五 旦那さんと「ここが君の帰る場所」 (3)

 そのあと作った時短夕ごはんはさんざんだった。

 ざくざく切った残りものの野菜を放り込んでトマトソースで煮るだけの適当仕様のラタトゥユを作っていたはずなのに、なんと野菜を焦がした。


久瀬くぜくん、煙……」


 普段めったに口を出すことがないつぐみにパーカーの裾を引かれて、「うわー!?」とようは叫んだ。焦げてる。煮詰めすぎたトマトソースが干上がって、ナスとパプリカとたまねぎが昇天されかかっている。二十三年の人生で、野菜を焼死させたのははじめてだった。あわてて火を切ったけれど、半分ほど焦げた野菜に肩を落とした。


「ごめんなさい。つくりなおす……」

「焦げたところをよければ、食べられるから」


 つぐみは首を振って、ラタトゥユを盛る大皿を出した。

 焦げたラタトゥユと、あらかじめセットしておいたごはん、きのうの残りの里芋の煮っころがし、ほんとうはあしたのために漬けておいた焼き豚でとりあえず夕ごはんを完成させる。今日作ったのは焦げたラタトゥユだけで、へこんだ。


「あの、ラタトゥユ、俺食べるので……」

「うん」


 と言いつつ、つぐみは里芋の煮っころがしも焼き豚も、ラタトゥユもまんべんなく食べた。つぐみの箸は焦げた野菜をきれいに取りわけ、ぱくぱくと口に運んでいく。葉はなんだかおなかが空かなくて、ぼんやり食べた。もちろんどんなときだって、目のまえにごはんがあれば、口に入れるし、胃には詰め込むけれど。


「お茶淹れるよ」


 食後につぐみが言ってきた。


鮫島さめじまさんにこのあいだ、栗かのこもらったから。一緒に食べよう……?」


 葉の服の裾をぎゅっと引っ張って、栗かのこが入った缶をちゃぶ台にふたつ置く。気を遣っているのだろうか。野菜を焦がしたのに怒らなくて、むしろ心配してくれるつぐみはやさしいなって思った。栗かのこをもらったくらいで、うっかり涙ぐみそうになってしまい、あわてて別のことを言う。


「お茶葉ぜんぶ入れないでね」

「入れないよ」


 注意深くスプーンで茶葉をすくっているつぐみがかわいくて、すこしだけ笑いがこぼれた。



 自室に戻ると、葉は押し入れをあけた。

 そこにはつぐみが結婚を持ちかけたときに持ってきたボストンバッグがしまってある。チャックをあけると、あのとき床にどさどさ落とされた札束が中に詰まっていた。ずっとバッグに入れたままになっていたせいか、ひんやりと冷気をまとった一万円札の表面に触れる。


 ――五百万。


 葉がバイトで稼いでいるお金は微々たるもので、葉個人の貯金は二十万円あるかないかだ。すぐに用立てられるお金はここにしかない。でも、このお金は……どうしても使いたくない。

 けれど、もし五百万なんて払えないと葉が断れば、叔母は宣言どおりつぐみのところに行くだろう。つぐみはどんなふうに思うだろう。あの子は潔癖すぎるほど奉仕に見合った対価を支払おうとする子で、だからこそ、なんのつりあいも取れていない要求をする叔母を軽蔑するにちがいない。血はつながっていないけれど、叔母は葉の身内だ。恥ずかしくて消えたくなってくる。なにより、あの子に叔母をちかづけたくない。

 そもそも、このはなしは五百万円を払えば、ほんとうに終わるのだろうか。

 終わらない気もする。一千万を払って、終わらなかったのだ。


(いつまで続くんだこれ……)


 暗い予感に、葉はボストンバッグを見つめたまま、うなだれた。


(俺はここにいないほうがいい?)


