五 旦那さんと「ここが君の帰る場所」 (2)

 だけど、ヒモ道を貫く覚悟は、家の門扉が見えてきたときに吹き飛んだ。

 赤く色づきはじめた山桜の下に、小柄な影がたたずんでいる。ふんわりしたショートボブに千鳥格子のワンピース、右頬には縦に並んだ三つのほくろ。

 思わず足を止めたようにきづき、「なんだ」とあっけらかんと早苗さなえが口をひらいた。


「やっぱりここに住んでるんじゃない。葉」

「なんで……」


 息をのみ、葉はなんとかその先の言葉を絞り出す。


「なんでここにいるの、早苗さん」

「あなたが前に住んでたアパートの大家さんに聞いたのよ。――はい、これ、大根と白菜の漬け物。おすそわけですって。ちょうどあなたに送ろうと思っていたから、家族なら渡してくれって」


 家族、という言葉が溶け残った氷みたいにおなかにごろごろ落ちていく。

 だれが。だれの家族なんだ。

 苦く思いつつも、惰性のように差し出された紙袋を受け取ってしまう。まえに住んでいたアパートの大家さんには、たびたび野菜のおすそわけをもらったりとか、夕ごはんに呼んでもらったりとか、よくしてもらった。高齢でひとり暮らしの大家さんに、何かあったら、と引っ越し先の住所と連絡先を教えてしまったのは失敗だった。まさか、叔母に勝手に伝えられるとは思わなかったのだ。

 大家さんはいいひとだった。孫と同い年だという葉をかわいがってくれた。今もときどき送ってくれるおすそわけ便を準備していたところに、家族を名乗る女性が現れたから、ちょうどよかったと思って託したのだろう。悪意なんてひとかけらもない。でもその「家族」がみんな、大家さんの周りみたいに穏やかな関係とは限らないって、ちょっとでも考えてくれたら。


「ここ、あなたの家なの?」


 石造りの門扉の奥には、格子ガラスの引き戸がめじるしのレトロな木造平屋がたたずんでいる。つぐみの祖父である青志せいしおじいさんが愛人のために建てた家は、年季は入っているが、洒落ていて、葉がいままで暮らしていた安アパートとはまるでちがう。

 我に返り、「なんの用?」と葉は早苗に訊いた。

 万一にでもつぐみが裏戸から出てきたら、とひやひやする。叔母をつぐみには絶対ちかづけたくない。


「中に入れてくれないの?」

「ここ、俺の家じゃないから」


 噓は言っていない。この家はつぐみの持ちものであって、葉のものじゃない。ただ、契約で住まわせてもらっているだけだ。俺の家ではない……。


「長くなるなら、近くの喫茶店で話聞く……」


 べつに話がしたいわけじゃないけど、つぐみが目と鼻の先にいるこの場所で立ち話をするほうが落ち着かなかった。はやく離れたい。叔母の返事を待たずに葉が歩き出すと、軽く息をついたものの、叔母もそれ以上は言い募らず、葉についてきた。



 叔母を連れて入った喫茶店は、幸いにも客はほとんどいなかった。

 窓から離れた奥の席に座って、とりあえず葉はコーヒーを頼む。叔母はミルクティーと灰皿を頼んだ。


「あなた、結婚したんだって? 知らなかったよ」

「ああ、うん……」

「いつ?」

「一年くらいまえ」


 ふうん、と相槌を打ちつつ、叔母はショルダーバッグから煙草を取り出した。

 断りなく火をつけ、従業員が置いていった灰皿に灰を落とす。橙の火がじんわり灯った煙草の先端を葉は黙って見つめる。


「吸う?」と訊かれた。

「ううん……」と首を振る。


 ほかでもない葉を相手に煙草を勧めてくるってなかなかすごいなって思ったけれど、叔母のなかではかつてのことは、もう取るに足らないちいさなことになっているのだ。

 たとえば、葉が十回は押しつけられたと思っている煙草を、叔母は一回か二回、ちょっとむしゃくしゃして、あてちゃっただけ、と思っていることだろう。そんなことない、と葉が言い張れば、どうしてそんな嘘を言うの、あなたわたしに恨みでもあるの?と憤るか、泣きだす。叔母は本気だ。本気で、そう思っている。叔母が生きている世界はちょっとずつ叔母の都合がいいように書き換えられていて、反対に叔母にとって都合がわるいことはなかったことにされる。

 それにきづいたとき、葉は叔母に対するあらゆる感情が消えた。

 どうがんばったって、このひとと葉の世界が重なることはないのだ。


(いったいなんの用だろう)


 考えつつ、でも実際は確信している。

 ひとつしかない。叔母がわざわざ葉の結婚祝いにやってくるはずがない。一年も放っておいたのに。


みつるさ、今大学四年生なんだよね。就活中で」


 それは葉のふたつ年下の従弟のなまえだった。


咲子さきこは今年大学に入ったの。ふたりとも、今が人生でいちばん大事な時期で」

「そうなんだ」


 咲子は充の妹だ。葉が外の水道で洟をすすりながら火傷を冷ましているあいだに服を隠すような性悪たちだ。仲良くもなかったし、いちばん大事な時期って言われても、そうなのか、以外の感想がわかない。


「うん、だからね。――またお金貸してほしいの」


 するっとあとの言葉を続けられたとき、衝撃も受けたけど、葉の一部は圧倒的に、やっぱり……と思っていた。叔母が家のまえにいたかもしれないとつぐみに聞いたときから、そんな予感がしていたのだ。そうじゃないと思いたかった。一年前、叔母に貸したあの一千万はなんだったのか。あれは自分たちの縁を完全に断ち切るお金じゃなかったのか。そう思っていたのは葉だけだったのか。

