五 旦那さんと「ここが君の帰る場所」 (5)

 叔母に連絡を取ろうとスマホをオンにしたら、催促のメッセージが入っていた。

 息をついて、このあいだの喫茶店でもう一度話したいという旨を伝える。

 あのひととの会話はうまくいった試しがないのだが、ようがどうしよう、どうしようって胃を痛ませていても、事態は何も変わらない。とりあえず葉は昔、犀川さいかわさんに教わったように、自分の希望を優先順に書き出してみることにした。


 一、つぐみさんと叔母は会わせない

 二、できる限りつぐみさんのそばにはいたい

 三、お金は貸したくない

 四、貸したくないけど、必ず返すならしかたない


 犀川さんはほかにも葉に困ったときの教えを残してくれた。

 思い出した言葉をもとにあれこれ準備して、昨晩パソコンで作ったものをプリンターで打ち出していると、めずらしく家の固定電話でつぐみが誰かと電話をしているのが見えた。受話器を持ち、深刻そうな面持ちで何度か顎を引きつつメモを取っている。「わかった。もしものときはお願い」と相手に向かって言うと、つぐみは通話を切った。


「でかけるの?」


 モッズコートを羽織った葉にきづいたつぐみが声をかけてくる。


「あ、うん。えーと、遠くのホームセンターに行ってくるから、ちょっと遅くなるかも」


 打ち出した紙を折ってボディバッグに入れると、葉はあらかじめ考えていた理由をつぐみに伝えた。なぜ遠くのホームセンターなのか訊かれたら、そこでしか買えない庭の肥料の話をするつもりだったけど、つぐみはすこし目を細めただけで「そう」と言った。


「気をつけてね」

「つぐみさんは電話?」

「うん。りつくんと」


 律というのは、つぐみの元婚約者で、今は妹のひばりの婚約者の男だ。

 夏に鹿名田かなだ家に帰ったときに、ほんのすこしだけお世話になった。しゅっとしてぱりっとした見た目にそぐわず、結構面倒見がいい。律と何を話していたんだろう、と気になったが、それ以上つぐみが話そうとしなかったので、葉は軽く顎を引くにとどめた。


「じゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい」


 スニーカーを履いていると、上がり框に立つつぐみがコートの裾を引いてきた。

 何か買ってきてほしいものとかかな?と思って振り返ると、真剣な顔つきをしたつぐみが頬にかすめるように唇を触れさせる。葉は目を瞠らせて、固まった。つぐみはよくキスしてのサインは送ってくるけど、つぐみのほうからキスをしてきたのはじめてだった。


「きょ、今日は二十一日だから……」


 つぐみは視線をさまよわせつつ、消え入りそうな声で言った。


「べつにわたしのほうから、したっていいでしょう」

「えと、はい……」


 触れられた箇所からふわふわと熱がひろがっていく。

 たぶん真っ赤になっているのがわかったので、「い、いってきます!」とつぐみと再び目が合ってしまうまえに葉は家を出た。ガラス戸を引いてから、あ、ときづいて、「鍵かけていくから」といつものように伝える。つぐみがこくんとちいさく首を振ったので、鍵を締めた。

 いったい何があったのだろう。

 つぐみがやることは、葉にはときどきまるでわからない。単にされるだけじゃなくて自分がしたっていいじゃないって気持ちになっただけかもしれないけど……。

 ただ、瞬間沸騰みたいな高揚は、家のまえのゆるやかな坂をくだって、商店街を歩く頃にはまた、すん、と落ち込んでしまっていた。自然、下がりがちになる視線を上げて、葉は深呼吸をひとつする。

