五 旦那さんと「ここが君の帰る場所」 (1)

久瀬くぜくん、上がったよ」

「あ、はーい」


 つぐみに声をかけられて、ようはスポンジで磨いていた台所のシンクから顔を上げた。

 つぐみはお風呂から上がったようだ。パジャマ代わりにしているワンピース型のルームウェアにタオルをかけていて、手にはドライヤーを抱えている。すこしまえまで葉がやってあげていたドライヤーを最近つぐみは自分でがんばるようになったのだが。


 ブオオオン……カチ。

 ブオオオン……カチ。カチ。


 つぐみの手つきはいかにも慣れていないひと風なので、温風をちゃんと髪にあてられておらず、いつまでたっても乾かない。でも本人は一生懸命やっているので見守ることにしていたのだが、タオルをはみ出た髪はつぐみの背中を濡らしはじめていて、ああああああ風邪ひいちゃう、風邪ひいちゃう、と葉は無駄にはらはらしてしまう。

 あきらめて、泡を洗い流したシンクから離れた。


「つぐみさん、ちょっとそれ貸してみて」


 居間のちゃぶ台のそばに座るつぐみの後ろに回って、ドライヤーを取る。


「でも……」

「君が風邪ひきそうで、俺の心臓にわるいのでお願いします」

「……はい」


 しぶしぶドライヤーの取っ手からつぐみが手を外した。

 洗面台から持ってきた杏のオイルを手に出して(つぐみは何度言ってもオイルを塗るという手間を抜く)、長くてまっすぐな髪に揉みこむ。ハーブ系のシャンプーの香りに混じってふわりと杏オイルのいい香りがした。

 まだ湿った髪にドライヤーの温風をあてていく。つぐみは安心しきって葉に背中を預けている。温風があたたかくて心地よいのか、ときどき、うとうとすらしている。かわいいなって思うけれど、反面、いま君の後ろの男は君に下心があるんだぞ、だいじょうぶなのかって心配もしてしまう。


 数日前、つぐみが夜更けに葉の部屋に訪ねてきたときはびっくりした。

 しかも、途中でつぐみは葉とならそうなってもいい、みたいなことを言い出したのだ。困惑した。同時にあらぬ期待もした。つぐみはもしかしたら、葉とおなじふうに葉を想ってくれているんじゃないかって……。そんなことぜんぜん期待していなかったのに、もしかしたらって思ったら、心臓が暴れだしそうなくらいうれしくなって、そういう自分に動揺した。でも、必死に言葉を連ねるつぐみを見ているうちに、ちがったときづいた。

 つぐみは葉のことを心配しているようだった。

 その日の電車で、そういえば変な態度を取っていたことを思い出した。


 五十代前後の頬に三つほくろがある女性――……。


 つぐみが語る女性には心当たりがありすぎた。でも、彼女がこの家を知るはずはない。たぶん……。気のせいのはず。どうか気のせいであってくれ。

 つぐみは勘が鋭い女の子で、ときどきびっくりするほど葉のことをよく見ている。


 ――君がいつもとちがったから……元気なかったから、わたしにできることがあったらって。


 雇い主からこんなにも純粋に想ってもらえている。なんてしあわせな話なんだろう。しあわせな話のはずなのに、葉はどうしようもなくかなしくなった。そして苛立ちもした。そんなに簡単に俺になんでもあげようとしないで。一瞬もしかしたらって思って喜んだ自分が恥ずかしかった。

 だって、この子は羽風はかぜに惹かれているんじゃないのか。ずっと家から出ることがなかったつぐみが、はじめて裏戸を使って外に出た。しかも葉には内緒で。あれは、ほんとうは羽風が気になっているからではないのだろうか……。

 そうだったらもう、葉は完全なお邪魔虫で、契約夫のお払い箱も秒読みだ。

 ……でも、と葉は最近べつのことも考えてしまっている。

 つぐみは意外と情が深いから、仮にいらなくなっても葉を捨てられないのかもしれない。一度買ってしまったものの、捨てかたがわからなくて、困っているだけなのかも。もしそうだったらどうしよう……。

