五 旦那さんと「ここが君の帰る場所」 (4)
「あんた、ますます疲れた顔してね?」
その日、
「べつにそんなことないけど……」
「ま、いいけど。喜べ、構想が固まった。今日であんたの仕事はおしまいだ」
謝礼が入っているらしい封筒を羽風が投げてよこす。
葉は瞬きをした。
「え、おしまい? ほんと?」
「なんだ、うれしそうだな」
「そりゃうれしいよ。できれば、ここよりつぐみさんのそばにいたいもん」
「あんたほんと、ゆがみねえよな……」
「絵、描けたの?」
ソファにひろげたままになっているスケッチブックをのぞこうとすると、そのまえに羽風の手がつかんで閉じた。
「だめだめ、葉はツグミのスパイだから。ハルカゼ展の会場で見ろよ。グランプリ取って、いちばん目立つ場所に飾られる予定だから」
「自信すごいね」
「あたりまえ。ひとつも自信なかったら、画業で食ってねえだろ。――ツグミは? 進捗よさそうなこと言ってたけど、あれぜんぜん、うまくいってないだろう」
葉は意外な気持ちで羽風を見た。
羽風というのはへんな男で、好き勝手生きてそうに見えて、思わぬ観察力を発揮する。閉じているつぐみに対して、羽風はひらいている。博愛精神はなさそうだけど、人間自体はすきなのかもしれない。
「つぐみさんの仕事のことは、俺にはよくわかんないよ」
実際のところ、つぐみの制作はたぶん、うまくいっていない。
画業についてよく知らない葉にもわかる。あの子は今、思うような絵が描けなくて苦しんでいる。抜け出せるのか、抜け出せないのか、抜け出せたとしてそれがいつになるのか、葉には想像もできない。どちらにせよ、がんばっているあの子のためにごはんを作って、家の掃除をして、庭の草木の世話をして、あの子が望むかぎり寄り添うつもりで葉はいたけれど、今はそんな未来もふにゃふにゃでゆらゆらだ。
「おーい、葉?」
手を振られて、我に返る。
と思ったら、そばでクラッカーが弾けた。
「わっ!?」
「羽風先輩、おめでとうございまーす!」
駄菓子研究部の部室が外からあいて、羽風とおなじくらいの歳の男女がぞろぞろ入ってくる。えっ、誰? なに? 状況がつかめず、葉がびくついていると、
「駄菓子研究部部長です」
「副部長です」
「会計係です」
「その他部員です」
部屋に入ってきた男女がひとりずつきりっとした顔で挨拶した。
「ああー」
そういえば、この部屋は駄菓子研究部の部室なのだった。いつ行っても、羽風以外に誰もいないので、部員の存在自体を忘れていた。
「羽風先輩の仕事が一区切りついたらしいので、今日は打ち上げにきました。えーと、あなたはモデルの葉さん?」
「あ、はい。モデルの葉です……?」
よくわからないけど、部の打ち上げがはじまるなら、おいとましたほうがよさそうだ。「じゃあ」と腰を上げると、「ちょっと、どこ行くんですか」と会計係の女の子が予想外の力で葉の腕をつかんだ。
「あなたの打ち上げですよ?」
「えっ、俺!?」
「あと一割くらい羽風先輩の。ほら、先輩、とっとと冷蔵庫からビール出してくださいよ」
使えねえなあ、みたいな顔で会計係さんに言われて、羽風が舌打ちしつつ備えつけの小型冷蔵庫をあけた。そのあいだに机のうえには、副部長さんが持ってきたスーパーの袋からどさどさ駄菓子が出されて並べられる。懐かしい駄菓子もたくさんあった。見たことがないものや、ご当地限定のものも。さすが駄菓子研究部……。
「いや、でも俺、帰って夕飯作らなくちゃなので……」
「ちょっとくらいいいでしょ。はい座って、ほらこれ持って」
その他部員さんに引っ張られて、ソファに座らされる。ビールを手渡され、ええええ……と困惑しているうちに「はい、かんぱーい!!」と駄菓子研究部員が乾杯をはじめてしまった。今、ぜんぜん乾杯の気分じゃないんだけど……。息をつきつつも、周りに流されやすいのは葉の性格で、とりあえずもらったビール缶のプルタブをあけた。一本飲んだら、さっさと帰ろう。
「羽風先輩が毎回部室を占拠しているから、俺たち難民状態だったんですよ」
「うっせーな。ビールと菓子代は払っただろうが」
「うわー横暴。先輩、才能無かったらただのモラ男ですよ」
「ねえねえ、モデルの葉さん、すごいきれーな顔だねえ」
やいのやいのやっている羽風たちをよそに、となりに座った副部長さんが紹興酒の栓を抜きながら声をかけてきた。
「えと、ありがとうございます……」
空にしたビールの代わりに、湯飲みに注いだ紹興酒を渡される。
紹興酒ははじめて飲んだけれど、ザラメが入っていて甘い。おもしろい味だ。
「周りからもてそう。彼女いるの?」
「あ、いや、彼女はいないんですけど、奥さんなら……」
「もう結婚してるんだー?」
