六 奥さんとふたりの聖夜 (1)

「わあ……」


 車を止めた駐車場から海岸に下りると、嗅ぎ慣れない磯の香りがした。潮風が吹いてきて、つぐみはオフホワイトのダッフルコートの襟をかき寄せる。


「カモメいっぱい飛んでるねえ」


 となりを歩くようが空を飛び交う海鳥を仰いで言った。

 差し出された手に手を重ね、指を絡めてつなぎあう。葉のおおきな手がつぐみはすきだ。目が合って、どちらともなくわらいあった。


久瀬くぜくんはこのあたりに来たことあるの?」

「うん。配送会社で働いてたとき、こっち方面に倉庫があったから、ときどき」

「え、じゃあトラックの運転したの?」

「したよー。トラックは荷物積んでるときより積んでないときのほうがこわい。前と後ろの重さがちがくて、横風吹くとぐらっとするから」


 そういうものなのか、とつぐみは驚く。言われてみると、荷物を積んでいないトラックって前だけが重そうだ。

 白い砂浜は歩くとさくさくと足跡がつく。

 きれいな足跡をつけてみたくて、ぎゅうと体重をかけて砂を踏んでいると、となりで葉もおなじように足跡をつけていた。おおきい足跡とちいさい足跡が一個ずつ海浜に生まれる。


「車、大きいほうが運転するの楽しい?」


 さっきの続きでまた尋ねると、「んー、どうかなあ……」と葉が考え込んだ。

 最近のつぐみはたくさん葉に質問する。前はあれもこれも葉に訊くのはいけないことのような気がしていた。でもそんなことはなくて、つぐみが口にするどんな些細な質問にも、葉はちゃんと答えてくれる。

 葉のはなしをいくらでもわたしは聞いていいんだって思うと、また固い殻が剥がれ落ちてふわふわの綿飴になった。でもそれをもうこわいとは思わない。内側がまえのつぐみとちがうもので満たされて、自分がどんどん変わってしまっても、なにも恐ろしいことはないのだ。きのうもあすも、今日だって、つぐみは葉がすきで、それだけはずっと変わらないのだから、ほかのものがいくら変わってももうこわくない。


 今日は、鎌倉にある青浦礼拝堂の下見に葉と来た。

 かねてから鮫島さめじまを通して、礼拝堂に飾る絵を描いてくれないかと打診を受けていた。「花と葉シリーズ」が描けないなら意味がないとずっと迷っていたけれど、ようやく話を聞くだけ聞いてみようという気持ちになれた。

 すでに一度、鮫島とともに教会の牧師さんとの顔合わせは済んでいて、足を運ぶのは今日で二度目だ。ハルカゼアートアワードの制作がやっと終わったつぐみに「じゃあ、お祝いにつぐみさんの好きなとこ行こうよ」と葉が誘ってくれたので、「鎌倉の海に行きたい」と言った。

 青浦礼拝堂は大正期に建てられた建築を改装した建物で、白亜の壁がエメラルドグリーンの海によく映える。観光客が多い由比ガ浜や材木座からは離れているし、心が落ち着く場所だったので、葉にも見せたくなったのだ。


 葉の叔母の早苗さなえは、先日の喫茶店での一件以来、葉のまえには現れていないらしい。

 弁護士っていうのが効いたのかも、とあのあと葉は苦笑していた。

 面倒に思ったのかも、そういうひとだからと。

 葉が早苗に向ける眼差しはあきらめに似た平坦さがあって、長いあいだのふたりの関係が察せられた。気休めなんてとても言えず、そう、とつぐみがただ顎を引くと、葉はその話はおしまいにしてしまって、手製のスイートポテトに和紅茶をつけて出してきた。葉がはじめて挑戦したというスイートポテトは、市販のものよりお芋がごろっと入っていて、バターと砂糖が利いていておいしかった。


 つぐみはずっと葉のことをおおらかで、屈託がないひとだと思っていた。

 子どもの頃出会った葉がそうだったからだ。

 いまも変わらない。葉はおおらかで、屈託がなくて、やさしい。

 でも、さびしいひとだ。

 お酒に酔って帰ってきたとき、葉は自分のことを覚えていてほしいとむにゃむにゃした声で何度も言っていた。覚えているに決まっている。でも、葉の目に映る世界では、葉は誰にも覚えられていないのだ。

 そのことにきづいたとき、つぐみは目のまえの男の子にかなしいくらいのさみしさを覚えて、そして葉はきっとさみしいということにもきづいていないんだってわかって、また胸が痛くなった。つぐみがそうであるように、葉だって生きるのがうまいわけではたぶんないのだ。

