して。ただし三千万円はなしで。
そう訴えて、ぐらつくくらいにはすきになってもらえているのだろうか。
わからない。ひとの気持ちがスコープで見通せたらいいのに。
「今日はお仕事もうないの?」
「うん。もう遅いし、あしたからがんばる」
「そっか。じゃあもうちょっとだけ、こうしてていい?」
囁かれると、つぐみの心はまたふわふわした綿飴みたいに変えられてしまう。
答える代わりに、軽く爪先立ちして、葉の額にちょこんとくちづけを落とした。
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