四 奥さんと画家と旦那さんの三角関係 (2)

 帰りの電車はなんとなく気まずかった。

 ようからしたら、ふつうに送り出されたあと、不意打ちみたいにつぐみがやってきたわけで、面食らって当然だ。今は取ったキャップを手持無沙汰にいじりながら、つぐみはとなりに座る葉をそっと盗み見る。

 昼の電車はひとが少なくて、つぐみと葉以外に同じ車両にひとはいない。電車の振動にあわせて、つり革が規則正しく揺れている。


「大学寄るって、家を出るとき言わなくてごめんね……」


 おそるおそる切り出すと、何か考えているふうだった葉がつぐみに目を向けた。


「びっくりしたでしょ。裏戸も。……これがはじめて。最近見つけたの」


 後ろめたさから、つい口にする言葉が言い訳じみてしまう。さすがに何か言われるかと身構えたけれど、葉はちいさくわらっただけだった。


「いいんだよ。君はどこでも行きたいときにすきなところ行って。びっくりはしたけど……」


 そこで言葉を切って、葉はためらうように口をひらいたり閉じたりした。


「……あのさ。つぐみさんはもしかして羽風はかぜくんに会いたくて、こっそり裏戸をくぐったの?」

「え?」


 予想の斜め上すぎることを訊かれて、つぐみはきょとんとする。

 羽風に会いたい? なぜつぐみが?


「俺に内緒にしたそうだったから、そうなのかなって」

「どうしてわたしが君に内緒で鳥類に会いたがるの?」

「だから、それは君が――」


 言っている途中で、葉ははっと我に返ったみたいに言葉を止めた。恥ずべきことをしたように、みるみる頬が朱に染まっていく。


「や、なんでもない。なんか俺……なんでもない。ごめんなさい」


 つぐみはひとの心の機微をつかむのがもともとうまくないけれど、このときの葉の言葉や態度はほとんど理解不能だった。なぜ葉がそんなことを言い出したのかもわからないし、急に恥ずかしがるように言葉を止めたのも謎だ。いったい何が言いたかったのだろう。


「今日の夕ごはん、なに食べたい?」


 気を取り直すように葉がいつもっぽいことを訊いてきた。


「ええと……ポテトサラダ」


 とりあえず思いついたものを挙げる。

 葉が作るポテトサラダは、じゃがいもと薄切りのきゅうりとハムのほかに塩昆布が入っていて、ちょっと和風なところが癖になるおいしさだ。最初に副菜を言ったつぐみにくすっとわらって、「うん、ポテトサラダだね」と葉はうなずいた。


「じゃあ、メインは豆腐ハンバーグにしようか。ふわふわのやつ」

「うん、すき」

「帰り、一緒にスーパーに行く?」

「うん」


 うれしくなって、つぐみは声を弾ませた。葉とスーパーやコンビニに一緒に行くのがつぐみはすきだ。そこでふと出かけたときのことを思い出して、「そういえば」とつぐみは葉を見た。


「家に久瀬くぜくんを探しているっぽいひとが来てたけど、知ってるひとだった?」

「え、どうだろう。どんなひと?」

「歳は五十代くらいかな。髪がこれくらいのショートで、あと右頬に縦に三つほくろがあった」


 つぐみが頬を指したとたん、となりのひとからさっと表情が消えた。凍りついたといっていい。葉らしくない表情の変化につぐみはぽかんとする。


「そのひと、何かつぐちゃんに言ってきた? なにか……何かされた?」


 真剣な顔つきで肩をつかまれて、つぐみはあわてて首を振る。


「ううん、なにも……何もなかったよ」

「そう……」

「知ってるひとだった?」


 つぐみの肩から手を外しつつ、「ううん」と葉は言った。

 そんなわけがない。ひとの機微にうといつぐみだってそれくらいはわかった。今のは、嘘だ。

 だけど、嘘つかないで、とも言えなかった。

 葉はつぐみの視線から逃れるように足元に目を落としている。聞いてほしくないって全身が言っていた。それくらいも、やっぱりわかってしまうのだった。



 *…*…*



 ぐねぐねとうねる線の塊が気に入らず、つぐみは下図をまた破り捨てた。

 夕飯とお風呂を終えてから、またずっとハルカゼアートアワード用の下図を描いている。下図から先に進められないまま、いったい何日が経っただろう。いくら手を動かしても出口が見えず、ただこれはちがう、ということだけがわかる。いっそ何もわからなければ、がむしゃらに進んでいけるかもしれないのに。


 羽風に言われて、つぐみははじめて、自作について取り上げた美術評やSNSに書かれた感想に目を通した。熱狂的な賞賛もあれば、事実無根のこきおろしもあった。とくに九月に発表した作品については、羽風同様、低い評価が目立った。いわく、前のような切れ味の鋭さがなくなっているとか、なまぬるい、こんなのツグミじゃないとか。

