四 奥さんと画家と旦那さんの三角関係 (1)
「じゃあ、つぐちゃん、いってきまーす」
秋らしいモカベージュのロングカーディガンを着た
ロングカーディガンは、すこしまえにふたりでデパートに秋服を買いに行ったときに、つぐみが選んだものだ。染めていないのにセピアに近い葉の髪色に合う気がして、買いものにつきあってくれたお礼につぐみが買った。しばらく葉の部屋にハンガーにかけて飾られていたらしいそれは、近頃、頻繁に羽織られるようになった。
「いってらっしゃい」
玄関で葉を送り出すと、つぐみはふうと重い息をついた。
下図の構想中、髪をまとめていたヘアゴムを外す。きのうも夜遅くまでハルカゼ・アート・アワードに出す作品の構想を練っていたが、うまくまとまらなかった。何十枚もの下図案を描いては、これじゃないと丸めてゴミ箱に捨てる。
きのうはゴミを大量生産するだけで終わった。つぐみは彩色にひとの数倍時間をかけるぶん、下図はだいたいするっとまとまるので、こんな風に構想段階で足踏みしているのはめずらしい。
一方の
つぐみは葉の雇い主なのに、葉がつぐみをいちばんに優先してくれないのに勝手にもやもやするし、なによりも、羽風が葉を描いているすがたを想像するのがとてもいやだった。
――あなたってそういうところ、おじいさまそっくりね。
――興味がないものには冷淡。執着するものには苛烈。
以前、
ただ、まえとすこし変わったことといえば、つぐみは自分の執着を葉にぜんぶ知られるのがこわい。きらわれたくないからだ。三千万円で買うなんて、だいそれたことをしておいて、いまさら何を言っているんだろうとおかしくなる。でも、葉にだけはきらわれたくない。できれば、好ましく思ってほしい。結婚記念日に絵をあげたときみたいに、葉と心の端を重ねたい。
どうすれば、葉がしてほしいことがわかるんだろうと思って、とりあえず料理や掃除の手伝いをしてみようと試みたのだが、包丁は持つのを止められたし、廊下拭きは雑巾を絞れなさ過ぎて、廊下を水びたしにして終わった。
困惑したようすで「つぐちゃん、どうかした……?」と尋ねられ、葉がしてほしいことはこれじゃないらしい、ということだけわかった。
葉はつぐみがしてほしいことをなんでもしてくれるのに、反対はうまくできない。わたしはやっぱりひとの心を慮るのが下手なのだ、としょんぼりしてしまう。
(羽風ならもっとうまくやれるのかな……)
スケッチブック越しに相対したとき、つぐみは一度でも、葉の素顔を引き出そうとしたことなんてあっただろうか。考えていると、自分がやっていることになにもかも自信がなくなって、下図がどんどんまとまらなくなってしまう。
一方で、羽風がどんなふうに葉を描いているのかが無性に気になった。
でも葉には聞けない。聞きたくない。
(でも、どうしても気になる……)
家にひとりになったつぐみは、自室に引っ込んで、先日買ったばかりの淡いピンクベージュのブラウスを着た。それと普段着ないかんじの黒のサロペット。髪はひとつにくくって(つぐみはそれしかできない)、祖父が持っていたキャップを深くかぶった。たぶん、すぐにはつぐみとわからない……はずだ。たぶん、きっと、わからない……と思う。
鏡のまえで自分の「変装」のできばえを確かめると、つぐみは玄関にあったバレエシューズを中庭に持っていった。やっぱり普段は使わないリュックをしょって、靴に足を入れる。
葉が羽風のもとに通うようになってから、つぐみはひとつの画期的な発見をした。
この家の中庭は、外まで細い道でつながっていて、冬には椿が赤い花をつける茂みを抜けると、突き当たりにちいさな木戸がある。長いあいだ雨風にさらされて劣化した木戸はほとんど壊れていて、だからこそ、つぐみはその戸を押すことができた。
家の外には簡単に、出られた。
はじめてこのことを知ったとき、つぐみはほんとうに驚いた。
いつのまにか「ドアをあけられない」という制約はつぐみ自身を縛りつける巨大な茨と化していて、なんとなく、どうせこの家からも出られないんだろうと思いこんでいたのだ。でもそれはつぐみが自分の絵以外に興味を持たず、試しもしないので、「出られない気がする」と勝手に思っていただけだった。
つぐみは、外で葉が羽風とどうしているか知りたい。
でも、知りたいと思っていることを葉本人には知られたくない。
それでどうしようか思案しているうちに見つけたのがこの木戸だった。
