《Interval》 彼女を想う彼の十二年間 (5)

 その頃、ようのほうにも緊急事態が発生していて、ある日、交通整理の短期バイトを終えて、あくびをしながらアパートの鉄骨階段をのぼっていると、部屋のまえに安アパートから明らかに浮いた身なりの女性がいた。

 あくびのかたちに口をひらいたまま、葉は絶句する。

 それは義理の叔母だった。

 十一年前、たった一年だけ共に暮らしたひと。

 記憶にある叔母は確か三十代後半で、ということは今は五十歳前後だと思うけれど、人好きしそうなふんわりした雰囲気は変わっていない。ゆるやかな弧を描く口元、右頬にある特徴的な三つのほくろ、まえはセミロングだった髪は今はショートカットにしているらしい。

 このやさしげな顔で、つめたい刃のような言葉を放つのだ。


「もしかして、葉?」


 階段の最上段で葉が固まっていると、足音にきづいたのか、叔母がこちらを振り返った。このひとに会うのは十年ぶりだ。あの家を出て、児童養護施設で生活しているあいだも、十八歳になって施設を出たあとも、葉は一度も叔父夫婦には連絡を取っていない。もちろん、あちらからも連絡なんてあるわけがなかった。


早苗さなえさん……なんで?」


 なんでここにいるんだろうと、なんでここがわかったんだろうと、ふたつのことを同時に思った。


「だって、あなた、犀川さいかわさんのお葬式に来てたじゃない。芳名帳に住所書いてあったわよ」

「……見たの?」

「人聞きがわるい。見えたのよ」


 犀川さん、というのは叔父夫婦の近所に住んでいた、元児童養護施設の職員だ。家の外の水道で火傷を冷やしていた葉にきづいて、声をかけてくれたひと。適切な処置をして、葉をすくってくれたひとだ。

 彼女は昨年の冬、かねてからの持病を悪化させて亡くなっていた。亡くなるすこしまえに病院へお見舞いに行ったとき、積んであった果物かごのなかから林檎を剥いてあげると、「あんたほんと大きくなったよねえ」とにやにやわらっていた。にこにこというより、にやにや。でも、やさしいひとだったのだ。


「なにかあった……?」


 最初に疑ったのは、叔父が死んだのではないかということだった。もしくは重い病気にかかったとか。

 でも、わざわざ叔母がそれだけのことを葉に伝えに来るだろうか。警戒しつつ尋ねた葉に「寒いから、部屋に入れてよ」と叔母は当然のことのように言った。

 ほんとうは部屋に入れたくない。でも、「寒いから」と言われてしまうと、葉は無下にできない。

 しかたなく鍵をあけて、叔母を中に通す。風呂もトイレも共用の安アパートは、畳敷きの部屋と簡易キッチンがあるだけで手狭だ。前の住人が置いていったちゃぶ台に叔母を座らせると、葉は水を入れた薬缶を火にかけた。バイト先の同僚からもらったドリップコーヒーが余っていたのを思い出して、パッケージを破る。


「汚い部屋ねえ」


 剥がれかけた壁紙や黄ばんだ畳を眺めて、叔母が呆れた風につぶやいた。

 ブランドもののショルダーバッグにほっそりした手が添えられている。切りそろえられた爪にはベージュのマニキュア。あの手がかつて煙草の先を葉に押しつけてきたのだ。

 思い出すと、なんでそんな相手を部屋に通して、コーヒーまで淹れてもてなしているんだろう、と情けなくなってくる。でも義理でも叔母だし。ああ、ほんとうにいやだ。義理でも、叔母だし。


「大学は卒業したんだっけ。仕事はなにしてるの?」


 コーヒーを叔母に持っていくと、世間話のつもりなのか、尋ねられた。

 大学はそもそも行ってない。勉強が得意じゃなかったし、奨学金をもらえるほどの学力も意欲もなかったからだ。というか、正直、選択肢にもあがってない。卒業したんだっけ、と訊かれてはじめて、このひとの世界では子どもが大学に進学するのはわりとふつうで、俺はそんな歳なんだっけ、ときづいたくらいだ。