 ふんわりとそれを理解したとき、つぐみは今までのように乱暴になんでも葉にあげるんじゃなくて、ちゃんとそのさみしさが埋まるものをあげたいと思った。それがどんなものなのかはつぐみにもまだわからない。だから、たくさん葉の話を聞いている。葉のことをひとつでも知りたいから、質問している。


「……わたしの絵」

「うん?」

「ハルカゼ展で最優秀賞はとれないかも」


 すこしまえに描きあげて、ハルカゼ展に送った絵のことを思い返す。


「こんなのツグミじゃないって言われるかも」


 早苗にまつわる騒動がひとまず落ち着いて、しばらくしたあと、あらためて描きかけだった自分の絵を見つめて、わたしが描きたいものはもうこれじゃないんだときづいた。

 永久凍土のように、時を止めて閉じ込められた、わたしのうつくしくてつめたい世界。

 これはもう、つぐみのものじゃない。

 葉に溶かされてなくなってしまった。過去のつぐみのぬけがらだ。

 それを認めるのはとてもこわかった。

 こわくて、こんなにたくさん下図のなりそこないを作っていたのだときづいた。

 もうつぐみには描けない。かつてつぐみだったものはここにいない。

 この絶対的なうつくしさを武器に、それだけを信じて描いてきたのに、いつの間にか、つぐみのなかからなくなってしまった。じゃあ、どうやって……どうやって描いたらいいんだろう。描いて、生きていったらいいんだろう。

 心もとなさに泣きそうになりながら、必死に探して、悩んで、今の自分が手にしているものを不格好でも描いた。描いたけれど、それはツグミの絵としては平凡だったと思う。期待外れになったと思う。離れていくひともたくさんいると思う。

 それでもわたしは……。


「それでも、わたしはわたしの絵を描いて、生きる」

「うん」


 手をつないで歩いているうちに教会のまえについていた。

 お金稼げなくなったらどうしよう、とちょっと深刻な顔をしていると、「だいじょうぶだよー」と葉はつないだ手をぶんと大きく振った。


「君の絵を必要とするひとたちに、また会えるよ」


 閉まっていた礼拝堂のドアを葉がノックして、外から押し開く。

 鳥が描かれたステンドグラス越しに冬の陽が射し込んで、葉の肩のあたりにあたる。白いひかりがまるで羽のように見えて、つぐみは目を細めた。


 ――わたしのミューズ。運命の男。


 彼はわたしのすべてを破壊し、そして創造する。



 *…*…*


 

 クリスマスイヴは駄菓子研究部のクリスマス会に顔を出した。

 打ち上げの折にはご迷惑をおかけして、と副部長さんからお呼ばれしたのだ。

 ソファにクッションを積んだビップ席に案内され、つぐみはそこではじめてお酒なるものをのんだ。血縁者が皆そうなので予想していたけれど、つぐみはまったくのザルで、途中で羽風はかぜが秘蔵のウィスキーボトルを出してきても、ロックで平然と飲み干す。ちなみに葉には一滴ものませなかった。むにゃむにゃしている葉はかわいいのでべつに酔ってもいいのだけど、帰り道が大変なので。

 ウィスキーを注ぐとき、「ハルカゼ展、俺は自信作だぜ」と羽風がにやにや言ってきた。


「さすがツグミのミューズ。グランプリ獲るかも」

「……もう貸さないよ」


 つぐみのほうはぜんぜん自信作じゃないので、ほんとうに最優秀賞は羽風が獲るかもしれない。自分が生涯のテーマに据えてきたモデルを、別の画家に描かれたうえ、上の評価をつけられる。屈辱的だけど、ハルカゼ展の作品をつくっているあいだ苦しんだときに比べたら、今はなんだか胸が凪いでいる。

 羽風は葉をどう描いたんだろう。渦巻く嫉妬のうちに、微かな興味がうずいた。


「葉はツグミを見ているときの表情がいちばんいいな」


 副部長さんとなにやら盛り上がっている葉を横目に、羽風がつぐみにだけ聞こえるように言った。どういう意味だろう。眉根を寄せたつぐみに、「愛がだだ洩れているかんじ?」とわらう。


「そ……っ」


 絶対冗談だけど、平静を装うにはつぐみは防御力不足だった。

 頬を染めたまま、精一杯羽風を睨みつける。この鳥類はやっぱりきらいだと心の底から思った。



 帰り際、部長さんからおみやげに特大のクリスマスブーツをもらった。赤いブーツのなかにはクリスマスの駄菓子がぎゅうぎゅうに詰められていてかわいい。

 最寄り駅の商店街はクリスマスソングがかかり、ちぐはぐなくらいクリスマス感が満載だった。アーケードの入口で、トナカイとサンタクロースの電飾がひかっている。葉が商店街のクリスマス福引券を持っていたので、つぐみがガラガラを回したら、またもや特大クリスマスブーツが当たった。