 葉がつぐみとの契約を解消すれば、叔母とつぐみはなんの接点もなくなるし、叔母も赤の他人にお金をせびりはしないだろう。三千万はここに置いていくので、葉はまた家無しの金無しに戻るけれど、そうしたら叔母もいったんは引き下がるかもしれないし。叔母の性格を考えると、またお金が貯まった頃にふらりと現れそうだが、とりあえずつぐみに害は及ばない。

 去るのは簡単だ。来たときとおなじように荷物をまとめて、勤め先に退職届を出して、携帯の連絡先を変える。あとは離婚届を出したら、葉は簡単にまたもとのつぐみのしあわせを祈っているだけの他人に戻れる。

 でも、それも、いやなのだ。葉はつぐみにつぐみが捨てるまではどこにも行かないと言った。不安そうに何度もほんとうなのかと尋ねる彼女に、ほんとうだって何度も答えた。

 あれは破りたくない。もしかしたら葉が思っているほど、つぐみにとってはあのやりとりは大事なものではなく、今は忘れているかもしれないし、葉が去ったら、またべつの契約夫がここにおさまって、つぐみもそいつに心をひらいていくのかもしれないけれど、でも、つぐみにとって葉の存在が軽くても、それでも、その軽い約束も、葉は破りたくないのだ。

 でも、じゃあ、ほんとうにどうするんだ。

 やっぱり俺はここからいなくなるべきじゃないのか……。

 思考が堂々巡りをはじめて、なんだかもうわからなくなってくる。葉はボストンバッグのチャックを締めて、また押し入れに戻した。ぽすんとボストンバッグに顔をうずめる。屋敷の雨戸に吹きつける風の音を聴きながら、しばらくずっとそうしていた。

 


 *…*…*


 

 翌日は朝からふた月にいっぺんの墓の掃除に行く日だった。

 つぐみは月末に納品する絵の作業に追われているらしく、今日は留守番だ。いくらなんでも連日、電車賃と時間をかけて叔母が来るようには思えないし、つぐみは外からチャイムを鳴らされても出るという習慣がない。大丈夫だと思うけれど、やっぱり気にはなって、


「つぐちゃん、今日はどこかに出かけたりする?」


 と出かけるまえにさりげなく訊いた。


「今日はどこにも行かない」

「そっか……」


 なら、叔母とつぐみがまた門前で鉢合わせる心配はない。

 とりあえずほっとして、昼ごはん用に用意したサンドイッチとオニオンスープの鍋のことを伝えると、葉は家を出た。


 つぐみの祖父である青志せいしの左の小指は、彼が愛した女性の墓に一緒に埋葬されている。つぐみは青志から家を譲られたときに、条件として彼女の墓の管理を提示されたらしく、律義にふた月にいっぺん、以前はお手伝いさんの志津音しづねが、今は葉が墓の掃除に行っている。

 家から電車で三十分くらいの場所にある墓地は、地元では有名な寺の一角にある。境内の大銀杏のそばで掃き掃除をしていた住職さんに挨拶をすると、葉はめあての墓に向かった。いつものように墓の周りの雑草を抜き、落ち葉をのけたあと、家の庭から摘んできた白菊を生ける。線香を立て、手を合わせた。


「青志おじーさんの小指さん、俺どうしたらいいんだろう……」


 掃除を終えてもなんとなく立ち去れずに、抱えた膝に腕をのせたまま話しかける。

 つぐみのそばから離れたくない。でも、お金も払いたくない。でも、それで叔母がつぐみにちかづくのはもってのほかだ。あの子のことは絶対に守らないと。絶対に……。どこにも正解がなくて、どうしよう、どうしようって胃が痛くなってくる。こういうとき、葉をあの家からすくってくれた犀川さいかわさんなら、なんと言っただろうか。

 そのとき背後で砂利を鳴らす足音がしたので、葉は犀川さんの幽霊が会いに来てくれたのかとはじめ思った。


「……あなた」


 振り返った葉を見て、相手は少々ばつがわるそうな顔をした。

 葉のほうも、思いがけない相手の登場にきょとんとする。

 一糸乱れることなく結ったダークヘアに珊瑚の簪を挿し、灰縞のお召しに落ち着いた蘇芳の被布をかけた女性。涼しげな目元は、つぐみとすこし印象がかぶる。


「つぐみさんのおばーさん……」


 何も考えずに口にしてからしまったと思った。

 鹿名田かなだ家に帰ったときも、葉は鷺子さぎこを「おばーさん」なんて馴れ馴れしく呼んではいない。というか、あのとき滞在した三日間で葉は鷺子とほとんど会話をせずに終わった。唯一、鷺子が葉を視界に入れたのは「見ないあいだに大きな犬を飼うようになったのね」とつぐみに笑いかけた一度きりで、つまり鷺子の認識では葉は「つぐみの飼っている犬」の扱いだ。