 だとしたら、俺はほんとうに、甘い。


「一千万は?」


 低い声で訊いた。

 あげるつもりで振り込んだけど、あれはまだ返してもらっていない。


「それは今度返すから」


 叔母は悪びれずに微笑んだ。


「おとうさんの借金、また膨らんじゃったの。だめね、あのひと。ひとから頼まれると、いやって言えないから。どんどん周りのものを抱え込んじゃうのよ。このままじゃ、咲子、授業料が払えなくて大学中退になるかも。それは葉もつらいでしょ?」


 べつにつらくない。

 働きながら通えばいいんじゃないか? 大学って奨学金制度とかあるし。すごく通いたいならなんでも使ってがんばればいいし、たいして通いたくないなら中退して働けばいい。葉にとってはぜんぜん、ふつうのことだ。


「葉」


 咲子の話があまり葉に響いていないのを察したらしく、早苗は矛先を変えた。


「――鹿名田かなだって聞いたことある苗字だなあって思って調べたの」


 手元に落としていた視線を葉はぱっと跳ね上げた。


「鹿名田つぐみさん。誘拐されているよね、十三年前にあなたの父親に」


 頭を後ろから殴りつけられたような衝撃が走る。

 ……でも、叔母が家に来た時点でこんなのはあたりまえに起こりうることだった。家に表札が出てなくても、郵便受けをちょっとあされば――……そんなことしなくても、近隣の家に軽く探りを入れれば、つぐみのなまえは簡単に出てきてしまう。よくも悪くも、叔母はひとに警戒されるタイプの人間ではない。


「あなたって結構すごいことするよね」


 叔母は口元にうすい笑みを浮かべた。

 共犯者に向けるような、どことなく薄暗さを共有する顔だ。


「善良そうな顔して、今度はそんなかわいそうな女の子に寄生してるんだ? どうやって上がり込んだの? それとも弱みでも握ってるわけ? それに比べたらさ、わたしのお願いなんてたいしたことないよね?」


 じわじわと嫌悪感が這い上がってくる。なんで葉とつぐみの関係を、叔母と葉の関係と一緒くたにされるんだろう。一緒にしないで。苛立ちのままに口から出かかった言葉をすんででのみこんだ。一緒に――一緒に……あれ、でも俺、なにがちがうんだ? そんなかわいそうな女の子から俺はほんとうにお金をもらっているのだ。


「とりあえず五百万必要なの」


 葉の動揺ごと叩き切るように叔母が言った。


「まえみたいにお願い。これ、わたしの口座だから」


 走り書きしたメモをめのまえに置かれる。

 叔母は半分ほどの長さになった煙草をぎゅっと灰皿に押しつけた。べつになにをされたわけでもないのに、葉は条件反射ですくみ上がってしまう。そういう自分が情けなくて、苦さがこみあげる。


「葉が聞いてくれないなら、奥さんのほうに頼むからね」


 あ、お会計おねがい、と悪びれずに言って、叔母はショルダーバッグを肩にかけた。伝票を挟んだプラスチックの板を葉のまえに置くと、スマホで時間を確認する。


「じゃあ、夕飯の用意があるし、帰る。ここ、家から一時間半もかかったのよね。乗り換え三回もあるし、やんなっちゃう」


 文句を言いつつ、叔母は店を出て行った。

 残された煙草の吸殻とふたりぶんの伝票のまえで、葉はしばらくぼーっとしていた。

 俺も帰らないといけない。夕飯の用意があるし。

 でも、ぜんぜん身体に力が入らなかった。しばらく抜け殻みたいにその場に座り続け、「あの、もうすぐ閉店なんですが……」と申し訳なさそうにマスターに声をかけられて、ようやく腰を浮かせた。そして、一口も口をつけられなかった自分のコーヒーと叔母のミルクティーの支払いを済ませた。




「おかえりなさい。遅かったね」


 ぼんやりしたまま家に帰ると、玄関の外灯はついていて、鍵をあけるや、きづいたらしいつぐみが玄関に出てきた。


「あー、うん。ちょっと時間かかっちゃって」

「フラミンゴ? そんなに引き留めるなら、わたし、文句言おうか?」

「いいよー。あー、なのでごめんなさい。今日の夕ごはんは時短料理です」

「べつにそんなのはいいけど……」


 靴を脱いでいる葉のそばをうろつき、つぐみはふと瞬きをした。


久瀬くぜくん、煙草吸ってた?」


 葉は手に持っていたスニーカーを危うく落としかけた。


「え、いや、ううん。におい、ついたのかも」

羽風はかぜって、煙草吸うの?」

「どうだろう……」


 口にしてしまってから、羽風じゃないなら誰のにおいがついたんだ、と自分が言っている言葉の矛盾にきづく。つぐみにそれを指摘されるんじゃないかと胸がどきどきしてくる。俯きがちにスニーカーを握りしめたまま、きかないで、と祈った。おねがい、聞かないでそれ以上。葉は嘘をつくのが苦手だから、きっと簡単にボロを出してしまう。

 もの言いたげな気配がしたが、つぐみは結局何も言わなかった。代わりに背中にちいさな手があてられて、すこしのあいだ、上下に擦るようにされる。


「……おなかへった。夕飯作って」


 つぐみがわざとべつのことを言ってくれたのがわかったので、ちょっと泣きたくなったけど、「うん、なにがいい?」ととりあえずいつもっぽく見えそうなことを葉は訊き返した。

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