《Interval》 彼女を想う彼の十二年間 (3)

 つぐみが販売会に出した「花がすみ」はちいさな画廊だったにもかかわらず、口コミで噂が拡散され、期間を引き伸ばして展示が続けられたのだという。

 作品は無名の新人とは思えない高値で買い取られた。鮮烈なデビューを飾ったツグミは、年齢・性別・出身すべて非公開というミステリアスさもあいまって、一部の層に熱狂的な支持がひろがっている。


 ――ということを、ようは当時同棲していた彼女の部屋に置いてあった美術雑誌を読んで知った。

 如月きさらぎは、葉が施設管理スタッフをする美大の講師で、彫金の造形作家でもある。彼女の部屋には、彫金やデザイン関係の専門書だけでなく、美術系の雑誌もたくさん置いてあって、暇なとき、ぺらぺらめくることがあった。そこに、自分の背中を描いたつぐみの絵がいきなり現れたので、葉はあっけに取られ、そーっと如月がわからないように雑誌をラックにしまっておいた。

 ちなみにその如月には、大学の夏季休校明けにいきなり別れを告げられた。

 理由は「ほかにすきなひとができたから」だという。

 そんな……と言われたときにはショックを受けたが、ほかにすきなひとができたならしかたないよな、と思い直して、葉は荷物一式をまとめて如月の部屋から出て行った。いまは大学近くにある学生向けのおんぼろアパートでひとり暮らしをしている。


 つぐみからは月に一度くらいの頻度でモデルの呼び出しがかかる。

 夏から秋になり、年が明け、初雪が降る頃には葉もそろそろ「一度だけ」というポーズをとることにもあきらめていて、つぐみが呼び出すととくに抵抗なく応じるようになってしまった。どうせすぐに飽きられるから。自分に対して最後の砦のように残した言い訳をしながら、でも意外にもなかなか飽きないつぐみに、うれしいような、苦しいような、複雑なものを抱きつつ、日々だけが静かに過ぎていく。


「お疲れさま」


 いつものように切り上げたつぐみが鉛筆を置く。

 つぐみが画材を片付けるあいだに手早く服を身に着けた葉は、「あ、そうだ、つぐみさん」とボディバッグのとなりに置いていた紙袋を思い出して、声をかけた。


「いまって、ちょっとおなか減ってたりしない?」


 壁掛け時計が指した時刻はちょうど午後三時だ。

 ふしぎそうに首を傾げたつぐみに、「じつは今日はおやつがあります!」と手にした紙袋を掲げた。中には大きめのタッパーがふたつ入っている。


「おやつ?」

「ホットケーキミックスが賞味期限切れかかってて。ドーナツいっぱい揚げたから、つぐみさんもどうぞ」

「ドーナツってホットケーキ、ミックス? というものから作れるの?」


 つぐみはホットケーキミックスをご存知ないようだった。


「そうだよー。ホットケーキミックスは、なんでもつくれる魔法の粉だから」

「すごいんだね」


 冗談を言ったつもりだったのだが、つぐみはほんとうに感心した風にうなずく。


志津音しづねさんはおでかけ?」

「近くのスーパーに買いものに行ってる」


 はじめのうち、何かを警戒するように葉がいるあいだ、絶対に家を離れることがなかった志津音は、近頃は葉がやってくる日常をふつうに受け入れ、近くで買いもの程度ならしてくるようになった。相変わらず挨拶しても、にこりともわらわずに会釈するだけのひとだったけれど。


「お茶、淹れるよ」

「いいの? ありがとう」


 つぐみは葉が差し出した紙袋を受け取り、母屋に向かった。

 ほとんど足を踏み入れたことがなかった居間は、ガラス戸で台所とのあいだが仕切られている。つぐみはうろうろと食器棚のあたりを物色し、急須と茶筒を見つけ出すと、ややほっとした表情になった。

 水を入れた薬缶を火にかけ、急須に茶筒のなかの茶葉をぜんぶ――


「いや、待って、待って。つぐみさん、お茶っ葉ぜんぶ入れるの!?」

「うん。たくさん入れたほうがおいしくなるかと思って」


 葉は絶句した。

 どう考えてもお茶を一度も淹れたことがないひとの言い分だった。

 葉の反応で、なにやらおかしいことをしたらしいときづき、「ち、ちがった……?」とつぐみは不安そうな表情をする。こらえきれなくなり、葉は噴き出した。


「入れてもいいけど、たぶんめちゃくちゃ渋いお茶になると思う」

「そうなの?」

「山盛りふた匙くらいでだいじょうぶだよー」


 つぐみから茶筒を受け取ると、見つけたスプーンで茶葉を急須に入れる。

 ちょうどお湯が沸騰した。急須に湯が注がれていくのをつぐみはめずらしがるように見つめる。ふつうのことをしているだけなのだが、つぐみが一心に視線を向けるので、芸でも披露している気分だ。


