二 奥さんと贈りものの難題 (2)


「ふうん。それで、結婚記念日にあいつに何か贈りたいと」


 事の次第をかいつまんで説明すると、ひばりはおもむろに従業員を呼び、会計を済ませた。ぽかんとしたつぐみに、「ほら、行こうよ」と焦れた風に言う。


「ああでもないこうでもないってここで言ってたってしかたないし。実際見たほうが早い。近くにデパート、あったかな」


 バッグから取り出した端末ですばやく検索し、「ああ、あった」とひらいた画面をつぐみに見せる。そこはちょうど、つぐみがようへのプレゼントを探すために帰りに立ち寄ろうと考えていた百貨店だった。このホテルからは徒歩十五分の場所にある。


「え、でも……」

「行くの? 行かないの?」

「い、行きます」


 ひばりの気迫に押され、つぐみは戸惑いがちに顎を引いた。



「――わたし、りつにはプレゼントってあんまりしたことないんだよね」


 百貨店に着くと、とりあえずメンズの雑貨売り場に向かいながら、ひばりが言った。つぐみとちがって、ひばりはどこにいても堂々としていて、並んだネクタイを見ているだけでも、立ちすがたがさまになる。


「律が大学を卒業したときかな。両家合同で卒業祝いと就職祝いをすることになって、そのときにはいちおう律に欲しいもの聞いて渡したけど」

「なにあげたの?」

「タイピン? 律のなまえが入ってるやつ。邪魔にならない程度に身に着けられるものがいいって言うから」

「タイピン……」


 鹿名田かなだ家の法事で、スーツに半ば着られていた葉のようすを思い出す。葉は普段スーツが必要な職場ではないし、タイピンを贈ったらどちらかというと嫌みだ。


「あとは無難なところでハンカチとか……。お財布は?」

「うーん」


 財布もハンカチも使わないことはないのだろうけど、たとえばブランドものを贈っても、喜ぶというより恐縮されそうな気がする。葉が使っているお気に入りの財布は、クリーニング屋のおばさんが趣味の革細工で作ったもので、使い込んだ飴色をしているし、ほかのものを贈るのもおばさんにわるいような。


「じゃあ、高級肉と調味料のセットにでもしたら?」

「それは喜びそうだけど……」


 なんだか全世界から叡智を借りたときとおなじ展開になってきた。これは相談相手や検索ワードというより、葉自身の問題かもしれない。


「あいつってそもそも、物を欲しがるタイプなの? というか、ねえさまにはあげたいものはないの?」


 葉に鳥のかたちのバレッタをもらったとき、ふるえるほどうれしかった。

 バレッタ自体もかわいかったし、髪留めならつぐみにも使いやすい、というのもある。葉はプレゼントを選ぶのがうまいひとなのだ。でも、たとえば葉がくれたものが、落ち葉だって川の小石だって、つぐみはうれしかったと思う。ほんの短いあいだでも、葉はつぐみのことを思い出して、つぐみのことを考えて、バレッタを選んでくれた。つぐみのためにこぼれていったその一分一秒をたまらなくいとしく感じたのだ。すべて拾い集めて、砂時計に閉じ込めてしまいたいくらい。

 こういう気持ちってどうしたら伝わるんだろう。

 つぐみは整然と並べられたディスプレイに目を向けた。どれもきっとどこかの誰かのためにおさまっているのだろうけど、つぐみが探しているものはここにはない気がした。



 *…*…*



 結婚記念日の当日、葉は鉄板の手巻き寿司のほかに、淡いピンク色とココア色のマカロンを焼いてくれた。


「マカロンってつくれるんだ……」


 手巻き寿司を食べ終えたあと、どどん!とお皿に盛られて出てきたマカロンにつぐみはびっくりした。なんとなくパティスリーでしかつくれないような特殊なお菓子だと思っていた。


「つくれるよー。卵白と砂糖とアーモンドパウダーを混ぜて焼くだけ」


 葉はどやっとした顔で言った。

 葉がつくったマカロンは、お店のものよりももうすこしまるっとしたフォルムでかわいい。淡いピンクのほうはホワイトチョコレートのガナッシュが入っていて、ココア色のほうはチョコレートガナッシュだった。軽い食べ心地なので、ぱくぱく食べられる。


「どう? おいしい?」

「うん、すごく」


 やったー!と葉はうれしそうにした。


「二年目の俺の目標は、おやつを充実させることなのです!」

「おやつ? 増やすの?」

「ごはんは施設のおばさんから教わったのとか、自分で覚えたのとか結構つくれる種類があるんだけど、そういえばおやつってあんまりつくったことなかったなあと思って。いちご大福とか、スイートポテトとか、おやつに食べられたらしあわせじゃない?」