 きりきりと胃を痛ませていると、いつの間にかドライヤーをあらぬ方向に向けていた。


「……久瀬くん?」


 つぐみが首をひねるようにして葉を仰ぐ。


「あ、ごめん。いま終わった、終わりました」


 我に返り、葉はあわててドライヤーのスイッチを切った。



 *…*…*



「なんかあんた最近、うわの空じゃね?」


 大学の学食でキャベツたっぷりメンチカツ定食を食べていると、対面であんかけ焼きそばをつついていた羽風が尋ねた。


「え、そんなことないけど」

「うそ、うそ。今、何考えてた?」

「……夕飯の献立とか?」


 それはちょっと嘘で、確かに学食でメンチカツ定食を選んだときは献立のことを考えていたけれど、今考えていたのはべつのことだった。めざとく察したらしく、羽風はにやーっとわらった。葉は口をへの字に曲げて、油揚げとわかめが入った味噌汁を啜る。脇に置いていたスケッチブックに羽風がなにかを描き始める。


「……なに描いてるの?」

「せせこましい嘘でごまかしたときの人間の顔―?」


 いじめか、と葉は思ったが、いちおうモデルの謝礼はもらっているので、我慢してソースをかけたメンチカツをかじる。しゃきしゃきしたキャベツの歯ごたえが残っていて、脂っぽくない。今度真似してつくってみようかな、ともとに戻って夕飯の献立のことをすこし考える。


 羽風のスケッチのしかたは独特で、学食なり、構内なり、大学近くのスーパーなりに葉を連れ出して、適当な会話を続けながら手も動かす。目に留まった表情を描き留めているらしかった。描いたスケッチを何枚か見せてもらったが、あほ面だったり不機嫌そうだったり、いかにも退屈そうだったりして、ひえっと思った。わりあい顔に感情が出る性格だと思っていたけど、ここまで露骨だとは思わなかった。とてもつぐみには見せられない……。

 そもそも、こんなあほ面ばかりスケッチしていて、ハルカゼアートアワードの作品は大丈夫なのだろうか。葉としてはもちろんハルカゼアートアワードの最優秀賞はつぐみに獲ってほしいので、羽風があほ面ばっかり描いているなら願ったり叶ったりだけど。


 つぐみは最近、制作室にずっとこもって下図らしきデザイン画を描いている。どれもしっくりこないらしく、ときどき掃除に入ると、ゴミ箱にぐしゃぐしゃに丸められた紙が突っ込まれていたりする。描き疲れて寝落ちてしまい、筆を握ったまま、床のうえでくったり気絶していることもあった。大丈夫なのだろうか。つぐみの心身を削るような描きかたはいつものことだけど、下図の段階でこれだけ苦悩をしているつぐみを葉ははじめて見た。

 でも、制作の苦しみには葉は寄り添うことはできない。

 せいぜい夕飯につぐみが好きなコロッケを揚げて、お風呂のあとこっくりこっくりしているつぐみの髪にドライヤーをあてて、床のうえで気絶していたらベッドまで運んで布団をかけてあげるくらいだ。あるいはおなじ画業を生業にしている羽風だったら、つぐみの苦悩を理解したり、助言したりできるのだろうか。


「羽風くんさ」


 思い立ち、葉は口をひらいた。

「んー?」とこたえる羽風は鉛筆を動かしながらなので、話半分というかんじだ。


「つぐみさんのことってどう思ってる? 前にすきだって言ってたよね?」

「あー、絵がね」


 鉛筆をくるっと手元で回し、羽風がうなずいた。


「ツグミの絵って、人殺してそうなんだよな。実際は知らないけど。極限まで感情を削ぎ落しているのに、そこがむしろすごくえろいっていうか。エモくてたまんない。――実際、どうなの、ツグミって? あ、でも、家ではちがうって前に言ってたな」

「絵を描いてないときのつぐみさんは、ふつうのとってもかわいい女の子だよ」

「ふうん? どんなとこが?」


 頬杖をつき、羽風は葉に目を合わせてきた。


「葉はツグミのどこがいちばんかわいいって思ってんの? 教えて?」

「ええ?」


 あらためて訊かれるとむずかしい。

 葉にとってつぐみはなによりも大切な女の子で、わらってくれたらもちろんうれしいけど、不貞腐れてても、不機嫌そうでも、やっぱりかわいい。本人はきりっとしているつもりで、実際はあまりきりっとできていないときもとてもかわいい。でもやっぱり、くつろいでわらってくれているときがいちばんしあわせな気持ちになるかもしれない。ずっといつまででも眺めたくなる。


