四 奥さんと画家と旦那さんの三角関係 (3)
あたためた牛乳に蜂蜜をひと匙垂らしたものだ。マグカップを受け取ったとき、そうか、つぐみも廊下でうろうろしてないで、眠れないの? どうしたの?って葉にホットミルクをつくってあげればよかったのか、と思った。
手のなかのマグカップに目を落とす。猫舌のつぐみは、注意深くちょっぴり口をつけた。白い湯気が鼻先をかすめ、やさしい甘さが舌のうえに溶ける。ふう、ふう、と息を吹きかけてすこしずつミルクを飲んでいるつぐみを、葉はちゃぶ台の対面から穏やかな眼差しで見つめている。
「あたたまった?」
「あ……うん」
「わるいことって身体が冷えてると考えちゃったりするから。あたたかくするとよく眠れるよー」
つぐみが部屋に入ってすぐに葉は毛織のカーディガンを肩にかけてくれた。男物のそれは、つぐみには肩も袖もだいぶだぼついて余ってしまうけど、そのぶん身体がすっぽり包まれてあたたかい。
葉の部屋に入るのははじめてだったけど、意外とものが少なくてびっくりした。
そういえば、葉はこの家に引っ越してきたときも、荷物といえば、ボストンバッグ一個におさまる程度しかなかったんだったと思い出す。家電はアパートに備えつけのものを使っていたようで、持っていなかったらしい。
一年とすこしが経った今も、さほど物は増えなかったようだ。
唯一、壁に白いシンプルな額縁に入った絵が飾られているのにきづいて、あ、とつぐみは思った。
それはつぐみが葉にあげた絵だった。うれしくなると同時に恥ずかしさがこみあげる。葉は抱えきれないほど多くのものをつぐみに毎日与えてくれているのに、今だってカーディガンを肩にかけて、ホットミルクをつくってくれたのに、つぐみが葉にしてあげたことといえば、結婚記念日に一枚急いで描いた絵をあげただけだった。それを葉は額に入れ直して、大切に飾ってくれている。
そんなことにも、つぐみは今の今までぜんぜんきづいていなかったのだ。
葉がずっとあけ続けてくれた襖の隙間のことも知らなかったように。
葉のことならなんでも知っている気になっていたのに、それはただ、調査書に書かれた葉の半生を諳んじて言えるとか、ほくろの位置まで身体のことを知っているとか、そういう表面をなぞっただけの話であって、ほんとうはつぐみは葉のことを何も知らないのかもしれない。だって、つぐみはいまだに、葉が何を思って三千万の契約を受け入れてくれたのかもわからないし、こわくて訊けずにいるのだ。
「なにかあった?」
半分ほどホットミルクを飲んだ頃、葉が訊いてきた。
――なにかあったのは君のほうじゃないのか。
口から出かかった言葉をのみこんで、「今日……」とつぐみは別の言葉を探す。
「うん?」
「あの、なにか……わたしにしてほしいこととか、ある……?」
つぐみは葉のように軽やかに、だけどなんでも受け止めるような深さで「なにかあった?」と訊くことができない。でも、すこしでも歩み寄りたくて、必死に言葉を絞り出すと、葉はふしぎそうにつぐみを見つめた。
「つぐちゃんに俺が?」
「うん。なんでもするよ」
「えと、とくにないけど……。あ、じゃあ、あした晴れたら、蔵の掃除をしようと思ってたから、手伝ってくれたらうれしいな」
「う、うん……」
話が思っていたのとちがう方向へ向かっている。葉はどうやら、つぐみが家事の手伝いをしたがっていると思っていて、つぐみでもできる「お手伝い」を急ごしらえで考えてくれたらしい。
確かに最近、葉がする家事を一緒にしたがっていたのはほんとうだけど、今はそうではない。そうではないのだ。つぐみは、葉がさっきホットミルクをつくってくれたり、カーディガンをかけてくれたようなことを、葉にしてあげたいのだ。でも、そうじゃないって言っても、葉は蔵の掃除じゃないお手伝いの内容を考えてくれるだけだろう。
もどかしさがこみ上げてきて、つぐみはうなだれた。こんな夜更けに急に訪ねて、疲れているひとに気を遣わせて、わたしはいったいなにをやっているのだろう。
「……ミルクつくってくれてありがとう。あの、もう戻るね」
せめてこれ以上迷惑をかけないように、空にしたマグカップを持って立ち上がろうとすると、「え、でも……」と葉がだぼついたカーディガンの裾をつかんできた。
「だいじょうぶだよ、ここで寝ていきなよ。そばにひとがいたほうが安心するでしょ」
思わぬ言葉をかけられて、つぐみは瞬きをする。
つぐみの反応に、あっ、と何かにきづいたようすで裾を離し、葉は手を振った。
「もちろん、何もしないので」
「いいよ、君なら」
とくに深く考えずに口にしていた。
え、と大きく目を瞠らせて、葉が固まる。
「でも、契約外だし……」
そういえば、最初にそんなことを言った。
