二 奥さんと贈りものの難題 (3)
「ところで
洗いものを済ませたあと、ちゃぶ台に戻ってきた
「今日は十月十一日です」
こほんと空咳をして、「十『一』日です」と『一』の部分を強調する。
「ああ、そうか。スーパーの卵の日とおなじだもんね」
いったいどういう覚えかたをしているんだろう、と若干呆れたものの、つぐみは居住まいを正した。一日にもおはようとおやすみのキスをしたので、今日は十日ぶりのキスの日である。ほんとうは毎日キスしたいけれど、葉が世の夫婦のならいにそろえたいと言ってきたのでしかたない。つぐみは基本的には従業員の訴えには耳を貸す雇用主であるよう心がけている。
よいしょ、と葉はすこしだけ距離を詰め、つぐみの頬にかかった髪を耳にかけた。あたたかな手が耳や頬をかすめていく。つぐみはキスというか、葉に触れられているのがすきだ。まるで魔法のように、ふわふわとあたたかな感情が触れられた場所を通して満ちていく気がするからだ。それはどんな名前をつけたらよいかわからないけれど、あたたかくて甘くて、すこしだけ苦い。
「えーと、その、どこがいいとかある?」
葉がはじめてのことを訊いてきた。
「十日にいっぺんなので、希望とかあれば……」
「希望?」
日時指定制のキスは、さらに進化してリクエスト機能までつきはじめた。
「…………」
してほしい場所はあったけど、はしたない気がして口にできなかった。
視線を横にそらしつつ、「久瀬くんがすきなとこでいいよ」と言う。
「えっ、俺!?」
言われたことをそのまま返しただけなのに、葉は妙にうろたえた。
三秒くらい葛藤するような間があり、肩にそっと左手が添えられる。目を瞑ると、前髪をちょっとのけて、額に唇が触れた。あ、額がすきなのか、と思っていると、唇が重なった。いつものように軽く触れ合わせて離れたあと、また重なる。今度のキスは長かった。
甘えるように唇をついばまれ、くすぐったくてすこしひらくと、入り込んできた舌先が触れた。その思わぬ熱さにびっくりして両肩が跳ね上がる。肩に手を添えていた葉にもそれは伝わり、やっぱりびっくりしたようすでぱっと手を離したので、「わ、わ」とつぐみは後ろに倒れかけた。
「わ、わ、わ」
あわてて葉がつぐみを抱きとめ、なんとか事なきを得る。
都合、葉の胸に顔を押しあててしまいつつ、内心動揺する。今のなんだったんだろう……。
「……久瀬くん、舌でするのがすきだった?」
「ええっ!?」
つぐみ以上に動揺した声が返ってきた。
「や、すきじゃない、すきじゃないよ。い、今のはしたごころが勝手に……。いや、なんでもないです、にんげんあいです……」
なんだか葉が言っている日本語の意味がよくわからない。象の大群が行進しているみたいに心臓がばくばく鳴って、頭がぼーっとしているからかもしれない。
つぐみを支えていた手を下ろして、葉はしゅんとうなだれた。
「ごめんなさい。もうしません……」
「……うん」
べつにいいよ、と言いたかったのだけど、動揺したままだったので、なんとなくうなずいてしまった。
考えてみたら、キスってたぶん触れて終わりじゃないのもたくさんあるのかもしれない。でもそれは上級者向けの気がするので、つぐみには無理だ。心臓がおかしな鳴りかたをして、頭がぼんやりして、挙動不審になる。
けれど、いやがっているとも思われたくなったので、所在なく置かれていた葉の手を上から握った。きづいた葉が指を絡めてくる。どちらもそれ以上何も言わなかったけれど、手をつなぎあって仲直りをした。
*…*…*
しかし、嵐はやってくる。
その日、葉は明後日にやってくる台風に備えて、庭の植木鉢を避難させていた。ちいさな鉢は家のなかに移し、大きいものは壁のそばに集めてブロックで周りを囲う。
こういうときの葉はてきぱきとしていて頼りになる。つぐみはというと、「手伝う」と言って、植木の枝葉を紐でまとめる作業を引き受けたのに、ぜんぜんうまくまとめられず、結局葉にやってもらった。