 よく考えたら、つぐみは羽風が好きかもしれないわけで、羽風はまだ絵しか興味がないっぽいけれど、ここは葉がつぐみのかわいいところを羽風にプレゼンして、つぐみに興味を持ってもらったほうがよいのではないだろうか。これが一般的な夫婦なら、妻の不貞を促すけしからん行いだけど、葉は契約夫なので、雇い主であるつぐみの福利厚生にはできるだけ寄与したい。

 ただ一方で、そうすると葉のリストラはどんどん現実味を帯びてしまうわけだけど……。いや、ちがうだろう。自分のことはいいから、つぐみのために仕事をしろ。羽風につぐみのかわいいところをスピーチして、あわよくば興味を持ってもらうのだ。だって、つぐみがしあわせなら葉はそれで――それで……。


「……い、言いたくない」


 仕事しろと決めたそばから、まったく逆のことを言っている自分に葉は絶句した。


「は?」

「だから、言いたくないってば。俺が見つけたつぐみさんのかわいいとこ、なんで羽風くんに教えなくちゃならないの?」


 …………。

 …………。

 えっ、なに? いま何言った俺。

 口が勝手に動いたの?


「……ぷっ」


 目をまるくした羽風は、直後ぶははははっと声を上げてわらいだした。


「嫉妬深っ!」

「ええ!?」

「そうかあー、俺、葉にすげー執着してるのはツグミのほうだと思っていたんだけど、逆だったかー。教えたくないのかあー。おもしろいね」


 顔にばーっと熱が集まってくるのがわかった。ここ最近の自分の妙な言動とか、おかしな感情とかにぜんぶ説明をつけられて身体が熱くなる。


 ――嫉妬!!!


 がちゃんと箸をおいて、ごちそうさまでしたをすると、葉は学食から逃げ出した。



 過去につきあった女の子たちにいわせると、葉はドライなんだそうだ。

 やさしいけど、ほんとはわたしのことそんなに好きじゃないでしょう、とよく言われた。べつにそんなつもりはないのに。大切に想っているのに。でも彼女たちに言わせると、葉は「足りない」そうだ。

 

 ――君はさ、自分ばっかりすきで、空回りして、そういう自分がいやになっちゃうような気持ち、ひとつもわからないでしょう?


 いまなら声を大にして、わかります!って言える。

 わかります、わかりますけども! でも、つぐみは葉の恋人ではないし、契約夫の分際でよその男に嫉妬までしてるなんて、図々しすぎて消えたい。さっき羽風としたやりとり、ぜんぶなかったことにしてしまいたい……。


 心のなかではわあわあ騒ぎながら、飛び乗った電車のドアに頭を預けて揺られているうちに、頬の熱は引いてきた。

 ドアに背を預け直して、葉は深く息をつく。

 とりあえず頭でごちゃごちゃ考えていても、しかたがない。もう単刀直入につぐみに気持ちを訊こうと思った。無論、葉に対してではなくて、羽風に対してほんとうにすきなのかとか興味があるかだ。

 同じ絵描き同士だし、つぐみが羽風にはやたら好戦的だったり、羽風に会いに家から出たりしていたから邪推したけど、つぐみの口から気持ちを聞いたわけじゃない。聞いたら葉の恋心的には即死しそうだけど、でももしかしたら葉の思いちがいかもしれないし、思いちがいで勝手につぐみと羽風をくっつけだしたら、葉は単なる迷惑野郎なので、意思確認は大事だ。


 でも、もしつぐみがほんとうに羽風に惹かれていたら……。

 ひやっとした予感がせり上がって、葉は足元に目を落とした。

 惹かれていたら――。

 やることはひとつだ。過去につきあった女の子たちが最後は決然と葉を切ったように、葉もちゃんとつぐみにポイ捨てされる。つぐみが捨てかたがわからないっていうなら、正しいヒモの捨てかたについて教える。ヒモ道をいまこそ貫くのだ。

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