このあいだは三歩だけ外に出て引き返したけれど、今日は羽風の大学までひとりで行く。敵情視察というやつだ。それにつぐみは葉の雇い主なので、葉が外で不当な扱いを受けていないか確認することだって時には必要だ。……必要だということにする。
そわそわと歩き出したつぐみは、外の門扉のまえに見慣れない人影を見つけて、瞬きをした。
年齢は五十代前半だろうか。清潔感のあるショートボブで、シックなワンピースに檸檬色のカーディガンを重ねている。彼女が表札の出されていない郵便受けをじっと見つめているのにきづいて、「あの」とつぐみは声をかけた。
「何か御用ですか」
「あ、いえ」
女性はぱっと身を引き、つぐみを見つめた。
「ここ、
「――ちがいます」
とっさに嘘を言っていた。
葉の深い知り合いなら、家の場所くらいは知っているだろう。職場の知り合いなら、
なにより、愛想がよさそうなちいさな顔におさまったアーモンド形の目を見たとき、つぐみはいやなかんじがした。このひとは見た目どおりの「感じがいい女性」じゃない気がする。防衛本能が強いのだろうか、つぐみの人間に対する勘は異様に当たる。
「ここの家主はわたしです。なにか?」
「……そうでしたか。すみません、まちがえたみたいです」
「あ、あの!」
一瞬、葉のどういう知り合いなのか問い詰めようかと思った。でも、興味がありそうにするのも逆によくない気がする。あとで葉にそれとなく聞いてみればわかる話だ。
「……やっぱり、なんでもないです。すみません」
頭を下げると、女性は肩透かしを食らったような顔をした。けれど、それ以上は何も言わずに、会釈だけをして門扉から離れる。彼女の後ろすがたが角を曲がるまで待って、つぐみは全身に入れていた力を抜いた。
時計を見ると、葉が出てからもう三十分以上経っていた。
はやく大学に行かないと、敵情視察にならなくなってしまう。
女性が向かったのとは反対の道をつぐみは小走りで歩きだした。
羽風が通う大学は、常時門扉が開放され、学生証のチェックもなかったので、つぐみでも難なく構内に立ち入ることができた。大学というものにつぐみは通ったことがない。というか、高校は一日も通えずに中退したし、事件のあと小学校にも中学校にも行っていないので、人生で通学をしたことがほとんどない。勉強はきらいじゃないし、暇を持て余していたから、独学でやったけれど。
同年代の人間がひっきりなしに行き交う場所というものが久々すぎて、すでにくらくらとひと酔いをしてしまいそうだ。
確か羽風はアトリエを持たず、駄菓子研究部なる部室でスケッチをしていると葉が言っていた。
事前に構内地図はしっかり頭に入れておいたので、めあてのサークル棟はすぐに見つけることができた。コンクリが打ちっぱなしの壁にべたべたサークル勧誘のチラシが貼られたサークル棟は、アマゾンの秘境みたいで、つぐみは無駄にびくびくしてしまう。しかも、駄菓子研究部とやらがどこにあるかわからない。大学のホームページにも、構内地図にものっていなかった。いったいどんなひみつ結社なのだ、駄菓子研究部。
五階建てのサークル棟はマンションみたいな見た目で、ひとつひとつの部屋に「落研」だの「昭和映画鑑賞サークル」だの「秘境探検部」だの、手製の札がかかっている。端から見ていくと日が暮れそうだ。
「あの、駄菓子研究部、ってどこにありますか」
しかたなくつぐみは、廊下に置かれたソファでマンドリンを弾いている青年に声をかけた。
「あー、だが研? 入部希望?」
「ち、ちがいます。……羽風くんを探していて」
うろたえるあまり、馬鹿まじめに羽風のなまえを出してしまった。
「あ、羽風の彼女さんか」
「ちがいます!」
「やべ、元カノのほう?」
「夫がいますから!」
こんなやりとりをしている場合じゃないのに、と苛立っていると、
「でもさー、実際どうなの、ツグミって」
聞き覚えのある声がサークル棟の入口からして、つぐみは肩を跳ね上げた。あわてて、マンドリンの青年には無断でソファの背に回り込み、羽風と葉から隠れる。
「家でも絵の雰囲気まんまのブリザード女なの?」
なぜつぐみの噂話をしているのだろう。聞いてはいけない気がして耳を塞ごうとしたのだけど、「そんなことないよー」という葉ののんきな声が聞こえてきた。
「つぐみさん、きりっとしてるけど、ときどき疲れてごはんを食べながら寝ちゃったりするし、でも起こすと寝てないってムキになるし、よく寝癖がたってるし」