 お皿にドーナツを並べて、ほうじ茶を横に置く。ドーナツはプレーンに砂糖をまぶしたのと、ココアの二種類だ。

 つぐみはやたらきれいな仕草でドーナツを割り、一口食べた。

 伏せがちだった眸が、ぱっと瞬きをする。


「すごく、おいしい」

「えー、ホットケーキミックスだよ?」

「じゃあ、ホットケーキ、ミックスが、すごいんだね」


 はじめは気遣って言ったのかと思ったが、つぐみは心の底から感動しているらしかった。言葉はすくないけれど、目を細めて、おいしそうに食べる。

 これならもっとちゃんとしたものを作ってくるんだった、とちょっとだけ後悔した。もっと喜んでくれたかもしれないのに。


 つぐみのモデルを引き受けてから十か月が経ち、つぐみは会ったばかりの頃よりもわずかに気をゆるして、ふとしたはずみに、いろんな表情を見せてくれるようになった。

 早く引き返さなくちゃいけないのに、つぐみの知らなかった表情を見つけるたび、葉はふんわりしたしあわせに溺れて、引き返しかたがわからなくなってしまう。なにをやっているんだろう。俺はこんなにひとりのひとに執着するたちだっけ? 自分に起きていることが前代未聞すぎて、ちっとも制御できない。暴走する車みたいに、勝手にどんどんちがう場所に進んでいってしまう。


「ごちそうさま」

「おそまつさまでした」


 つぐみはちいさな身体で三つも四つもドーナツを食べた。

 茶器と空にしたお皿を持ってつぐみが立ちあがったので、「へいき?」と葉は訊いた。お茶を淹れたことがないところから考えて、つぐみが家事が得意そうには思えない。


「お、お皿くらいは洗えるから」


 心外そうに言ったつぐみにすこしわらい、運ぶのを手伝う。

 きりっと袖まくりをして、つぐみがお皿を洗いはじめる。その背中を見守りつつ、ふと外からつめたい風が吹き込んだのにきづいて、葉は居間に目を向けた。閉め忘れたのか、庭に面したガラス戸が細くあいたままで、障子戸も半開きになっている。あと、居間と台所を仕切るガラス戸も。

 ささいな違和感がよぎったが、とくに深くは考えずに手近のガラス戸を閉める。


 ――ガラガラ、ピシャン


 流水音だけが響くキッチンに、開閉音は尾を引くように高く響いた。

 ごとん、と何かが落ちる音がして、葉は瞬きをする。湯飲みを取り落としたつぐみがおびえた風にこちらを見ていた。葉というより、閉められたガラス戸を。


「し、しめないで。それ、あけて……」


 水を出しっぱなしにしたまま、つぐみが床にしゃがみこんでしまう。

 言葉そのものよりも、つぐみのようすにびっくりして、とっさに葉はつぐみのほうに駆け寄ってしまった。


「だいじょうぶ? どこか痛いの?」


 つぐみは胸を押さえて、ふるふると首を振る。

 呼吸が荒い。息が苦しくてうまくしゃべれないらしい。救急車。救急車、呼んだほうがいいんだろうか。どうしたらいいかわからず、ただつぐみの背をさするようにしていると、背後のガラス戸が割れる勢いで横にひらいた。


「お嬢さまっ!!」


 志津音が見たことがない剣幕で叫ぶ。手にしていたスーパーの袋を床に放って、葉から取り上げるようにつぐみの身体を引き寄せる。


「あなた、ドア……っ!」

「ど、ドア?」


 ぽかんと間の抜けた顔をする葉に、歯がゆそうに頬をゆがめて、志津音は女性にしては大きな手でつぐみの背中を何度もさすった。「ドアはあいてます」とか「ゆっくり呼吸をして」という声がぽろぽろと聞こえた。


「だ、だいじょうぶ……」


 かすれた声でつぶやいて、つぐみは葉のほうを見た。


「ごめんね……びっくりさせて……」


 整わない呼吸のあいまに、つぐみは微かに笑んだ。こちらを安心させようとする微笑だった。


「しゃれい、謝礼、こんど、渡すから……」


 だから、今日は帰ってくれということなのだろう。

 さっきまでお茶の淹れ方もわからなくて苦心していた女の子に不釣り合いな気迫にのまれて、「う、うん」と葉はうなずいた。


 ボディバッグとコートをつかんで、まるで逃げるみたいに家を出る。

 商店街を途中まで走ってきてしまってから、息が切れて足が止まった。


(なにやってるんだ、俺……)