 鷺子もひとりだった。足が悪いらしく紫檀の杖をついていたが、背筋をすっと伸ばして歩くので、弱々しい印象は受けない。

 ここは青志の左の小指と愛人が眠る墓だ。なぜ鷺子がいるのだろう。


「つぐみはどうしていますか」


 ばつがわるい表情をしたのは最初だけで、鷺子は腕に抱いていた仏花のセロファンを剥がした。葉が生けた花を脇に寄せて、自分が持ってきた花も加える。


「あ、元気です。今日は絵の仕事が忙しくて、来てないんですけど」

「そう」


 手伝おうとすると、鷺子は口の端を軽く上げただけでそれを制し、持ってきた線香に火をつけた。短いあいだ祈ったあと、目をひらく。横顔がきれいなひとだ。姿勢がよくて背筋がしゃんと伸びたところも、つぐみに似ている。いや、つぐみのほうが鷺子に似ているということなんだろうけれど。


「意外ね」

「え、はい?」

「意外と続いている。――あの子、執着が強いでしょう。ふつうなら、重たくて逃げ出す。続いているのは相性がいいのか、あなたが鈍感なのか……」


 鈍感そうな気はしたので、「ええと、はい」と相槌を打っておいた。

 なぜか鷺子はすぐには立ち去らず、ぬるくもつめたくもない眼差しを墓石に向けている。葉はすこしだけ悩んだものの、口をひらいた。


「あの、俺、あなたに訊きたいことがあるんですけど……。い、いいですか?」

「なに?」

「一年前につぐみさんが逃げたっていう、その、お見合いのことなんですけど……」

「ああ、清志きよしがまとめてきたものね。今はべつの女性と婚約したらしいわよ」


 無関心そうに鷺子が言った。

 当時、つぐみに見合いのことは軽く触りを聞いただけだ。確か百年以上前からある名家の、ひとまわり以上年が離れた御曹司と結婚させられかけたのだと、あの子は語った。


「つぐみさんはお見合いから逃れるために、俺と結婚する必要があったと言ったんです」


 以前から気にはなっていた。あの子はほんとうに見合いから逃れるために葉を買ったのだろうか。もしそうなら、なぜ見合いから逃れたあとも結婚生活を続けたがるんだろう。あんなに必死にどこにも行かないでって願うのはなんで? 誰でもいいから、自分を大切に扱ってくれる契約夫が欲しいだけ?


「ふうん、そんなことをあの子は言ったの」


 軽く眉根を寄せ、鷺子は顎を引いた。


「そうね、まあそれが発端だったのかもしれないわね。青志さんが死んで、あの子、精神的にも追い詰められていたから。――それであなたは、あの子が言うことをぜんぶ信じたの? あなたの目には、あの子はひとりじゃ見合いも断れないかよわい女の子かなにかに見えているの?」


 ふふっと咽喉を鳴らして鷺子はわらいだした。


「そんなかわいげないわよ。あの子の両親もひばりも、どこを見ているのか……。かよわげに見せたって、苛烈で執着心がつよい。絶対に自分の我を通して、欲しいものを手に入れようとする。あの子、青志さんにそっくりだもの」


 つぐみが欲しいもの。あの子がふらふらになりながら、ボストンバッグいっぱいのお金と引き換えに葉に求めたもの。結婚して。愛して。こんなに明確な言葉なのに、つぐみの心が葉にはいつもわかりそうで、わからない。


「知りたいことはわかったかしら?」


 尋ねてきた鷺子に「あんまり……」と葉は素直に吐露する。


「鷺子さんは、ときどきここに来てるんですか?」

「ええ。……どうして、と思った?」

「すこし」


 答えた葉に、鷺子は苦笑した。


「わたしもどうかしてると思っているわ。……どうしてなのかしらね」


 墓石を見つめる鷺子の目に、はじめて淡い揺らぎがよぎった。


「昔は彼女が憎かったけれど、今では戦友のように思えることがあるの。あのひとも彼女もいなくなった今は。まだ若いあなたには、わからないでしょうね」


 葉の答えはとくに要らなかったらしい。足を返すまえに一言、「ここにわたしがいたことはつぐみさんには言わないように」と釘を刺し、鷺子は墓地から去っていった。

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