いったい葉はつぐみのどこを見ているのだ。
それはときどき、居眠りをしてお茶碗を落としそうになったりすることも、ないことはないけれど、べつにそんなにムキになって言い張ったりはしないし、寝癖だって。異議を申し立てたいけれど、何も言えず、ひとり悶々としていると、
「――だってさ。そうなの、ツグミ?」
ソファの背をひょいと羽風にのぞきこまれた。
「……っ!?」
つぐみは声を上げることもできずに固まる。
「って、ええっ、つぐちゃん!?」
遅れてきづいたらしい葉がぎょっとしてつぐみを見た。
「なんでここ……というか、家どうやって出たの?」
「裏戸から出た」
もうすこしひみつにしておきたかったのに、内緒の裏戸もばらしてしまった。つぐみはつくづく隠しごとに向いていない。
「ち、近くに用事があって、立ち寄っただけなの。べつに久瀬くんを見に来たわけじゃないから」
「そうなんだ。用事はすんだの?」
「うん」
神妙にうなずくつぐみを、羽風はにやにやと眺めている。
……絶対、葉のことが気になって来たってばれている。
「ツグミって、ほんと葉がすきだよなー」
内容よりも、羽風がきやすく葉を呼び捨てにしていることに絶句した。つぐみなんて再会して三年が経っても、いまだに「久瀬くん」なのに。この鳥類は図々しすぎじゃないだろうか。
「スケッチ、見たい?」
羽風はつぐみのまえに立つと、首を傾げて尋ねてきた。
「み……」
見たい。
羽風はどんなふうに葉を描いているのか。
それは自分とどこがおなじで、どこがちがうのか。
激しい衝動に駆られたけれど、同時にプライドが邪魔をして、「見たい」とは素直に言えない。ほんとうは知りたい、葉のこと。でも、もし羽風のスケッチのなかに自分が知らない葉がいたら、きっと深く傷つくから見たくない。
つぐみは悩んで、悩んだすえ、誘惑に耐えかねて、白旗を掲げた。
「……みたい……」
「おお」
羽風が感慨深そうな声を出したので、つぐみは眉をひそめる。
「なに?」
「だって、ツグミが俺の絵、見たいって言った。うれしい」
頬を緩ませて、ふへへへー、とへんな声を出す。
絵を見られるのがうれしいのか? つぐみにはあまりそういう感覚がないから理解できない。首をひねったつぐみに、「はいどーぞ」とあっさり羽風はスケッチブックを渡した。
使いこまれたスケッチブックを腕に抱き、表紙をめくろうとする。
けれど、それを横から伸びた手がぱしっと挟んで止めた。
えっ、とつぐみは瞬きをする。スケッチブックをつかんだのは葉だった。
「……み、みないで」
「え?」
「すごくいやそーな顔してるので、つぐみさんに見られるのは嫌」
どんなかお!?とつぐみはびっくりした。
遅れて、この鳥類はわたしの葉になにをしているのだ!?と憤る。
きりきりと眉を吊り上げて睨みつけたつぐみに、「いや、そこの原っぱでふつうに描いただけだけど」と羽風が肩をすくめた。
「わたしに見られるの、いやなの?」
「……できれば」
ばつがわるそうに目を伏せた葉に、つぐみの心は揺れた。
ほんとうなら、雇い主権限を発令して、見てしまいたい。でも、葉が嫌がっていることをするのはいやだ。葉はつぐみをいつだって尊重してくれているのだから、逆のことはしたくない。でも、つぐみが知らない葉の顔を羽風だけが知っているのはすごくいやだ。耐えられないほどいやだ。でも……。
「わかった」
結局、つぐみはスケッチブックを羽風に返した。
どうせハルカゼ・アート・アワードに羽風の作品は出展されるのだから、そのときに見ればよいはなしだ。そう自分を納得させる。
羽風はにやにやと楽しそうにつぐみと葉のやりとりを見ている。
「いいの、中身見なくて?」
「べつに、ちょっと気が向いて、立ち寄っただけだから」
「ツグミは制作、順調?」
順調ではない。
ぜんぜんない。
このままでは、つぐみは提出期限に間に合わせられずに失格になる。ほんとうは敵情視察している場合でもない。といって制作室にこもっても、ずっとなにも変わっていない。毎日ゴミの山がつくられていくだけだ。
「……順調」
でもそんな自分の窮状なんて葉にすら知られたくないので意地を張ると、「へえーたのしみ」と本心なのか嫌みなのか、羽風は口の端を上げた。
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