「えーと、交通整理のバイトと大学の施設管理のしごと」

「就職してないの?」

「いや……」


 短期バイトはともかく、大学の施設管理スタッフは正社員じゃないけど、いちおう常勤なので、就職しているでいい気がするし、最初に就職した会社は倒産したんだとか、そのあと拾ってもらった運送会社も一年で閉じちゃったんだとか、いろいろ言いたいことはあったが、べつに叔母にする話でもないので言葉を濁しておいた。はやく本題に入ってほしい。


「これ」


 と思ったら、叔母がいきなりショルダーバッグから書類を出した。

 借用書、と書いてある。


「この欄にサインしてほしいの。あなた、印鑑は持っている?」


 叔母が指したのは、連帯保証人と書かれた箇所だった。

 葉は驚きすぎて言葉を失くした。


「印鑑は持ってないけど……」

「じゃあ、サインでもいいよ」

「いや……」


 そもそも、なんで葉が連帯保証人にサインすることになっているのだ。ふつうに道を歩いていたら急に穴にでも落とされたみたいで、あっけに取られてしまう。


「おとうさん、事業に失敗しちゃって。借金があるのよ」

「い、いくら」

「二千万」


 眩暈がした。とても払える額じゃない。


「大丈夫よ。期日までには払うから。あなたはなまえを貸すだけよ」


 なだめるように叔母が言った。

 うそだ。絶対払わない。


「葉には迷惑かからないから」


 いやだ。絶対にいやだ。


「葉」


 蒼褪めて黙りこくってしまうと、叔母はちゃぶ台の端を軽く指で叩いた。


「あなたを養ったのは、わたしたちだよね?」


 ――ちがう。

 俺を育てたのは父親と母親と、犀川さんと、児童養護施設の園長先生たちとボランティアのおじさんやおばさんと、公園で生活していたときに拾ってくれた運送会社の所長さん夫婦とかであって、このひとではない。絶対ない。


「あなたのせいで噂になって、わたし、会社をやめることになったんだけど、そういう自分がかけた迷惑についても、当然わかっているよね?」


 わからない。わかるわけがない。

 それは俺のせいじゃないはずだ。


「あなたみたいな問題がある子を、わたしたちは引き取って育てたんだよ。あなたはさ、わたしたちがあなたのために支払ったものに報いる義務があるよね?」


 ……ああ。なのに。

 このひとの言うことぜんぶまちがっていると思うのに、なんで反論できないんだ俺。

 そして叔母は最後の切り札とばかりにそのなまえを口にした。


そうさんは、あなたをそんな恩知らずに育てたのかな?」


 ――ああ、くそ。




 指定の口座に一千万円を振り込む。

 数字の10,000,000はボタンを押すとあっけなく表示が切り替わり、葉の全財産はまたもとの五万六千円に戻った。

 長い息をつき、銀行を出る。公衆電話から叔母に電話をかけた。ちょうど留守番電話に切り替わったので、伝言を入れる。葉の携帯番号は教えていないから、たぶん叔母からもう連絡は来ないだろう。


 ――連帯保証人欄に結局サインはしなかった。


 代わりに別のことを葉は言った。それを聞いた叔母は存外あっさりうなずき、借用書をしまった。もしかしたらはじめからそれがめあてだったのかもしれない。

 葉にはじつは一個だけ、財産と呼べるものがあって、それは幼い頃住んでいた家が建っていた土地だった。もとは叔父夫婦が葉の代わりに手続きを行って管理していたのだが、児童養護施設に入所したあと、犀川さんがあらためて後見人になり、二十歳になったときに葉に正式に財産として引き継がれた。

 おやじを追い回していた闇金の取り立て屋たちは、つぐみの誘拐事件が大々的に報じられたあと、あっさりと手を引いた。なぜだろう。あとになってふしぎに思った葉に、「警察に捜査されないためだよ」と犀川さんは苦笑した。あのとき、葉は高校生だったと思う。


『君には酷なことを言うけど』


 クリームがのったシフォンケーキをフォークで倒しつつ、犀川さんは言った。


『闇金の借金はそれ自体が違法で、返済義務はない。君のおとうさんは、ほんとうは支払わなくていい借金で苦しんでいたんだよ』

『……でも、取り立て屋だって』

『応じる必要はない。だって相手の言ってるルールがまちがっているんだから。弁護士に相談すればよかった。そういった分野に強い弁護士もいる』

『でも、でも……』

『うん、わかるよ。弁護士なんてふつう、思いつかないよね。相手は借用書に基づいて返済しろって言ってきているんだし。自分がわるいと考えると思う。落ち度が自分にあったって。取り立て屋だって、冷静にしないために嫌がらせをするんだし』