 駅があるほうと、つぐみの家の方角とを交互に見やり、道の真ん中で立ち尽くす。それから、とぼとぼとつぐみの家のほうに戻った。

 さっきのは自分が、なにかを、つぐみにしてしまった気がする。わからないけど。でも、急にあの子が苦しみだしたのは、自分が原因だった気がする。どうしてもそのままにして電車に乗ることができそうになかった。


 つぐみの家まで戻ってきて、でも、インターホンを押すこともできずに途方に暮れる。

 暗に帰れと言われたのに、俺はいったい何をしに戻ってきたんだろう……。

 玄関のガラス戸のまえでうなだれていると、急に目のまえの戸がひらいた。


「きゃっ」


 外に出ようとした志津音が、驚いた風に身を引く。普段ほとんど表情を変えないお手伝いさんなので、声を上げること自体がめずらしい。


「……何をしているんですか」

「あ、あの……つぐみさんは……?」


 志津音は意図を探るように葉を見つめ、息をついた。


「平気です。いつものことなので」

「いつもって、何か持病とか……?」


 再会して十か月が経つけれど、つぐみは一度もそんなそぶりを見せたことはなかった。でも、ちがったのだろうか。何か重い病気を抱えているとか……学校に通わず屋敷に引きこもっているのも、だからとか……。

 志津音はガラス戸を閉めると、郵便受けから手紙を取った。


「あなただから言いますが、他言無用で願います」

「え? は、はい」

「あの方のまえで、ドアを閉めないように。あけられなくなってしまうので」


 続いた言葉に、葉は目をみひらいた。


「あけられない? あけられないって……?」


 身体から血の気が引いていく。

 いやな予感がした。


「昔、すこし事件があって」


 志津音は不器用そうに言葉を濁した。


「そのせいです。きっとひどい思いをしたんでしょう」


 ――つぐみちゃん。

 ――出たらだめだよ。

 ――こわいことが起きるよ。


 気泡が浮かび上がるようによみがえった記憶に、葉は思わずその場に座り込みそうになった。

 だって、それはおれだ。

 おれのせいだ。



 そのあと、志津音とどんな会話をして別れたのか、覚えていない。

 今まで口先だけで罪だのなんだの言いつつ、実際のところその中身が葉はよくわかっていなかった。十一年前、父親がなにをしたのか。自分がなんの片棒を担いだのか。なにを奪って、なにを踏みにじって生きているのか。ちっともわかってなんかいない。

 さっき蒼白になってふるえていた女の子。

 傷つけられて、十一年間、外に出られていない。

 学校にも通えていない。友だちもいない。家を出たのだってもしかしたら。


 あの子と別れてから、ときどき、あの子のしあわせを月に祈った。よい夢が見られていたらとか、わらっていてくれますようにとか、勝手に祈って満足していた。

 あれはなんて、身勝手で、あまいだけの祈りだったんだろう。

 あの子は十一年間もままならない現実と闘っていたのに、自分はつらいときに思い出すだけで、その祈りだってひとつも、なんにも、意味がない。

 どうしよう、と葉は思った。

 めのまえが真っ暗で、歩くこともおぼつかなかった。

 息が苦しい。身体がつめたい。

 どうしよう……どうして俺こんな……どうやってあの子に償ったら……。


「あぶないっ!!!」


 突然ものすごい力で腕を引かれて、葉は我に返った。

 衝撃で視界と聴覚が戻る。きづけば、葉は遮断機が下りた踏切のまえにいて、あろうことか、中にふらふら入り込もうとしていた。

 警報音が激しく打ち鳴っている。特急電車が走り抜け、葉の前髪を巻き上げた。強張っていた身体が弛緩し、汗がどっと噴きだす。

 なんだ、俺。

 いまなにしようとしてた?

 なにしようとしてたんだ?


「あんた、なにしてんの!?」


 クリーニングまるやま、と書かれたピンクのエプロンをしたおばさんが、葉の腕をつかんだまま、警報音に負けない声で一喝する。

 怒られたのだとわかって、葉は混乱した。


「わ、わからな……、ごめんなさい。なんで俺……ごめんなさい、ごめんなさい……」


 堰を切ったようにぶわっと涙があふれてくる。

 口を手で覆って、声を殺して泣きはじめた葉に、おばさんは息をついた。


「あんた、なまえは?」

「……え?」

「なまえは? 偽名でもなんでもいいから」

「葉、です……」

「そう、葉くん。あたしは『美雪みゆきちゃん』です。ちょっと来なさい」

「え、でも……」

「あなたは、いまとてもひどい顔をしている」


 踏切のそばにある、ピンクのハートが描かれた「クリーニングまるやま」の看板を指し、美雪ちゃんが言った。

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