二 奥さんとちび姑の襲来 (1)
最近のつぐみは早寝早起きが趣味だ。
まえは絵を描くことがつぐみの生活のすべてで、筆が乗っていれば、夜が明けるまで描いていたし、そのぶん昼間に寝ていたり、夕方から起きだしたり、日によってまちまちだった。最近は
早寝をすると、自然と早起きすることができて、とくに葉よりも早く起きられた朝は至福だった。すぐそばで寝息を立てている葉の寝顔を眺めることができるのだ。
「……もうたべれないよー……キリンはおおきいし……」
むにゃむにゃとおかしな寝言を言っている葉にふふっとわらい、つぐみは葉を起こさないように小ぶりのスケッチブックを引き寄せた。思いついたモチーフがあったときにスケッチをしているネタ帳みたいなものだ。
ベッドに腹ばいになって、葉の寝顔を描いていると、外の鳥たちのさえずりや、新聞配達のバイク音、セットした炊飯器のお米を炊く音が聞こえてきて、つぐみは口元に笑みをのせた。なんてのどかで、あたたかな音なんだろう。いつまでも聞いていたくなる。
「ええ、なんでキリン食べちゃうの?」
途方に暮れたような声を上げて、葉が目を覚ました。
もうすこし寝顔を見ていたかったのに、とつぐみはちょっと残念な気持ちになる。
「おはよう。キリンの夢見てたの?」
「え、キリン? あーおはようー」
まだふにゃふにゃした声で応えたあと、葉はつぐみの手元のスケッチブックにきづいて首を傾げる。
「なに描いてるの?」
「君の寝顔」
「えぇ?」
つぐみの手元をのぞきこみ、「すごいあほ面……」とショックを受けた顔をする。
「どうして? かわいいのに」
「かわいいって言われてもうれしくないよー。眠ってるとき描くのわるいこだー」
仕返しとばかりに葉がつぐみの脇腹をくすぐってくる。
脇腹をくすぐられるのがつぐみは弱い。やだやだ、と逃げようとするのだけど、すぐに捕まって、わらい声が止まらなくなった。声を上げてわらうのは、はしたないことのはずなのに、葉といると簡単に我慢できなくなってしまう。
もう、と涙目で軽く睨むと、ごめんなさい、とぜんぜんごめんなさいと思っていないわらいまじりの声で、腕を解いた葉がつぐみにくちづけてきた。こうなるともう、ぜんぜんつぐみは葉には勝てないのだ。
*…*…*
妹のひばりから連絡が入ったのは、バレンタインが一週間後に迫り、葉に手作りのチョコレートをあげようか、どこかのブランドからチョコを取り寄せるか、悩んでいた頃だった。
ちなみに去年は、葉との距離感がまだつかみきれず、いきなりチョコレートを渡すのも重い気がして、結局バレンタインが過ぎてからきっかり一週間後に、今思い出したというふうに有名ブランドのトリュフを渡した。無論、全世界の叡智を借りて、二週間悩み抜いたすえの品である。
今年はそういう小細工はせずにバレンタイン当日にちゃんとあげるつもりだ。
だから、ひばりから連絡が入ったとき、つぐみはこれ幸いにと訊いた。
「やっぱり、サロン・ド・ペガサスのプラリネよりは、ぶくぶく堂のほうじ茶生チョコのほうが葉くんはすきかな?」
『――いったい何の話?』
受話器越しにこれみよがしに息をつく気配がした。
気を取り直して、つぐみは尋ねる。
「ひばちゃんは律くんにどんなチョコをあげるの?」
『律? なんでわたしが律にチョコなんかあげなくちゃならないの?』
「だって、バレンタインデー」
言われて思い出したようすで『あー、お菓子メーカーのイベントね』と淡白にうなずく。
『いいのよ、あいつどうせ、同僚に山ほどもらってるんだから』
つぐみは葉が職場でチョコをもらってきたら、きっとジェラシーの炎を燃やすにちがいないけれど、ひばりのほうはあっさりしたものだった。どころか、『そんな話は置いておいて』とそんな話扱いされる。
『おばあさまの喜寿が来月なんだけど』
「わたしは行かないよ」
土地の権利書を得た以上、もう
そうだろうけれど、とつぶやくひばりはたぶん顔をしかめている。
『おばあさまに渡すプレゼントを買いに行くつもりなの。だから、ねえさまも来て』
「え?」
『ねえさまも来て。一緒に選んでほしいのよ』
歯切れ悪くつぶやくひばりがめずらしくて、『聞いてる?』とすこし苛立った声で促されるまでつぐみはきょとんとしていた。
ちょうど依頼されていた作品について対面の打ち合わせが都心であったので、その帰りにひばりとは落ち合うことにした。普段はweb会議ツールを使った打ち合わせをメインにしているのだが、どうしても必要なときは先方に自分の身体の事情を説明したうえで場所の設定をしてもらう。
最近のつぐみは少々多忙だ。
ハルカゼアートアワードは最優秀賞を逃したけれど、絵本の挿絵のほかにも、それまでつきあいがなかった方面からいくつか依頼が入った。それに美術雑誌のインタビューが何件か。もちろん、すでに受けていた依頼品の制作もある。葉にあわせて早寝早起きのスタイルに変えてなかったら、たちまち生活リズムがくるって、身体を壊していたかもしれない。
――どうして今になって、顔を出されるようになったんですか?