「でも、こいつこう見えて、すげー嫉妬深い。執着体質」
羽風がいじわるい顔で横槍を入れた。
「え、そうなの? 追いかけるの、女の子のほうっぽいのに」
「だって顔はともかく、中身、ツグミすきすぎのやばいやつだもん」
「う、うるさいな」
心当たりはあるけど、今はぐさぐさ心に突き刺さる。
葉は一気飲みした湯飲みをどん!と机に置いた。
「そりゃあ、そりゃあさあ、俺はどーせ、顔しかいいとこないのに、嫉妬深い迷惑なヒモだよ! 羽風くんなんか、横からしゃしゃり出てきたフラミンゴのくせに、つぐみさん、羽風くんに会いに家出ていっちゃうし、俺のほうがずーっと昔から百億倍くらいつぐみさんのことすきなのに、なんなんだよもう……。ずるいよ……」
言い立てているうちに、なんだかかなしくなってきた。あっけに取られている一同をよそに、ぐすっと洟を啜っていると、「……葉くん、君ってお酒のませてだいじょうぶなひとだった?」と副部長さんがいまさら聞いてきた。
「え? のんでないよ。これビールと紹興酒じゃん」
「…………」
いぶかしみつつ紹興酒のボトルを傾けようとすると、瓶底をはしっと副部長さんがつかんだ。
「羽風、水持ってきて。ペットボトル一本ぶんくらい」
「えーと、はい」
「お酒なんて水みたいにのめそうな顔してるのにねー。意外―」
会計係さんがのんきにつぶやく。
「つぐみさんのとこ帰りたい……」
つかまれた紹興酒をぐいぐい引っ張りつつ、葉はつぶやいた。
「でも、俺が帰ると、つぐみさん迷惑するし……ラタトゥユも焦がすし……ラタトゥユ焦がしてるけいやくおっとは、もういらないかもしれないし……どうしよ、ラタトゥユ焦がしちゃったよ……でも家かえりたい……」
ここ最近起きたことが断片的にあらわれて、へんなところでつながったり、途切れたりする。最後は家かえりたいとか家かえりたいとしか言わなくなってしまった葉を「うんうん家帰ろうね、もうすぐ着くからね」と副部長さんが背中をさすってなだめてくれた。
タクシーから降りて、家の門扉が見えてきたところで、意識が急浮上した。
ほとんど葉を引きずっている羽風の脇腹をばしばし叩いて、「鍵、鍵」と言う。
頭がふわふわしているけど、とりあえずつぐみがドアをあけられないことは骨身にしみて覚えている。幸いにもポケットに鍵は入れたままだったので、自分で取り出して家のドアをあけた。
「ただいまー」
「おーい、ツグミいる? 葉、やばいことになってるんだけど」
「なってないよー。つぐみさんがんばって絵描いてるんだから静かにして」
むにゃむにゃ言ってると、廊下から軽い足音がして、つぐみが息を切らして駆けてきた。びっくりした風に葉を見てから、きりきりと眉を吊り上げて羽風を睨む。
「
「いや、こいつが自分で酒のんだんだって。紹興酒とビール。弱いの?」
「し、知らないけど……」
「あ、つぐみさん、ただいまー」
出迎えてくれたんだ、とうれしくなってわらいかけると、「えと、おかえり」と律義につぐみは返した。
「じゃあ、あとよろしく。俺、大学戻るから。これ部員一同からお詫び」
駄菓子がぱんぱんに詰まった袋をつぐみに渡すと、羽風は葉を上がり框のうえに下ろした。
「あれ、羽風くん、もう帰るの?」
「帰るよ。また自分が百億倍すきとか言いがかりつけられるの、面倒くせえもん」
「帰るときはドア閉めてってね」
「はいはい」
肩をすくめ、羽風は引き戸をがらりと閉めて出て行った。
「なんで鳥類とお酒のんでるの?」
「んーと、なんでだっけ……?」
上がり框に座ったまま考え込んでいると、「いいよ」とそんなに強くはない声で遮り、つぐみは葉を立たせた。
よかった、家に帰ってこられたんだ、と今さらきづいて、つぐみの後ろについて廊下を歩くあいだも、葉はふふふっとひとりでわらっていた。なんでそんなことを思っていたか忘れたけど、ここにはもう帰ってはいけない気がしていたので、帰ってこられてよかった。
「あ、夕飯つくるよ」
「もういいよ、今日は」
「え、おなかいっぱいだった?」
「……うん」
つぐみは葉を居間に座らせると、台所に向かった。
水が流れる音がする。その音を聞いているうちにうとうとしてきたので、畳に横になった。ひんやりした藺草のにおいが心地よい。頬をくっつけてまどろんでいると、「ここで寝ちゃだめだよ」といつの間にか戻ってきたらしいつぐみが肩を揺すった。
「うん、うん」
「お水のめる?」
「うん。ありがとうー」
ふにゃふにゃわらっていると、「もう……」とつぐみは嘆息して立ち上がろうとした。その手をつかむ。自分の手のなかにぜんぶおさまるくらい、ちいさな手だ。痛くならないように一度ひらいて、力を加減して、また包み直した。