 奏が誘拐事件を起こした動機はいまだにわかっていない。それを語るまえに奏が死んでしまったからだ。

 でも、三千万の借金があったことを踏まえるなら、やっぱりつぐみの誘拐で得た身代金で返済しようと考えていたんだってことになる。奏はあのとき、つぐみは無事に返すからと口癖みたいに何度も言っていた。それがなんというか、おやじが自分の良心に対してしていた言い訳だったのかもしれない。つぐみは無事に返すから、誰も傷つかないから、お金だってまともに働けるようになったらちゃんと返すから。


 ただ葉は、そのこと自体はもうどちらでもよくって、おやじがまともじゃないときに考えた、まともじゃない理由のどれがいちばんで二番で三番なのかを推測することにはもう意味が感じられなくて、ただ、葉にはずっとゆるせないことがあって、それはおやじが葉を置いて死んだことだ。


 前の晩に、葉は高熱を出しているつぐみを病院に運んだ。

 その頃には葉もなんとなく、つぐみが正しくはない理由で葉の家にいることにきづいていて、奏とした約束を破って外に出したら、きっとまずいことになるとわかっていた。わかっていたけど、放っておけなかった。病死した母親みたいにつぐみが死んだらと思うと、こわかったのだ。

 明け方よりまえ、病院からとぼとぼ部屋に戻ると、奏はすでに帰っていた。


 ――おかえり。


 と言われる。

 つぐみちゃんは?とは訊かれなかった。

 葉がしたことが奏にはもうわかっているのだろう。

 ちゃぶ台に寄りかかるように煙草を吸う、くたびれた背中を見たとき、急に強い情動がこみあげた。


『ごめんなさい』


 靴を脱ぐのもそこそこに駆けていって、奏の背中を抱きしめる。


『ごめんなさい、俺……』


 葉はつぐみにとって正しいことをしたと思う。

 まちがっていない。後悔していない。あの子がつらそうな顔を見るのはいやだったから。

 でも、奏をまえにすると、今度は天秤がまたことんと揺れて、おやじを追い込んでしまった、苦しめてしまった、という思いが強くなる。天秤はどちらにも揺れる。どちらも葉にはただしくて、どちらもつらい。

 葉があんまり泣くからだろうか。奏は振り返って葉を抱きしめてきた。


『おまえが帰ってきてよかったよ』


 奏は葉の背中をさすりつつ言った。


『もう帰ってこないかと思ったから』


 そんなことを言ったのに、奏は翌日、葉を置いて死んだのだ。昔住んでいた家の、すぐそばを通るつめたい川底で。


 のちのちわかったことがひとつあって、あの部屋の押し入れには練炭一式がしまわれていた。縄まであった。奏はもしものときは死ぬつもりだったんだろうか。

 でも結局、練炭は使われず、縄はどこにもかけられず、早朝に奏は「でかけてくる、わるい」という走り書きだけを残して家を出て、もう帰ってくることはなかった。葉は白くなった吸殻の微かな残り香のなかで、ぼんやり目を覚ました。

 あの日のことをときどきひとりで考える。

 おやじはなんで俺を置いて死んだのか。

 あるいはなんで、一緒に死ななかったのか。

 ほんとうは俺のこと、あいしていなかったのか。

 なんで一緒に……生きてくれなかったのか。

 でも最近は、もうよくわからない。

 おやじはほんとうに、あの朝「でかけてくる、わるい」という気持ちで家を出たのかもしれない。けれど途中で目のまえが真っ暗になって、きづいたらふらふらと近くの川に吸い寄せられたのかもしれない。このあいだの葉みたいに。

 クリーニング屋の美雪ちゃんがもしあの場所にいたら、「あぶないっ!!」っておやじの腕をつかんで、「ココアと牛乳どっちがいい?」とか訊いて、そうしてストーブのそばであったまっているうちに葉のことを思い出して、おやじがまた家に戻ってくる、そういう未来が、ほんとうはどこかにあったのかもしれない。あったのかもしれないと思うとき、ゆるせないの代わりに、葉はすごくかなしくなってくる。