 このあいだ使った喫茶店は、今日もあまり客はいないようだった。

 前回とおなじ席に座って、メニューをひらく。叔母はなかなかやってこなくて、約束の時間から三十分が過ぎた頃、ようやく喫茶店のドアベルが鳴った。


「もうなに? ここまで来るのも結構、たいへんなんだけど」

「あ、ごめんなさい……」


 つい癖で謝ってしまいつつ、メニューを叔母に差し出す。

 一瞥すると、「ハニーラテ」と前回とちがうものを叔母は頼んだ。

 従業員がハニーラテを運んでくるのを待って、「これ」とさっさと本題に切り込んでしまう。


「これ書いて」


 葉が叔母のまえに置いたのは借用書だった。

 葉から叔母が五百万円を借りる旨と、日付、返済期限と返済方法、サイン欄が印字されている。

 ――ひとにお金を貸すときは借用書を書かせること。

 役所がやっている無料法律相談で必要事項を確認して書いたから、まちがっていないはずだ。

 葉がボールペンを差し出すと、叔母はぴくりと片眉を上げた。


「なんで?」


 にわかに叔母の機嫌がわるくなったのが葉にはわかった。

 叔母が苛々とショルダーバッグから煙草の箱を取り出したので、葉は灰皿を脇に押しやった。


「叔父さんがほんとうにこまってるなら……五百万は貸す。でも、必ず返して。借用書にもサインして。あと、一年前に貸した一千万も返して。早苗さなえさんが無視するなら、俺も叔父さんのほうにもう一度話す。それと俺は煙草、めのまえで吸われるのすきじゃないから、ここでは吸わないで」


 がんばって自分の要求は言った。

 頭がごちゃごちゃして言えなくならないように何度も練習したのだ。

 叔母の言いなりにはならない。つぐみを絶対に傷つけられたくない。でも自分も……自分だって、傷つけられたくない。傷つけられてもなんでもしかたないと思うような生き方をするのは、いやだ。


「それで、あなた、ここにサインしろってそう言っているの?」

「……そうだよ」


 ボールペンをくるっと手の中で回して、「ふうん」と叔母は言った。

 平坦なうなずきかただった。


「いいけど」


 あっさり了承されて、ほっと安堵する。

 ボールペンが止まって、叔母はそれを折りあとのついた紙のうえに置いた。


「でもあなたってほんとう、自分に都合のわるいことはぜんぶ忘れちゃうよね?」


 まさしく叔母に対して思っていたことを言われて、葉はぽかんとした。

 煙草の箱から一本を引き抜き、叔母はライターで火をつける。葉の手から灰皿を取り返した。


「誘拐犯の息子を引き取って育てたんだよ、わたしたちは。あなた、わたしたちが引き取らなかったら、そのへんで野垂れ死んでいたんだよ。それなのに、恩知らずなんじゃない? すこしくらい、わたしたちに返してくれたっていいでしょう。そういうこと、ふつうなら思わない?」

「お、思わないよ……」

「じゃあ、あなたもそうさんとおなじなんでしょうね」


 呆れたふうに叔母は息をついた。

 おやじと一緒ってなんだ。

 はんざいしゃ……ってこと? 

 投げつけられた言葉にびっくりして、思考停止する。


「父親が誘拐犯だって、職場に知られたらあなた困るでしょう? というか、近所に知られても困るよね? みんな手のひら返したようにあなたから離れていく。ひとってそういうものよ。いやでしょう。困るよね?」


 困るとは……言いたくない。

 おやじがしたこと、わるいことだけど、だから縁を切りたいとか、家族だったことをなかったことにしてしまいたいとか、そういうふうには思わない。誰かにそうなのかと訊かれたら、俺はちゃんとこたえたい。そうなのだと。

 でも、葉にも後ろめたさはあって、昔からきっちり保険はかけている。本郷ほんごう姓は使っていない。それはやっぱり結局、知っているからだ。どんなにやさしく見えるひとでも、手のひら返したように離れていく。去られるのはこわい。それでも前を向いて自分がただしいと思うことができるひとは、きっと勇気があるひとなんだろう。葉はそうじゃない。


「――それで? これ、やっぱりサインしなくちゃいけない?」


 借用書を葉のほうへ押しやり、叔母はペンを葉に差し出した。

 うなずけ、と葉は自分に念じる。

 サインをさせろ。そのためにここに来たんだろう。

 でも、叔母は「奏のことが職場に知られたら」と言った。「近所に知られたら」とも言った。ほんとうにそんな嫌がらせみたいなこと、する気なのだろうか。

 考えると、さあっと血の気が引いていく。そういう自分にうんざりとする。

 かまわない、かまわないって言え。どうせ、どこもかりそめの居場所だ。いつかはなくなる。だから、今なくなったって……なくなったって……。でも……。

 思考と感情が入り乱れて、息が苦しくなってくる。

 めのまえで、叔母が指に挟んだ煙草が燃えていた。

 先端から煤が崩れて、灰皿に落ちる。熱い、と思って泣きそうになる。


「葉」


 煙草の先端が灰皿に押しつけられるまえに、横から伸びた手がぱしりと叔母の腕をつかんだ。


「やめてください」


 叔母の指に挟まれていた煙草を灰皿に落とし、つぐみはお冷の水をそこにかけて、火を消した。突然腕をつかんできたつぐみを叔母が怪訝そうに見つめる。


「あなた……」

「あなたが今このひとにしていることは恐喝です。これ以上続けるなら、警察に連絡しますから」

「は? なに言って――」

「会話も、ぜんぶ録ってますから」


 つぐみはおもむろに葉のコートのポケットに手を突っ込んで、手のひらサイズのレコーダーを取り出した。叔母と同様に「えっ」と葉もびっくりする。いつの間にそんなもの入れられていたんだ? 録音中のボタンが点滅していたレコーダーを切り、保存をかけると、つぐみはそれを自分のポシェットにしまった。