「ね、つぐちゃん」
「なに?」
「あのさ、俺のこと、すき?」
つぐみは目をみひらいて、驚いたような顔をした。
「……すきだよ」
「顔とかが?」
「う、うん……」
困ったふうに目をそらす女の子に「そうだよね」とうなずく。
べつに期待していない。
「いいんだ、君がなにがすきでも」
つぐみはなにをすきになってもいい。なにを愛してもいい。それはつぐみの自由だ。葉が心のなかではだれがすきで、だれを愛していたって自由なのと一緒だ。
「つぐみさん、あのね」
指を絡めた手を軽く引いて、葉は言った。
「いつか君が誰かをすきになったら……羽風くんと恋に落ちたりとかして、それで俺が必要じゃなくなったら、いつでもすっぱり捨ててくれていいんだけどさ」
そういえば、つぐみが羽風がすきなのか、意思確認をしようと思っていたんだった。最近、いろんなことがありすぎて忘れていた。でも、なんだか今はどっちでもよかった。葉が無理に取りもったりお膳立てしなくても、つぐみがほんとうに羽風がすきなら、まっすぐ向かっていくだろう。すきじゃないなら、向かっていかない。でも、それでもいつかは誰かにまっすぐ向かって、いなくなるかもしれない。
そもそも……そうだ、葉はこの子のそばにはもういられなくなるんじゃないかって思って……思っていたのだった。なんでだっけ。忘れた。けれど、すごく必死に何度もそんなことを考えていた気がする。
もし葉がいなくなったら、つぐみは怒るだろうか。泣くだろうか。
つぐみに泣かれるのはいやだ。じゃあ、いなくならない。でも、それは葉の願望のようなもので、案外あっさり忘れるかもしれない。新しい契約夫がやってきて、新しい生活がここではじまるだけかもしれない。
「でも……」
いつもそうだった。
父親が死んでから、葉が帰る場所はいつもかりそめだ。
いくつまで。なにかとなにかのあいだ。次のだれかが現れるまで。
みんな、つめたくはない。だいたいはいいひとばかりだ。やさしい。あたたかい。
でもそれは握りしめて味わうまえに、いつもつかの間のように去っていく。
かなしくはない。みんな、やさしいひとばかりだったから。
かなしいわけではないのだ。ただ、葉がその場所にとどまりたかっただけで。あしたも、あさっても、ほんとうはその場所にいたかっただけで。そんなことを思われても、やさしいひとたちがこまっちゃうんだってことも、わかっている。わかっているから、いつだってわらってお別れしてきたのだ。
「でも……。一年に一回くらいでいいから、俺のこと、おもいだして」
つないだ手を頬にくっつける。つぐみの指先がぴくりとふるえた。おびえられないように、すりすりと指の腹で指先を撫でる。
「俺がここにいたこと、なかったことにしないで。忘れちゃわないで」
言っているうちに、一年に一回ってちょっと高望みしすぎかな?と思えてきた。
つぐみは忙しい身の上だし、そんなに暇でもないだろう。
「あ、三年にいっぺんくらいでもいいよ。うん、それくらいでいい。なんなら五年に一度でも、十年に一度だって……」
頬にあたるつぐみの手のあたたかさに目を細めていると、急にふわふわと頭にかかっていた霧が晴れてきた。
「……ん? あれ?」
瞬きをして、葉は身を起こした。
「なんか今、ちょっと寝てた……」
というか、さっきまで駄菓子研究部の部室にいなかったか?
夢? なんで家にいるんだろう? どこからどこまでが夢?
頭が覚醒してくると同時に、とんでもない頭痛が襲ってきた。
「あああああ頭いた……なんで……?」
頭を押さえようとして、なぜかつぐみと手をつないでいたことにきづく。そういえば、目が覚める直前まで、むにゃむにゃと寝言もどきを言っていたような……。
――なにしゃべってたんだっけ!?
「つぐちゃん、俺、なんかへんなこと言ってた?」
つぐみのほうを振り返り、葉は目をみひらく。
葉のかたわらに座ったつぐみの両目からぽろぽろと涙が伝っていた。
絶句する葉にきづいたのか、つぐみはぱっと手で涙を拭う。
「な、なんでもない」
「もしかして俺、ひどいこととか言った……?」
「言ってないよ。君は何も言ってない」
「でも……」
「お水のんで。君、お酒のんで酔っ払って羽風が家まで送ってきたんだよ」
「えっ、嘘」
じゃあ、駄菓子研究部のあたりは夢じゃなかったのか。
ずきずきと疼痛を発するこめかみを押さえて、つぐみが差し出したコップを受け取る。つぐみの手がそっと背中に触れた。なにごとかを彼女がつぶやく。すぐには聞き取れなかったけれど、ごめんなさい、と彼女が言ったように葉には聞こえた。
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