今まであまり必要がなかったというか、考えたこともなかったけれど、つぐみはもしかして生活スキルが低すぎるのではないだろうか……。料理も掃除もしたことがない。洗濯はボタンを押すと、勝手に洗濯機がやってくれるので、唯一つぐみにもできる。
「ハルカゼアートアワード?」
とりあえずちいさな植木鉢を移すくらいはがんばりつつ、「最近はなに描いてるの?」と尋ねた葉につぐみは近頃頭を占めている展示会のなまえを伝えた。
「このあいだみたいなグループ展示?」
「というか……実行委員に推薦された若手作家が作品をつくって、賞を競うの。作品はすべて美術館に飾られて、期間中は一般のひとも見られるんだけど」
「つまりコンクールみたいなかんじかー」
つぐみは一年前に描いた「花と葉シリーズ」を熱烈に評価してくれる美術評論家がいて、彼がハルカゼアートアワードに推薦してくれたらしい。でもはじめは参加を見送ろうと思っていたのだ。すでに入っている依頼品と並行して制作を進めることになるし、ハルカゼアートアワードはジャンルこそ油彩から日本画までさまざまだが、審査に公正を期すため、サイズや重さなど規定が多い。
それにつぐみは絵でひとと競うことが苦手だ。一番とか二番とか、どちらが優れていてどちらが優れていないとか、定規で身体を切り刻まれるみたいで逃げたくなる。欲しいなら買う。欲しくないなら立ち去る。それでいいのに。
気が変わったのは、相談した
「グランプリを獲ると、個展の機会がもらえるの」
賞金も出るには出るが、そんなものは微々たるものだ。それよりも、賞の主催をしている美術館で個展の機会がもらえる。そこに突き動かされた。
つぐみはひととわかちあえないことが多いけれど、もしかしたら絵を介してなら、ほんのすこし、誰かと心の端を重ねられるかもしれない。絵画教室の子どもたちや葉と、わずかばかり心を渡し合えたように。つながりたい、誰かと。持っているものをわかちあいたい。一ミリでも二ミリでもいい。
「や、やってみたいって思って……」
ちいさな声でなんとか気持ちを口にすると、「うん、うん」と葉は励ますように何度もうなずいた。
「俺もおいしいおやつたくさん作るから、一緒にがんばろう?」
「おやつ」
急に目の前に餌をぶらさげられて、つぐみは伏せがちだった顔をぱっと輝かせた。
しかもたくさん。たくさんと言った!
「スイートポテトとおはぎならどっちがいい?」
「えっ、どうしよう……」
本気で悩んでいると、
――ピンポーン
家のチャイムがめずらしく鳴った。
「あれ、宅配かな? つぐちゃん何か頼んでた?」
「頼んでなかったと思うけど……」
「んー、じゃあご近所さんかな?」
――ピンポーン
――ピンポピポピポピポピポピンポーン
そのあいだもチャイムの連打は止まない。
はいはい、とサンダルをつっかけて葉はガラス戸を引いた。
「どちらさまでしょうー?」
上がり框からつぐみもガラス戸の向こうにぼんやり映った人影をうかがう。
立っていたのは宅配の配達員でもご近所さんでもなく、細身のスキニーに黒のトップスをだぼっと重ねた若い男だった。髪は目が覚めるようなピンク――フラミンゴ色をしている。
「あんたってなんでいつも平日に家にいるの?」
挨拶もそこそこにフラミンゴは葉をあんた呼ばわりした。
わたしの葉に対して。失礼な鳥類だ。
「あ、それは俺のバイトが平日休みが多いからで……」
「久瀬くん、まじめに答えないでいいよ。塩持ってきて」
以前、
「塩はちょっと……」と情けを見せている葉を背に押しやり、つぐみはきりっとフラミンゴを見据えた。
「――……」
なまえが出てこなかった。
この鳥類はなんというのだ。フラミンゴでよかったのか。
「フラ……」
「
察したらしい葉がこそっと耳打ちした。
「羽風くん。なんの用事?」
気を取り直して尋ねると、鳥類あらため羽風はにやりと口の端を上げる。待ってましたといわんばかりだ。
「つうか、上げてくれねーの?」
「わたしは用事を聞いたんだけど」
我ながら愛想が皆無の言いかただと思うが、そもそも事前の連絡もなしに訪問する羽風がわるい。
「
「……出るよ」
まだ情報公開前のはずだけど、関係者から訊いたんだろうか。
「ああいうの好きそうじゃないのに意外だった」