 ツグミはわたしなのに、こんなのツグミじゃないなんて言われても戸惑ってしまう。そんなにあれらはわるかっただろうか。鑑賞する価値もないものだっただろうか。切れ味ってなに? つぐみは自分の絵に切れ味なんて感じたことはない。

 たくさんの知らない声が一度に降ってきて、困惑したし、混乱した。いったいどうしたらいいんだろう。なにがいいんだろう。なにを描いたら、みんなツグミらしいって満足してくれるの? よくわかんない。よくわかんないよ。


 今日も使えない下図のなりそこないを量産して、つぐみはへたりと床に突っ伏した。

 こんなに下図がまとまらないのは、はじめてだった。

 売れようと売れまいと、つぐみにとって絵は幼い頃からあたりまえのようにそばにあって、心に分厚くまとった殻を削っていくらでも生み出せた。誰とも重ならない心を抱えて、誰にわかられることもなくて、ただ絵だけが自分の苦しみをぶつけるすべだったのだ。

 でも、あのとき、つぐみがあげた絵を見て葉が喜んでくれたあのとき、泣いてしまいそうなほどうれしくて……。そして、きづいてしまった。葉は絵を介さなくても、つぐみの心の輪郭に触れてくれる。あたたかくてほっとするものをたくさんつぐみに与えてくれる。つぐみの渇ききっていた心はいつのまにか、甘くてあたたかいもので満たされて、ひとと心のかたちが重ならないことへの苦しさや、わかられないことへのさびしさが和らいでいった。

 葉はなんてあたたかで、おそろしいものをつぐみにくれたのだろう。


 ――運命の男オム・ファタル


 それは創造をつかさどるミューズであり、同時に堕落と破壊をも意味する。

 つぐみは今、なんのために描かなければならないのかぜんぜんわからない。

 ほんとうにわからなかった。つぐみが描くために削っていた心の殻は、いつの間にかふわふわの綿飴みたいに葉に変えられてしまったので。



 短いあいだ意識を失っていたらしい。

 うなされる自分の出した声で、つぐみは目を覚ました。

 時計はいつの間にか零時過ぎを指している。

 今日はもうだめだ。量産した下図のなりそこないをまとめてゴミ箱に捨て、つぐみは身を起こした。自室に戻る前に、水を口にしようと母屋の台所に向かう。それで、ふとつぐみは居間のとなりにある葉の部屋からまだ灯りが漏れていることにきづいた。

 制作に合わせて寝る時間もころころ変えるつぐみに対して、葉は毎日規則正しく早寝早起きだ。

 こんな時間まで起きているなんてめずらしい。

 考えてから、昼の電車でのやりとりを思い出して、やっぱり何かあったんじゃないかと心配になる。あのあと、結局つぐみは葉からうまく話を聞きだすことができなかった。無理に訊くのもどうかと思ってあきらめてしまったけれど、もっと粘って話をしたほうがよかったのかもしれない。もし葉がひとりで眠れないほど思い悩んでいるんだったら……。

 どう声をかけたらいいんだろうと、薄暗い廊下をうろうろしていると、葉の部屋の襖が四分の一ほどの幅であけられているのが目に入った。閉め忘れではない、たぶんわざとあけられた隙間にきづいたとき、あたたかないとおしさがつぐみの胸に押し寄せた。

 つぐみは葉の部屋を訪ねたことなんてない。

 一年以上暮らしていて、ただの一度もだ。

 でも、葉は律義に襖は四分の一ちゃんとあけていた。つぐみが入れないことがないように、この家のありとあらゆるドアがそうであるように。この時期は隙間風で冷えるだろうに、毎日文句のひとつも言わずに続けていたのだ。

 きづけば、つぐみはうろうろするのをやめて、葉の部屋の襖に手を伸ばしていた。

 でも、失敗した。声をかけずにいきなりひらいてしまったのだ。


「わっ!?」


 ちゃぶ台で端末をいじっていた葉は、突然現れたつぐみにぱっと顔を上げた。


「えっ、なに、つぐみさん、どうかした?」


 ふしぎそうに尋ねられ、つぐみは我に返る。


「あ、ええと……」


 ――君のことが心配で。

 思っていた言葉は口にできず、よく考えたらこんな夜更けにいきなりひとの部屋を訪ねるなんて礼儀がなっていなかった気がして、つぐみは焦った。


「なにも……。あ、夢、見て……」


 動揺するあまり、なんだかわからないことを言ってしまった。


「こわい夢?」

「うん」

「そっかー。それはいやだよね」


 葉はうんうんと納得してしまって、部屋の外に突っ立ったままのつぐみを「はい、どうぞ」と中へ招いた。一瞬、このまま中へ入ってしまってよいのか迷う。だけど、あかりが灯った部屋のうちに引き寄せられるように、つぐみはそろそろと一歩を踏み出した。

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