インタビューでときどき訊かれることがある。
つぐみは性別・年齢・出身すべてが非公開の画家だった。今も詳細なプロフィールは明かしてないけれど、性別や年齢はほんとうのことを伝えているし、なによりつぐみは自ら公の場に立つようになった。
ずっとつぐみは、隠れていれば、こわいことは過ぎ去っていくと思っていたのだ。息をひそめて、存在を消して、自分なんていないようにふるまっていれば、これ以上傷つかずに済むと。でも、そういう生きかたをしている限り、わたしは何もできないままなんだって、葉の叔母の一件があったとききづいた。
――もう逃げないようにするって決めたので。
わたしは絵を描いて生きていく。
「祝福」を描いたとき、つぐみははじめてちゃんと腹をくくったのだ。
絵しか描けないからじゃない。
わたしは絵を描いて、生きる。画家になる。
だからもう、目を瞑って、耳を塞いで、隠れているのはおしまいにする。
ひばりは大人びたベージュのトレンチコートを着て、駅の広場でスマホをいじっていた。つぐみは数年前から使っている白のダッフルコートを着ているので、自分のほうが子どもっぽい。
「お待たせ」
「ううん。わたしも今来たとこ」
「そういえば、ひばちゃん、高校は?」
確か今日は平日だったはずだ。一度帰宅してからここまで来たのだろうか。尋ねたつぐみに「高校三年生は今は学校、登校日にしか行かないよ」と呆れたふうに言われた。
「ちなみにわたしは秋に推薦取ってるから」
「どこに決まったの?」
「青鴎女子」
千葉にある由緒正しいお嬢さま学校だ。
有名なので、さすがのつぐみも知っている。学費も高いけれど、学力も必要で、推薦入学を決めたとしたら、ひばりはかなり成績優秀だったということだ。さらに品行方正。この子はほんとうに何事にも手を抜かない。
「おめでとう」
「まあどうせ、四年間、人脈をつくるためだけの大学だけど」
「学部は?」
「社会学」
ひばりは学部の教授が書いたという著作を何冊か挙げたが、つぐみは知らなかった。首を傾げたつぐみに、熱が入った説明を続けたあと、しまった、という顔をする。社会学、興味あるんだ、ときづいて、つぐみは目を細める。ひばりなら手を抜かずに一生懸命勉強するだろうから、きっともっとすきになるだろう。
「喜寿祝い、ひばりはどんなものを考えてるの?」
「おばあさまなら、お茶の道具かなって思ったんだけど」
「いいんじゃない?」
「適当」
顔をしかめつつ、「ここ、おばあさまがときどき使っている道具のお店みたいだから」とひばりはスマホに表示した店を見せた。駅から徒歩五分程度の場所らしいので、並んで歩きだす。きちんとお店まで調べてきているのが何ともひばりらしい。
「お店のドア、自動ドアみたいだから。ねえさま、自動ドアは平気なんだよね?」
「うん」
以前会ったときに話したことをひばりは覚えていてくれたようだ。
話しながらスマホを確認して、「ここみたい」とひばりが店を示した。
落とされた照明の下、茶碗をはじめとした茶道具がさほど大きくはない店内に並べられている。
店内をすこし見たあと、「これとかどう?」とひばりが
物心ついたときから、鷺子は鹿名田家に厳然と君臨していた。
小心者の父は基本的に鷺子の言いなりだったし、よそから嫁いできた母は始終萎縮していた。唯一、祖父の
鷺子は幼いつぐみにも、子どもだからといって甘やかしたりは絶対にしなかった。そして誘拐事件のときはつぐみよりも鹿名田が経営する銀行のことを考えて身代金を用意せず、そのあとできそこないになったつぐみに対しては無関心だった。鷺子にしてみれば、つぐみは鹿名田家という絶対的な機構から脱落したのだ。
