《Interval》 彼女を想う彼の十二年間 (4)
「牛乳とココアどっちがいい?」
クリーニングまるやまのシャッターを下ろすと、
「え、と、じゃあココアで……」
有無を言わさず連行されたので、なんでクリーニング屋の美雪ちゃんにココアをつくってもらうことになったのか、頭がついていっていない。さっきまで蛇口が壊れたみたいに葉はずっと泣き続けていたけど、さすがに畳のうえに座る頃には落ち着いてきた。
人前でこんなに泣いたのはいつぶりだろう。しかも、友人でも恋人でもない、通りすがりのクリーニング屋の美雪ちゃんのまえで。
美雪ちゃんは見たところ、五十歳過ぎくらいのおねえさんで、黒のひっつめ髪に「クリーニングまるやま」とプリントされたピンクのエプロンをしている。ふんわり系のマダムというより、眉毛が濃くて、頬骨が出ていて、怒ったらこわそう、というかんじだ。
「で? どうしたの」
美雪ちゃんは葉にココアを入れたマグカップを渡すと、自分も同じものを持って向かいに座った。
「就活失敗して飛び込もうとした? なら、うちのバイトあいてるよ。安いけど」
「あ、いや、就活は失敗してないです……」
美雪ちゃんに促され、ココアに口をつける。こめかみが痺れるほど甘い。
糖分がじゅわっと身体に補給され、電気ストーブがつけられた部屋で温まっていると、さっきの自分がどれだけおかしな状態だったかわかってきた。
死ぬにしたって、あんな、つぐみの家の最寄の踏切でなんて、まるであてつけだ。どうかしてる。
そもそも俺は……死のうと、したんだろうか。わからない。記憶があいまいで。
だって、そういうときって、もっとたくさん悩んで、苦しんで、もう無理、えいっ、みたいなかんじで川に飛び込むんだと思っていた。すくなくとも、葉が子どもの頃から何度も考えた、想像のなかの自分のおやじはそうだった。もちろん、ほんとうにそうだったかなんて、えいえんに、わからない。
「俺、すきな子がいて……」
まとまらないまま、葉はしゃべりだした。
美雪ちゃんは葉の事情をなにも知らない他人だ。だから、話しやすかったのかもしれない。
「でも、その子に昔すごいひどいことをしてたって、いまさらきづいて……」
葉はマグカップに目を落とした。
「はじめから、ぜんぶやり直せたらいいのにって……」
最後にこぼれたのは、繰り言みたいな言葉だった。
十二年前、葉が父親の言いつけを守らず、もっと早くにつぐみを逃がしていれば、あの子は今ほど心に傷を負わずに済んだかもしれない。
ちがう、もっとまえから。
どこからやり直したら、みんなしあわせになれていた?
「ほら」
空になったマグカップにきづいて、美雪ちゃんがまたココアを足してくれた。
葉がぽろぽろ繰り言をこぼしたり、泣きごとを言ったりするのを、美雪ちゃんはとなりで「うんうん」「そりゃたいへんね」と適当な相槌を打ちながら聞いてくれた。
ココアを三杯くらい飲んで、葉がようやく落ち着くと、「あんたさ、今日のお礼にまろにえ堂のどら焼き買ってきてね」と美雪ちゃんが言った。
「黒糖とプレーンを二個ずつ。必ずここに持って来なさい。いいわね?」
何度も念を押されたあと、ティーバッグやお菓子の小袋を抱えきれないほど渡され、葉は帰路についた。
アパートに戻り、共用風呂の湯船でふうっとようやく息をつく。
お湯に浸かってぼーっとしていると、控えめにおなかが鳴った。そういえば、三時につぐみとドーナツを食べたきりだ。おなか減った。煮込みラーメンが食べたい。袋麺を沸騰した湯につっこむだけの味噌ラーメン、具は冷蔵庫に残っているキャベツともやしだけでいい。あ、でもゆで卵はつけよう。うん、ゆで卵大事。
お風呂から上がったら、ちょっとだけがんばって、冷蔵庫から卵と、キャベツともやしを出そう。
その夜は、クリーニング屋の美雪ちゃんがいたから、葉は死ななかった。
偶然、美雪ちゃんがいたから、煮込みラーメンにありつけた。
いのちって、なんて脆くてしたたかなんだろう。
おやじはなんで、帰ってラーメンを食べる未来にたどりつけなかったんだろう? それははじめからなかったのかな。それとも、ほんとうはどこかにはあったのだろうか。
*…*…*
もうあの子に会うのはやめようと決めた。
今までずるずる関係を引っ張ってしまったけれど、今度こそもうやめようと。
葉がつぐみから奪ってしまったものは途方もなくて、なにをどうやって償ったらいいのかよくわからない。口先だけの謝罪なんて、つぐみも求めていないだろう。というか、誘拐犯の息子が一年以上、素性を隠して家に通い詰めてたなんて、よく考えたらホラーだ。こわがらせるまえに、これ以上傷つけるまえに、はやく離れないと……。
ようやく心を決めた頃、つぐみからアプリ経由でメッセージが届いた。
――先日の謝礼を渡したいです。来週、来られませんか。
そういえば、最後のモデル料を受け取っていなかったんだと思い出す。
はじめ、謝礼はもう要りません、と打とうとした。
でもそれも、このあいだのことで葉がつぐみを避けているみたいで、申し訳ない気がした。つぐみはひとつもわるくないのだ。
どちらにしても、どこかでつぐみにはもうモデルを引き受けることはできないと伝えなければいけない。できるだけ、彼女が疑わなくて傷つかない方法で。
――わかりました。じゃあ来週の月曜に。
メッセージを送ると、葉は夜を徹して「モデルを引き受けられなくなった理由」を考えた。