 あのとき、おやじの手をもっと強くつかんでいればよかった。

 まわりが何を言っても、つぐみを傷つけたそういうひとであっても、それでつぐみには一生ゆるしてもらえなくなっても、どうか離れないでって、俺と一緒に生きてくれって、そのためならなんでもするからって、俺が、つかめばよかったんだ。ふらふらと吸い寄せる水の引力よりももっと強い力で、俺が。


 

 葉が持っていた土地を売り払って得た一千万円は、叔父が抱えた借金の返済にあてた。

 全額じゃないので、あとは叔父夫婦でどうにかしてほしい。連帯保証人欄は死んでも書かない。そう葉が告げると、叔母はものわかりよく「いつか必ず返すから」と言って帰っていった。きっと返さないし、もう連絡もないと思う。

 自分がつめたいのか、ただのばかなのか、葉にはよくわからなかった。

 叔父夫婦をたすけてあげたいなんて一ミリも思わない。それでも葉がお金を振り込んだのは「奏が恩知らずな子どもを育てた」と叔母に言われたくなかったからだ。ほんとうにそれだけだ。ばかだと思う。葉が一千万を支払ったって、奏の名誉は回復しない。わかっているのに、どうしてこんなに耐えられないんだろう。

 俺はおやじが遺して、犀川さんがずっと管理してくれた土地を売り払って、いったいなにを取り返したっていうんだろう……。

 

 なんだかすごく疲れた気分でアパートに戻ってくると、夕暮れどきの赤銅色に染まったドアのまえに、ちいさな人影が座っていた。

 一瞬、葉はまた叔母かと思った。もう連絡は寄越さないだろうと思っていたけど、まさかわざわざお礼を言いにきたのか? それともさらにお金を振り込んでくれとか……。

 身構えていると、相手が葉にきづいて立ち上がった。横から射した夕陽がそのすがたをほのかに浮かび上がらせる。

 葉は息をのんだ。

 そこにいたのはつぐみだった。


「え……なんで、ここ……?」

「調べたから」


 いったいどうやったら葉のアパートの住所が調べられるのかわからなかったが、重要なのはそんなことじゃなかった。


「どうしたの?」


 つぐみは長い黒髪からぽたぽたと水滴をしたたらせ、生成りのワンピースも濡れて膚に張りついていた。通り雨にあってしまったのだろうか。細い足はやっぱり素足のまま、黒いエナメルの靴を履いている。そして、つぐみにはあまり似合わないグレーのボストンバッグを腕にしっかり抱いていた。


「部屋、入ってもいい?」


 葉の問いかけには答えず、つぐみはただ部屋の扉に目を向けた。


「あ、うん。ちょっと待ってて。いま、タオル持ってくるから」


 つぐみを中に通すと、奥に引っ込んでバスタオルを取ってくる。

 つぐみは靴を履いたまま、糸が切れたように玄関に座り込んでいた。


「濡れたままだと風邪ひくから――」

「……久瀬くぜくん」


 タオルを差し出そうとすると、つぐみはボストンバッグのチャックをひらき、無造作にそれをひっくり返した。すごい量の札束がどさどさと葉のまえに落ちる。

 葉はあっけにとられて動けない。



 いつもとまったくおなじ台詞なのに、言っている意味がわからず、葉は瞬きを繰り返した。


「謝礼って……俺、なにもしてないでしょ。それに量……」

「三千万円」


 つぐみは静かに言い放った。


「三千万円ある。わたしのお金」


 ひどく張りつめた顔をしている。いまにもひとを殺しそうだし、反対に死んでしまいそうでもあった。いったいなにがあったんだろう。

「だいじょうぶ?」としゃがんで、葉はつぐみに目を合わせる。

 つぐみは首を横に振った。だいじょうぶ、という意味なのか、気にしないで、という意味なのかはわからない。俯きがちに胸を押さえたまま、つぐみは囁くようなちいさな声で言った。


「おねがい久瀬くん。お金あげるから、わたしと結婚して」


 なにを言われているのか一瞬意味をつかみかねて、葉はつぐみを見つめた。

 結婚して? 結婚してと言ったのか今?

 どうして、どこから、そんなはなしになった?