そのことに心がぐちゃぐちゃに痛んでいたときもあったけれど、今は目が覚めたように熱が引いている。鹿名田家を出て、二年以上が経つからだろうか。土地権利書を得たから。葉と出会ったから。理由はいくつもあって、どれもそうだと思ったし、過去に鷺子がつぐみにしたことも、鷺子の人間性も変わっていないけれど、昔ほどには過敏になっていないことにきづく。
こういう、ぱさぱさの砂地みたいな感慨が、ひとをゆるすってことなんだろうか。でも記憶のなかの鷺子は、なぜわたしがあなたにゆるされなくてはならないの、とつめたく言い放ちそうだ。つぐみもそう思う。
「この南天の柄のはどうかな」
輪島塗のとなりに並んだ黒漆に金で南天柄が描かれた棗を示す。
「南天は古くから厄除けにもなるし……鹿名田の庭にも植えられてたよ」
「そうだっけ」
「うん、そう」
ふうん、と黙考したのち、「……じゃあ、そうする」とうなずき、ひばりは店員を呼んだ。
買いものを終えたあと、「御礼はどうしたらいい?」とひばりが訊いてきたので、「それはいいけど……」と言いつつ、近くのホテルで催されているスイーツビュッフェを指した。お店に向かう途中、春の苺フェアの文字を見つけて、気になっていたのだ。と言って、ひとりで入るほどつぐみは勇気がない。
ホテルのラウンジには、各種の苺に加え、苺ムース、ショートケーキ、苺タルト、杏仁豆腐の苺ソースがけ、苺のパンケーキ、苺ロール、さらには苺シェイク、フレッシュな苺ジュース、苺の香りづけがされた紅茶ととにかく苺尽くしだった。
「苺が夢に出てきそう」とげんなりしつつも、ひばりはお皿に結構な量のスイーツをのせて戻ってくる。
「ねえさまはなに取ってきたの?」
「苺サンドイッチ」
「え、それだけ?」
「苺サンドイッチがすきだから、苺サンドイッチをたくさん食べたかったの」
「うわ。性格……」
ひばりは呆れた顔をした。
フレッシュな苺に甘さひかえめのホイップクリームを挟んだサンドイッチは、シンプルだけど、癖になるおいしさだ。これならつぐみでも作れるかもしれない。近所のスーパーでパックの苺と生クリームを買って、かもめベーカリーでサンドイッチ用のパンを買って。レシピは全世界の叡智を借りる。
多少うまくできなくても、きっと葉はおいしそうにサンドイッチを食べてくれるだろう。そういうことを考えているとき、つぐみはくすぐったいくらい心がふわふわになる。
「なに。にやにやして」
「え、わたし、にやにやしてた?」
「どうせあいつのことでも考えていたんでしょ」
息をつくひばりに、否定しきることもできずに顎を引く。それから、サンドイッチと一緒に持ってきた苺の香りづけがされた紅茶に目を落とした。
「あのね、ひばちゃん。その……わたし、今からおかしなことを言うかもしれないんだけど、」
「ねえさまは普段からへんだから、いまさらだよ」
「そ、そっか。そうだよね」
結構辛辣なことを言われたはずなのに、自分でも納得してしまった。
「……最近気になっていることがあって、ちがっていたらそう言ってほしいんだけど」
「うん、なに?」
「葉くんはわたしのこと、すきなんだと思う……?」
「…………」
「あの、すきというのは、れ、れんあい、恋愛的な意味で、なんだけど」
ひばりは苺のスムージーを手にしたまま無表情になった。
そんなに呆れかえられるようなことを言っただろうかと、頬に熱が集まってくる。
でも、近頃の葉は以前にも増して言うこともすることも甘くて、互いに想いあっている恋人みたいな気持ちになってきてしまうのだ。
反面、つぐみはときどき、そう思っているのが自分だけだったらどうしようとか、自分に経験がないせいで、たいしたことでもないのに勘違いしているのかもしれないとか、あれこれ考えて、そのたびにひやっとしてしまう。
かといって葉に、わたしのことどう思っているの? なんてとても訊けない。というか、葉は一緒にいると、気持ちをふわふわにさせる天才なので、訊くのを忘れる。