ああでもないこうでもないと悩んだ結果、「家業を継ぐことになり、故郷の静岡に戻ることになったので、もうモデルは引き受けられない」ということにした。静岡には配送関連の仕事をしていたときに何度か行ったことがあるので、多少は突っ込まれても対応できる。つぐみとは
つぐみと別れたら、美大に退職願を出して、仕事をやめたらスマホの連絡先も変えよう。
それで、葉の人間関係なんて簡単にまっさらになる。
家族もいない。恋人もいない。長いスパンでの友人もいない。ときどき寄る辺のなさみたいなものを感じることもあるけど、こういうときは楽でいい。
部屋から外に出ると、桜の蕾がふくらみはじめていた。
まだ冬物のモッズコートを引っかけた葉は、幾分寒さがやわらいだ外気に白くない息を吐いた。電車を乗り継いで、つぐみの家の最寄りのつばめ台で降りる。まだ午前中の商店街はどことなくぼんやりとした空気のなかでまどろんでいる。
商店街を抜け、やがて見えてきた木造平屋の石塀のまえで葉は足を止めた。
敷地内には山桜の老木が植えてあって、道にせり出すように伸びた枝にいくつもうすべにの蕾をつけている。
インターホンを押すと、「どうぞ。鍵あいてるから」といつもの淡白な口調でつぐみが言った。つぐみに何を言うかを頭のなかでもう一度反芻してから、葉は門をくぐって、ガラス戸を引きあける。
再会したときとおなじように、つぐみは上がり框に座っていた。
腰を浮かせたつぐみがスリッパを出そうとしたので、「あっ」と葉は軽く手を振る。
「その、今日はここで……」
「あ、これからバイトだった?」
「えと、うん」
べつにバイトはないけど、そう言ったほうが中に通されずに済みそうなのでうなずいておく。
そう、と顎を引き、つぐみは謝礼の入った封筒を取りに行くためにか、一度中に引っ込んでしまった。
つぐみから謝礼を受け取る気はなかった。でもどうやってそれを伝えたらいいのかわからなくて、そもそも葉はもうモデルを引き受けることはできないと告げるためにここに来たのであって、どの順番で話をしたらいいんだろう、と頭がこんがらかってくる。嘘を吐くのはもともと苦手なのだ。
そうこうしているうちにつぐみが戻ってきてしまった。
「このあいだ、ごめんね。びっくりしたよね」
つぐみが封筒のほかに紙袋を持っているので、なにかと思ったら、きれいに洗われたタッパーだった。
「ううん。あの、身体はもうだいじょうぶ?」
「うん。……
「えっ、いや。なにも……」
どうしよう、つぐみと目が合わせられない。
早く実家の家業を継がなくちゃいけなくなった話をしないと。静岡の酒屋だから、もうここへは来られない……。
あまり湿っぽいとへんに思われるから、あくまでもさらっと言うのだ。
だいじょうぶ。葉はそういうのは得意だ。
これまでいろんなひとにお世話になって、でも、家族でもないからずっと一緒にはいられなくて、時が来たらさらっとお別れしてきた。だいじょうぶ、いつものように言えばいい。いつものように……。
「ありがとう、ドーナツ。おいしかった」
ふとつぐみの声に惹かれて顔を上げると、春の陽のなかでほんのりとわらっている彼女のすがたがあった。心のやわらかな場所を刺された気がして、ぽろりとなにかが頬を伝った。
つぐみが大きく目を瞠らせる。
「
遅れて落涙にきづいて、身を引いた。
「な、なんでもない」
「どうしたの?」
「なんでもないから」
真剣な表情で詰め寄られて、首を振った。
これじゃあ不審がられる。夜を徹して嘘の理由を考えて、練習もして、バイトだってやめるつもりでここへ来たのに、いったい俺はなにをしているんだ。必死に理性をかき集めて立て直そうとするのに、さっきのあたたかな微笑が焼きついて離れない。
一度だけなんて欲を出して会うんじゃなかった。君に会うのではなかった。
こんなにすきになってしまっているのに、つらいだけだったのに。
「ごめん俺、君に……」
勝手になにかを言い出した口をあわてて手でふさぐ。
謝罪なんてつぐみを余計傷つけるだけだとわかっているのに、自分が楽になりたがっている。ぜんぜんひとつも思ったとおりにできなかった。口を手で押さえたまま、つぐみに背を向けるようにしていると、そっとちいさな手が背に触れた。一度離れてから、またそろそろと触れて、ぎこちなくさするようにする。
「だいじょうぶ」
つぐみの声は落ち着き払っていた。
「だいじょうぶだから。君はわたしに謝るようなことはなにもしていない」
凪のように静かなその声を聞いたとき、葉はふいに、この子はぜんぶ知っているのだとわかった。
ぜんぶ。葉が誰なのかも、なんなのかも。
いったいいつから、どこからだ。……まさか最初から?
わかっていて、葉を呼んだとでもいうのか。なんで?
なんで、なにも言わない?
疑問は次々浮かんだけれど、ひとつとして口にすることはできなくて、つぐみが背に手を置いてくれているあいだ、葉はずっと息を殺してこれ以上涙が出ないようにしていた。
その日は結局、考えた嘘のひとつも言えずにつぐみと別れた。
でもその日以降、つぐみからの連絡はぱったり途絶えた。
そうか、ときづいた。あの子はやさしい子だから、葉をひとつも責めずに、ただそっと関係を切ったのだと。胸が痛かった。でも、正しい。
バイト帰りに夜空を見上げるとき、あの子のことを考えた。
あの子がすこしでもしあわせでいてくれますように。
わらっていてくれますように。
意味がないとわかっているのに、結局昔と変わらずすることはおなじで、葉は月に向かって彼女のしあわせを祈る。たぶんこの先も、ずっと。
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