「しあわせだと思う」


 つぐみは何度もうなずいた。どちらもつぐみがだいすきなおやつだ。お店で買ってくるのもいいけれど、葉がつくったら何日もたくさん食べられる。

 紅茶と一緒にマカロンを味わうあいだ、でもちょっとつぐみはどきどきしていた。さっき葉が洗いものをしているあいだに部屋からこっそり持ってきて、座布団の下に隠しておいたものに手で触れる。そんなことを知る由もない葉は、「次はパウンドケーキに挑戦しようかなー」なんてのんびり言っている。すごくよいと思う。でもそれどころじゃない。


「く、久瀬くぜくん」


 マカロンのお皿が空になると、葉が腰を浮かせたので、つぐみはあわてて葉のパーカーの裾を引っ張った。


「あ、まだほしかった?」

「マカロンはほしいけど、そうじゃなくて……」


 手にしていたものを葉に差し出す。


「これあげる」


 なんだか子どもがお父さんに肩たたき券をあげるみたいなかんじになってしまった。もっと雇用主らしく日ごろの感謝を添えたり、なるべく表情筋も仕事をさせようと思っていたのに。


「えっ」


 葉はきょとんとしてつぐみを見返した。


「くれるの?」

「うん。このあいだ、お歳暮くれたから……」


 この言い方だと、単なるお返しをしたみたいで、ぜんぜんつぐみの気持ちにそぐっていないのだけど、もう言い直す余裕がなかった。ドアをまえにしたときとはちがう意味で、心臓がどくどくと音を立てている。


 つぐみが葉にあげたのは、簡単なラフに水彩で淡く色をつけただけのスケッチだった。そこにはこの家の庭とホースで水やりをする葉が描かれている。思いついたのがきのうだったので、今朝、葉が庭の水やりをしていたときにこそっと描いて、昼に色を塗った。さっきまで乾かしていたので、ほんとうにぎりぎりだったのだ。

 画業で身を立てるようになって数年が経つけれど、つぐみは誰かのために絵を描いたことがなかった。つぐみが普段描く絵は、つぐみの内側の凝りを削り取るように生まれ、画に描き留めたあとは、ただ見知らぬひとが値をつけて買っていく。もちろん依頼品のときはオーダーに添うように描くけれど、それはあくまで画家と依頼主という関係性のなかで生まれる作品というだけであって、真実そのひとのために描いた絵ではない。

 でも、このあいだ、つぐみははじめてひとから絵をもらった。それは夏の朝顔を描いたというもので、お世辞にもうまいとは言えない。

 なのに、うれしかった。絵の技術や価値とは関係ない、そこにまぎれこんだ心の欠片のようなものに、つぐみの心がふっと目を覚ましたみたいに反応したのだった。たぶん、つぐみはあのとき、絵を通して心の欠片をもらったのだと思う。


 葉からはめずらしく反応が返ってこなかった。

 不自然なくらいの沈黙が続いて、つぐみは俯いたまま焦ってくる。

 思いついたときは自信を持っていたのだけど、もしかしたらまちがえたのかもしれない。もっとひばりとか全世界の叡智を信じて、洒落たものを選んだほうがよかったのかも。葉だって、一点もののバレッタなんて、よく考えたらすごくおしゃれなものをくれた。子どもっぽい贈りものをして呆れられているのかも……。


「――これって俺?」


 尋ねられて、「あ、うん」とかぼそい声でうなずく。


「いつも庭の世話してくれてるから……」

「そっかあ……。ありがとう」


 顔を上げたはずみに目が合った。

 つぐみはなんとなく、葉は相好を崩してわらうんじゃないかと思っていた。葉はいつも感情表現も豊かだ。でも、そのときはなんだかまぶしそうに目を細めていて、ほろりと微笑がこぼれた。透明な水晶の内側にひかりが射したときみたいな、静かで心が洗われる表情だった。


「すごくうれしい」


 まるでほんとうにひかりが射したみたいに、つぐみの心もほろほろとほどけていく。

 絵は、ずっとずっと自分の苦しみをぶつける道具だった。つぐみのすこしずつひととはちがうかたちの心の、誰とも重ならない、誰ともわかちあえない、誰とも共鳴しあうことのない、固く強張った殻を削り取って、流した血で絵を描いていた。そうではないと息ができなかった。わたしだってこの世界に存在しているのだと、わたしはここにいるのだと、誰にわかられなくてもいいのに、それでも誰かにきづいてほしくて、どうしても、どうしても、息をひそめて生き続けることはできなくて、ずっとずっとひとりで絵を描いていた。

 そう、誰にわかられなくてもよかったのだ。

 なのにいま、わたしの心が君に触れて、君の心にわたしも触れて、すべてではなくて、ほんの一ミリか二ミリ、たったそれだけの重なりなのに、とてもあたたかくて、泣いてしまいたいほどうれしい。つぐみははじめて、絵を描く道具としての自分の手がすきになった。ほんとうにすこし、すこしだけだけど。

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