「もちろん、ちょっとかもしれないし、ひばちゃんと律くんのあいだにあるようなものとはちがうかもしれないんだけど……でも、ぜんぜんじゃなくて、ちょっとはそうなのかなって、そうじゃないといろいろおかしいかなって……。けど、葉くんはやさしいから、わたしが都合がいいように考えているだけかもしれなくて、だったら恥ずかしすぎて死んでしまう……」
言っているうちにどんどん顔が熱くなって、ほんとうに恥ずかしすぎて消えたくなってきた。「ごめん」と顔を手で覆って、つぐみはうなだれた。
「なんでもない。今の聞かなかったことにして……」
「…………」
ずずっと苺のスムージーを行儀悪く啜る音が聞こえたので、つぐみは指のあいだから、おそるおそるひばりを見た。ひばりは頬杖をつき、なんだか不機嫌そうな顔をしてスムージーのストローを噛んでいる。ひばりなら冷静に指摘してくれるんじゃないかと期待して話したのだが、つぐみがおかしなことばかり言うから機嫌を損ねたのだろうか。
「……ねえ、ちょっとは何か言って」
「ねえさまがあほすぎて、言葉をなくしてたんだよ。あと律とわたしはそんなんじゃない」
「そんなことはないでしょう」
「なんでそこは確信もって言うのに、逆は自信ないかな」
これみよがしに肩をすくめ、ひばりは空にしたコップをテーブルに置いた。
「すきだったらどうするの?」
「え?」
「あいつが恋愛的な意味でねえさまのことをすきだったら、契約解消して恋愛結婚するの? 三千万円も返してもらう?」
あらためて突きつけられると、そんな意味じゃ、と心が逃げを打つ。
でも、そんな意味だ。
いまさら三千万を返してもらおうとは思わない。けれど、三千万円を担保に愛を求めているかぎり、葉とは対価を越えた関係を築くことができない。
(なら、ひばりの言うとおり契約を解消する……?)
こわい。自信がない。自分がお金なしに、愛される存在なのか。
葉はやさしい。でもやっぱり、お金からはじまった関係だから、なにもなくなったら、べつの魅力的な女の子とそういう関係を築きたくなるかもしれない。葉はつぐみが捨てるまではどこにもいかないって言ってくれたけれど、それはヒモが前提のヒモ道の話をしたのであって、ヒモでなくなってしまったら、捨てられるのは今度はつぐみかもしれない。でも……。
――このひとの家族はわたしです。
葉の叔母にそう宣言したとき、視界がひらけるようにきづいた。
わたしは彼のほんとうの家族になりたいのだ。
友人でも恋人でも、ましてや契約夫でもなく、わたしは彼と家族になりたいのだ。
ふしぎだった。つぐみは鷺子とも両親とも、家族らしい家族であったことなどない。家族ということばで想起するのは、むしろ、あの狭いおんぼろアパートで、おじさんと葉と一枚の布団でくっつきあって眠った記憶だ。毎日が小舟で揺られるように心もとなかったけれど、背中越しに感じる葉の体温だけがつぐみの心をつなぎとめていた。あの細い糸のような、だけどあたたかなもの。
つぐみは葉が落ち込んでいたら、横で背中を擦って、だいじょうぶ?って訊きたい。いいことがあったら、一緒に喜びたい。かなしいときは一緒にうずくまりたいし、立ち向かうときはとなりで手をつないでいたい。毎日一緒にごはんを食べて、くだらない話をたくさんして、そして、夜は一緒に眠りたい。わたしは君の雇用主じゃなくて、家族でいたいって言えるように――なりたい。
それはとても勇気が要ることだけど……。
「わたし、がんばる」
姿勢を正して、つぐみは言った。
「葉くんにちゃんともう一度、プロポーズする」
志高く宣言をしたつもりだったのに、「ねえさまってずれてるんだよねえ……」とひばりは呆れたように嘆息した。
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