「つぐちゃん、なんで……」

「君は、このひとにお金を払う必要はない」


 つぐみは机のうえにのっていた借用書をふたつに破った。

 それから、叔母のほうへくるりと向き直る。


「あと一千万も返してください。可及的速やかに。知人に金銭問題に強い弁護士を紹介してもらったので、今みたいなことを続けるなら争いますから」

「争うって……」


 叔母は呆けたようすでわらった。


「葉はわたしの家族よ」

「でたらめを言わないで」


 ぴしゃりと言い返し、つぐみはテーブルに手をついた。


「このひとの家族は、わたしです。あなたじゃない」


 窓から射し込むひかりのせいか、輪郭をほの白くふちどられたつぐみはいっそ神々しいほどだった。つぐみにつめたく見据えられ、叔母は舌打ちをした。


「……帰る」


 ショルダーバッグと外套を持って立ち上がろうとした叔母に、「待って」と低い声でつぐみが制止をかけた。


「飲みものの代金、払っていってください。自分の分」


 頬をゆがめた叔母は投げつけるように五百円を置いた。



 

「つぐみさん、なんでここ……」


 叔母が店から出て行くのを見送ると、つぐみはちいさく息をつく。ポシェットに添えられた手が指先が白くなるほどこぶしを作ってふるえているのにきづき、葉はつぐみの手を軽く握った。


「とりあえずここ出ようか」


 ドアが閉まっている逃げ場がない閉鎖空間が、つぐみは得意ではないはずだ。

 自分の分の会計を済ませて、喫茶店の重い扉をひらく。そうしながら、つぐみはこの重い扉をどうやってひらいたのだろうとふしぎに思った。それに葉がここにいるって、どうしてわかったのだろう。どころか、つぐみは葉のコートにレコーダーを忍ばせてすらいたのだ。


「君がずっとおかしかったから……」


 つぐみはわずかに乱れた呼吸を整えて、ぽつりと言った。


「今日ももしかしたらそうなんじゃないかって、裏戸から出て、こっそり追いかけたの」

「でも、喫茶店のドアも」

「そんなの、そのあたりを歩いているひとに言えば、あけてもらえるから」


 心外そうにつぐみは言った。そんなくだらないことを訊くなと言いたげだった。


「あれは君の義理の叔母さんだよね?」


 つぐみは葉の手を握り返しながら、まっすぐ見上げてきた。


「君はあのひとに不当にお金を要求されていた。それでいいんだよね?」

「……はい」


 あらためて口にすると、それはなんだかすごく恥ずかしいことのように思えた。

 つぐみが言うとおり、葉が払う必要なんかない。でも、言えなかった。

 血がつながっていなくても、叔母だから。行く場所がなかった葉を引き取って育ててくれたのは嘘じゃないから。父親のことで迷惑をかけたのはきっとほんとうだから……。たくさんの後ろめたさが、そう言ってはならないような気にさせていた。


「わかった」


 つぐみはそれ以上は追求せずに顎を引いた。


「大丈夫。君のことはわたしが守るから。大丈夫だからね」


 両手をつなぐようにして見つめられたとき、こめかみにじんわり熱がひろがった。

 ああ、扉のまえで泣きだしそうな顔をしてふるえていた女の子が、ここまで走ってきてくれたのか。つぐみがひとと対峙するのがほんとうはぜんぜん得意じゃないことを葉は知っている。鹿名田家に帰ったときも、ふらふらになりながら一生懸命鎧を作っていたのだ。そんな子がここまで走ってきて、葉を守ろうと叔母と対峙してくれたのか。指先が血の気を失うほど、こぶしを握り締めながら。