 都合、もうひとつ増えたクリスマスブーツをひとつずつ抱えて帰路につく。べつにイルミネーションを見に行ったわけでも、おしゃれなレストランでクリスマスディナーをしたわけでもないけれど、今日はつぐみの人生でいちばんクリスマスを満喫した気がした。


「ただいまー」


 葉は一緒に帰ったときも、家のなかに向けて「ただいま」と言う。


「つぐちゃん、まだおなかちょっとあいてる?」

「うん」


 モッズコートを脱ぎつつ訊いてきた葉に、つぐみは顎を引いた。

 今日はクリスマスイヴで、世間ではクリスマス一色だ。

 でも、つぐみにとってはちがっていて、今日はつぐみの二十歳の誕生日でもある。


 ――つぐみさん、誕生日プレゼントはなにがいい?


 すこしまえに尋ねてきた葉に、「ケーキ」とつぐみはすぐに答えた。

 葉ははじめふしぎそうに首を傾げた。


 ――ケーキは用意するよ?

 ――うん。でも、プレゼントはケーキがいいの。


 つぐみが頑なに繰り返すと、葉は「そう?」といぶかしがりつつもうなずいた。葉と食べるケーキならなんでもよかった。商店街のケーキ屋さんのでも、コンビニのカップケーキでも。


 ――誕生日はねー、おやじが一個だけ駅前のケーキ屋さんのケーキ買ってくんの。


 子どもの頃、葉に教わった。

 誕生日には、一個だけのケーキ。宝石みたいにそれはずっとつぐみの胸のなかで輝いていた。誕生日には、たった一個だけのケーキ。こんなささいな会話を葉は覚えていないだろう。でも、いいのだ。つぐみが自己満足をしたかっただけなので、葉はわかってなくていいのだ。


「じゃあ、つぐみさん。二十歳のお誕生日おめでとう」


 居間にあるちゃぶ台に、葉はお皿にのせたデコレーションケーキを置いた。

 スポンジにクリームが塗られて、苺だけでなく、キウイやみかんやパインものっている。中央にはまるいプレートがのっていて、「つぐみさんへ」とチョコレートの文字が書かれていた。


「もしかして、つくってくれたの?」

「つくりました……。つくりましたが」


 葉はめずらしく自信がなさそうにした。


「ケーキはとっても難易度が高いので、ケーキ屋さんはおろかコンビニにも勝ててないと思います……。でもそのぶん、たくさんフルーツは盛ったので! スポンジとスポンジのあいだにもどさどさ入れたので! そのへんを楽しんで」

「うん」

「あっ、蝋燭二十本立てる?」

「二十本立てたら穴だらけになっちゃうよ」

「じゃあ、二本だけ立てよ? 一本で十歳ぶん」


 ピンクのしましまの蝋燭を二本立てて、葉はライターで火をつけた。

 調子をつけてバースデーソングも歌ってくれる。去年もお祝いをしてくれたけど、こういうお祝いごとには慣れていないので、やっぱり今年も気恥ずかしい。えいっと息を吹きかけると、二本の蠟燭の炎はきれいに消えた。歌をうたっている葉のほうがはしゃいでいるし、うれしそうだ。


「あの、ありがとう。――……」


 その先の言葉を続けようとして、空ぶった。

 息を整え、つぐみはもう一度挑戦した。


「よ、葉くん。ありがとう」


 崖から飛び降りるような勇気を出してなまえを口にすると、葉はきょとんとしてつぐみを見た。


「鳥類が君を呼び捨てにするから。わたしだってなんて呼んでもいいでしょう」


 そんなつもりはないのに、またぜんぜんかわいげがない言いかたをしてしまった。

 誰よりも自分が呼びたかっただけなのに、うまく言えないのだ。


「うん」


 葉は目を細めて、ほんのり微笑んだ。


「二十歳ほんとうにおめでとう、つぐみさん」


 つぐみの勘違いじゃなければ、葉はすごくうれしいときは静かにわらう。いつも言葉をたくさん尽くしてくれるのが嘘みたいに、つもりたての雪がすぅっと音を吸い込むみたいに、果敢ないくらいに静かにわらうのだ。

 なまえを呼んだら、喜んでくれた。つぐみもうれしくて、胸がぎゅっと甘く締めつけられる。がんばって勇気を出してよかったと思った。


「……あの、葉くん」

「うん?」

「ケーキ食べようか」


 お皿を示して言うと、「あ、じゃあ小皿とナイフ持ってくる」と葉が腰を浮かせた。

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