葉がいやだろうと思ったのだ。三千万円で結婚してなんて突拍子もないことを言われて、好きでもない、むしろ憎んでいるかもしれない相手に関係まで強要されたら、うんざりしてしまうんじゃないかと。今はもうなんとなく、葉がつぐみを憎んだり、仕返しをしようとしてそばにいるわけじゃないってわかっている。たぶん、もらったお金の対価のためだけじゃなく、つぐみを大事にしようとしてくれていることも。それはつぐみが葉を想う気持ちとはちがうものかもしれないけれど……。
つぐみは動揺しているようすの葉を見つめた。
したかったのかな、そういうこと、と考えた。男のひとって女子とはちがうって言うし、結婚したらそういうことをして当然なのに、つぐみがはじめに契約外なんていうから、我慢していたのかもしれない。……しばらくためらった。それを口にするのは、つぐみには勇気が要る。でも自分が言わないと、雇用主なんだからがんばらないと、と気持ちを奮い立たせて、つぐみは葉の手のうえに自分の手をのせた。
「君がしたいなら、わたしはいいよ」
葉は弾かれたように視線を上げた。
「……なんで……」
「き、君がいつもとちがったから……元気なかったから、わたしにも何かできることがあったらって」
一瞬だけ何かを期待するような、切実な色が葉の眸にのぞいた。でもそれはつぐみがつっかえながら言葉を連ねるうちに雪みたいに融けて、最後に困ったような苦笑に変わった。重なりかけた心の端がまた離れてしまったようにつぐみは感じた。
「そっか……心配してくれてた?」
「ちが」
いや、心配はしている。でも根っこにある感情はそれがすべてではなくて、もっとちがうかたちをしているはずで。ただ、なんて葉に伝えたらいいのかわからない。
口ごもって、あとを続けられなくなってしまうと、葉はつぐみの手をもう片方の手で包んだ。
「でも、いいから。ほんとうに、それはしなくていいから」
両手で包んだ手を膝のほうに戻される。
「君は俺にちゃんと対価を払ってるんだから、それ以上何かを返さなくちゃとか思わなくていいんだよ」
真綿にくるんだ、けれど明確な拒絶が返ってきて、言葉を失う。
でも、それでもつぐみはまだ葉に甘えていて、すぐにいつものようにつぐみを安心させる言葉をかけてもらえると思っていた。つぐみがうまく口にできない気持ちをすくいとってくれるようなやさしい言葉を。けれど、目の前の男の子は、困りきったようすで下を向いてしまっていて、「ほんとうにいいから……」と消え入りそうな声でつぶやいた。
苦しいと彼の全身が訴えている。つぐみはどうしたらいいかわからなくなった。ただ、自分が深く考えずに言った言葉が、葉を傷つけたことだけはわかった。わたしはどうしてこんなにどうしようもないんだろう。
もう何を言ってもぜんぶまちがえる予感しかしなかった。
蒼褪めたまま震えていると、葉がきづいたようすでぱっと顔を上げた。
「寝よう。ね? 俺、お客さま布団持ってくる。つぐちゃんは枕を持っておいで」
「……うん」
かろうじて顎を引くと、葉はほっとしたようすで手をほどいた。
ちょっとカビくさくなってる……とぼやきつつ、葉はお客さま用の布団を敷いてくれた。
狭い部屋は布団をふたつ並べると、いっぱいになる。「俺のほう使う?」と訊かれて、つぐみは首を横に振った。敷いてもらった布団のほうにもぐり込む。確かにすこし湿っていて、カビくさいのかもしれなかった。でも、すべての感覚がぼんやりしていて、つぐみは部屋から枕と一緒に持ってきた黒柴の抱きぐるみを抱きしめた。
「じゃあ、電気消すね」
昔ながらの紐つきの照明を消して、葉はとなりに並べた布団に入った。
ふいに幼い頃のことを思い出した。アパートの狭い部屋で、敷き布団も掛け布団も一枚しかなくて、つぐみは葉とくっつきあって毎日眠った。あれはなんてあたたかくてしあわせな記憶だったのだろう。
薄闇のなかで目をあけると、あのときよりずっと大きくなった背中があった。
きづかれないように、そっと葉の掛け布団の端を握る。ほんとうは昔みたいに背中に触れて、ごめんなさいって謝りたかった。でも、できない。
しばらくそうしていると、ふいに大きな手がつぐみの手を包み込んできた。いつのまにか冷たくなっていた指先を親指で擦られて、手のなかに折りたたまれる。
つぐみはたぶん葉を傷つけたのに、葉はまだつぐみを見放さないで、手をつなぎ返してくれる。どうしてこんなにやさしいんだろう? 鼻の奥がつんと痛んで、涙がこみ上げそうになったので、つぐみは目を瞑って、瞼の裏のお月さまに葉のことを祈った。
葉を苦しめるものがあるなら、すこしでも遠ざかるように必死に祈った。
そして、わるい夢ならつぐみがいくらでも見るから、葉は穏やかに眠れますようにと願った。
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