「そう? 画家なら誰でもめざすんじゃない」
「あれさ、俺も出るんだけど、せんせいにひとつ頼みがあって、それで来た」
羽風も参加するということ自体に驚きはなかった。
つぐみは羽風のことをよく知らないが、鮫島が推している若手画家なら、実力があるのだろう。まほろば展でも好評だったと鮫島から聞いたし、誰が推薦してもおかしくない。だから、そんなことは「ふうん」以外の感想がないけど、頼みってなんだ。
警戒するように表情を引き締めたつぐみに、「そんなにびびらないでよ」と羽風はへらりとわらった。
「たいした話じゃない。ただ、鹿名田せんせーがいつも使ってるモデルを俺に貸してほしいんだ」
「は?」
「ハルカゼアートアワードに出す絵、そいつをモデルに描きたい」
「……なにを言ってるの?」
葉を指す羽風に険しい視線を送る。
冗談でなく、本気で殺意が湧いた。
なにを言っているのだ、この鳥類は。
葉はつぐみのモデルだ。
つぐみの。つぐみだけのモデルなのだ。
誰かに描かせるなんて考えただけで、気がくるう。
「あんたの絵、最近ひどいぜ?」
つぐみの殺意がこもった眼差しにもびくともせず、羽風は腕を組んだ。
思わぬ方向から横槍を受けて、つぐみは頬をゆがめる。
「どういう意味?」
「言葉どおりの意味。あんたの絵、まえは頭おかしくて隙がひとつもなくて完璧で、ひとを射殺せそうなくらいの緊張感があったのに、最近ぐだぐだ。ぬるい。なんだあれは。まほろば展の曼殊沙華図も結構ひどかったけど、八月と九月に描いた絵は、至上最悪の部類」
つぐみは絶句した。
画業で身を立てている以上、酷評には耐性がある。とくにつぐみはひとからの評に流されづらい性格だ。でも、さすがに面と向かってここまで言われたのははじめてだった。しかも羽風は五月に会ったとき、嫌味を言いつつもつぐみの絵に関してはファンだと言っていたのだ。それが今、手のひらを返したように別のことを言う。
――……八月と九月の絵。
「鮫島さんはあんたの代表作をって言っているけど、あれじゃあだめだ。あんたは『花と葉シリーズ』一作目が最高傑作で打ち止めだよ。ファンはきづいてる。あんた、ネットの感想とか見たことある?」
「ない、けど……」
「じゃあ、一度見てみれば? ひとに自分がどう思われているか」
くすっとわらって、羽風はつぐみに一歩ちかづいた。
「俺ならそいつ、もっとうまく描けるよ」
つぐみは視線で殺すつもりで羽風を睨んだ。
「見てみたくない? それとも嫌? 自分よりうまく描ける人間が現れるのは。しかも今回のハルカゼアートアワードは選考委員の点数までつくしね。自分がずーっと描いてきたモデルを別のやつが描いて評価が上だったら、あんた立場が危うくなるもんな」
「――いやいや、いやいや」
羽風がさらに一歩ちかづこうとしたところで、葉があいだに割って入った。
「黙って聞いてたけど、君、さっきから言ってることがめちゃくちゃじゃない? 彼女に対して失礼です。あと俺はつぐみさんのモデルしかしない契約だから」
「べつにあんたに聞いてない」
「俺にだって描かれる自由と描かれない自由があります!」
「……わかった」
え、とぎょっとして葉がつぐみを振り返る。
その顔に罪悪感がうずいた。確かに葉にも描かれる自由と描かれない自由がある。
だけど、これは引けない。
「いいよ、ひと月だけ貸す。あなたに久瀬くんが描けるわけないもの」
ありえない、と思った。
つぐみはずっと葉だけを見てきた。六歳の頃からずっと、ずっとだ。
葉のことなら、ちいさなほくろの位置までどこもかしこも知っている。この男がどんなふうにうつくしいのかも、つぐみがいちばん知っている。
だから、つぐみ以上に描ける人間なんていてはならないのだ。決して。
「すんげー自信だな」
「久瀬くんはわたしの《運命のひと》だから」
つめたく言い切ったつぐみに、羽風はははっと笑い飛ばした。
「そんなんで描けるほど甘くねーよ、ばーかばーか」
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