 君はなんて――……なんて、まぶしいんだろう。


「すごいなあ、つぐみさんは……」


 ほろりとこぼれた言葉は、すこし苦い。

 つぐみに比べると、自分はあんなにぐるぐる、ばたばた、悩みまわったあげく、ちょっと脅されたくらいで簡単にいいようにされて、なんて情けないんだろう。つぐみはまぶしくて、勇気があって、ぜんぜん自分と釣り合いが取れていない。恥ずかしさでいっぱいになって、葉はうなだれてしまった。自分のためにここまでしてくれた女の子にありがとうも言えない自分が情けない。

 つぐみはしばらく葉を見つめていたが、急にくしゃりと顔をゆがめて、唇を引き結んだ。


「――来て」

「えっ」

「ついてきて」


 葉の手を引き、つぐみは歩きだす。

 どこへ行くつもりなんだろう。行き先を言わないつぐみに困惑したものの、すぐに家路をたどっているだけだときづいた。商店街を抜け、いくつか小道を曲がると、青志せいしが遺した洒脱な木造平屋が見えてくる。

 つぐみは玄関ではなく、裏戸のほうから家に入った。靴を脱いで濡れ縁から屋敷に上がり、それでもまだ止まらずに葉を引っ張って離れに向かう。


「つ、つぐみさん? ええと、なに?」

「脱いで」


 制作室まで連れていくと、つぐみがいきなり言った。


「え、脱ぐって? ふ、服を?」

「そうだよ」


 よくわからないけれど、いきなりスケッチでもしたくなったのだろうか?

 つぐみの思考についていけず、戸惑ったままでいると、はやくしろとでもいうようにつぐみの手が葉のコートをひらいて、中に着ていたニットを脱がしにかかった。


「わー!? 脱ぐ! 脱ぎますから! ちょっと待って、ひん剥かないで!」


 いったい何が起きているんだ? 混乱したまま、とりあえずニットと下に着ていたシャツをまとめて脱いで、上半身だけ裸になった。

 長椅子になんとなく座ってしまった葉のまえに立ち、つぐみはひんやりした眼差しを向けた。つぐみの手がそっと肩と、脇から腰にかけて点在する痕に触れた。それは皮膚が一部引き攣れてまるく変色した古い火傷の痕だった。


「君は昔、ひとから理不尽な暴力を受けたよね。それはきっと、身体以上に心を辱められるような、そういう行為だったよね」


 今は固い皮膚に覆われてとくに痛まないその場所をすこし撫でて、つぐみは口をひらいた。


「でも、君は誰にも理不尽な暴力をふるわないよね。わたしが困っていたら、いつも腰をかがめて話を聞いてくれるよね。わたしじゃなくても、困っているひとがいたら、一緒になって考えてどうにかしようとしてくれるひとだよね。弱っているひとがいたら、立ち止まってだいじょうぶ?って訊けるひとだよね」


 君は、と続けるつぐみの目の端が赤く染まっていることに葉はきづいた。

 泣いているんじゃない。この子は今、葉のために憤ってくれているのだ。


「君は、とてもつよいひとなんだよ。身体を傷つけられても、心を傷つけられても、魂まではぜったいに誰にも傷つけさせなかった! もし傷つけられたなら、君はそれを自分の力で治した! だれでもできることじゃない。わたしには……わたしにはできなかった。しようともしなかった! 君はとてもつよくて、うつくしいひとなんだよ……!」


 そんなことない、と口にしようとして、できなくて、ちいさく首を振った。

 だって葉はそんな、つぐみが言うような高潔な精神なんて持ち合わせていない。

 たぶんふつうより、すこし鈍いのだ。すこし頑丈なのだ。そして、ふつうよりすこし、かなり、ひとに恵まれていたのだ。善意でたすけてくれるひとがたくさん、たくさん現れてくれる運がいい人間だったのだ。それだけだ。それだけなのに、今、胸が切り裂かれたように熱いものがこみあげている。

 つぐみはずっと、葉を見ようとしてくれていた。きれいだって言ってくれる顔だけじゃなくて、過去も今も含めた内側に目を向けようとしてくれていた。そのことが、心というものの輪郭が保てなくなるほどうれしい。

 きづけば、いくつも、いくつも、頬に涙の筋が伝っていた。止めようとしたのにできなくて、葉は嗚咽を漏らした。

 何も言えなくなってしまった葉を、つぐみが抱きしめてくる。

 いつか子どもだった頃も、こんなふうに抱きしめてくれたことがあった。

 ずっと届かなかった心に急に触れられた気がして、その熱にくらくらした。


「ありがとう……」


 座ったまま、立っている女の子に腕を回して抱きしめ返す。

 あとはもう言葉にならなくて、ずっとずっとそんなふうにふたりで抱きしめあっていた。

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