 とりあえず今のつぐみの状態はふつうとは言えなかった。落ち着かせて、話を聞いて、ああそれよりもまず身体を拭いてあげないと――。

 狭い玄関を占領している札束をよけ、つぐみにバスタオルをかけてあげようとして、葉はふとそれにきづいた。ぴったり閉まっているドアにきづいた。つぐみがぎゅーっと胸を押さえていて、囁くようなちいさな声しか出せない理由にきづいたのだ。

 ドアが閉まっている。

 

 わかっていて、この子はこの部屋に入ったのだ。

 一度入れば、もう出ることができないこの部屋に。

 直後に押し寄せたのは、痛いほどのいとおしさだった。生きていて、そんなに、だれかに、そんなことを想ったのははじめてだった。


「わかった。いいよ」


 先に答えのほうを言って、葉はドアをひらいた。

 スニーカーの片方をドアのあいだに挟んでおく。それから、つぐみの頭にバスタオルをかけ、以前志津音しづねがしていたようにゆっくり何度も背中をさすった。


「ごめんね、またドア閉めて……」


 バスタオルの下で、つぐみはぼんやり首を振った。

 どうしてだろう。つぐみがどうしてそんなことを言い出したのかとか、それまでずっと葉を悩ませていたこの子から離れなくちゃとか、そういうことがぜんぶちいさくなって後方に過ぎ去っていった。

 つぐみはひとりで葉の部屋に来た。よくわからないけど、切羽詰まって葉に手を伸ばしてきたのだ。葉にとっての理由なんてそれで十分だった。

 十一年前、葉はつかみたかったひとの手をつかみ損ねた。そのひとは、つめたい川底にひとり沈んでしまった。もうしゃべることもできない。だから次は、絶対につかみたいひとの手をつかむ。ほかのことはぜんぶ、あとから考えればいい。


「あの……いいの?」


 自分から言ってきたのに、つぐみはどこか呆けた表情で葉を見ている。

 頬や肩に張りついた黒髪からまだ水滴が伝っているので、葉はタオルで軽くつぐみの髪をかきまわした。


「うん、いい。つぐちゃんなら」


 君が言うことだったら、なんでもうんって言う。


「わたしの事情はなにも聞かないの?」

「言いたいなら聞くけど、言いたくないなら聞かないよ」


 だって、どんな事情でも結局俺はうなずくだろう。


「都合がよすぎる」

「そうかな。都合がわるいよりいいほうが、お互いよくない?」


 ――君が誰よりもいとしいから。

 

 

 *…*…*



「――っくしゅ」


 凍てついた風が吹きつけて、葉はくしゃみをした。

 まだ冬仕様のコートを出すには早いが、そろそろパーカー一枚だと冷えるようになってきた。羽風はかぜの大学からの帰りに寄ったスーパーの袋を提げて、家の引き戸の鍵をあける。


「つぐちゃん、ただいまー」


 離れにも聞こえるよう、すこし大きめに声をかける。

 ほどなくして軽い足音とともにつぐみが玄関に出てきた。


「おかえりなさい。外寒かった?」

「え、なんで?」

「くしゃみする声が聞こえた」

「ああー、聞こえたかー」


 スーパーの袋を上がり框に置いて靴を脱いでいると、葉のパーカーに触れ、「ひやっとしてる」とつぐみがつぶやいた。つぐみのほうはもこもこのカーディガンに靴下も履いて、なんだかあったかそうだ。軽くつぐみの身体に腕を回して、「つぐちゃんはぽかぽかしてる」と言うと、「手がつめたい!」とつぐみがちいさくわらった。


「今日はシチューなんでしょう?」

「和風シチューだから、大根とかごぼうも入ってるよ。ちなみにパンじゃなくてごはんです」

「知ってるよ。炊飯器がセットしてあったから」


 半歩先を歩くつぐみと連れ立って、廊下を歩く。

 出会った頃、おそるおそる歩いていたこの場所は、いつの間にか葉が帰る家になった。まぶしくて、ときどき目がくらむくらい、ここはあたたかな居場所になってしまった。

 うれしいのと、切ないような気持ちが二層に分かれたお湯と水みたいに葉のなかでうずまく。

 ここにいたい。ほんとうはずっと。

 でもそれは高望みだってわかっているから、どうか一秒でも長く、君のそばにいられますようにと祈る。神さまにではなく、空にぽっかり浮かんだ月にでもなくて、今はただただ前を歩く君の背中に。

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