二 奥さんと贈りものの難題 (1)

 手のなかの青い石が嵌め込まれた鳥をつぐみは眺めた。

 毎日一時間くらいぼーっと眺めている。これを葉からもらったのはもう十日ほどまえになるのだが、毎日いくら眺めていても飽きない。じっと見ていると、鳥が存外きりっとした顔立ちであることや、爪がまるくて、羽が描く曲線のやわらかさなんかにもきづいて、新たな発見をした気分になる。青い石は透明で、ふちにわずかな曇りときずがあった。そういうところもみんな、いとおしく感じる。


 今日も「もらったバレッタを眺めるだけ」という至福のひとときを過ごしたつぐみは、おもむろにベッドから立ち上がり、パソコンを起動した。

 いちおう所持しているスマホは、つぐみの場合だいたい充電切れを起こしていて、それはようと連絡を取る必要があるとき以外、ほとんど電源を入れることがない。スマホはきらいだ。何かと常時つながっているのは疲れる。パソコンは電源を入れるとつながり、電源を切ればまたひとりに戻れるからすきだ。

 椅子を引いてパソコンのまえに座ったつぐみは、難しい顔をして腕を組み、慎重に文字を打ちこんでいった。


『夫、結婚記念日、プレゼント』


 検索ボタンをクリックすると、全世界の親切なひとたちがさまざまな叡智をつぐみに授けてくれる。

 人気の上位にあがっているのは、腕時計や名入れボールペン、お酒のグラスとかだった。高いものから安いものまであったけれど、なんだか葉のイメージとちがう。

 検索ワードを変えてみた。


『従業員、プレゼント、福利厚生』


 葉にはお歳暮をもらったのだから、つぐみも従業員の福利厚生を目的としたプレゼントを贈るべきでは?と考えたからなのだが、今度は「さりげなさ」が重視されてしまって、お菓子とか、調味料のセットとか、タオルとか、葉に贈ったら喜んでくれそうだけど、「じゃあふたりで食べようか!」とか「ふたりで使おうね!」と言われそうな気がする。つぐみは葉のために何かを贈りたいので、これもちがうようだ。

 悩んだすえ、つぐみはさらに検索ワードを打ち込んだ。


『恋人、プレゼント、喜んでもらう』


 検索ボタンをクリックしようとしてから我に返り、あわててデリートキーを押した。葉はつぐみの恋人ではない。

 結婚記念日はもう三日後に迫っている。絵の下図を考えるときだってこれほど悩まないのではないのか。もういっそ、ボーナスだと言って十万円をポンと渡したほうが葉は喜ぶんじゃないか。つぐみがへんなプレゼントを選ぶより、自分で好きに使えるし。

 想像すると、葉は「ありがとう」と言ってくれそうだったけど、なんだかすこし切なそうな表情になる気がした。つぐみにもちょっぴりわかってきたけど、あれはほんとうはうれしくないときの葉の表情だ。今回はお金はやめよう、とつぐみは思った。


 結婚記念日に葉はいつもの手巻き寿司を作ってくれるだろう。たくさんの色鮮やかな海鮮の具と、ふわふわの甘い錦糸卵。もしかしたら、近くのケーキ屋さんでつぐみがすきなショートケーキを買ってきてくれるかもしれない。

 葉はつぐみを喜ばせる方法をたくさん知っているのに、つぐみは全世界の叡智を借りても、ひとつも思い浮かばない。でも何かしたい。どうすればいいんだろう。

 んんん、と考え込み、つぐみは抱き枕代わりにしている柴犬のクッションに突っ伏した。


 

 *…*…*



 翌日、つぐみは美大の一日絵画教室のときぶりに外出した。めったにないが、ひとりきりの外出である。


「スマホの充電はオッケー?」


 葉は家の玄関まで見送ってくれた。


「オッケー」

「充電器も?」

「持った」

「今日は一日家にいるから、何かあったら連絡してね」

「うん」


 一週間ほどまえ、つぐみはひとと会う約束をした。葉は「車を出そうか?」と言ってくれたけれど、だいじょうぶだと首を振る。そのひととはふたりきりで会いたかったし、ついでにもうひとつ別の用事を済ませたいという理由もあった。そこに葉がいられるのはこまる。

 道順はすでに調べてあって、途中、ドアをあけなくてはならない場面は生じないはずだった。つぐみが苦手なのはあくまで建物や部屋のドアであって、電車やバスといった乗り物のドア、エレベーターやコンビニの自動ドアなんかは問題なく使うことができる。

 だから、ほんとうはこれまでもつぐみが強く願えば、外にはでかけられたはずなのだ。つぐみにとって、それだけの理由が部屋の外にひとつもなかったというだけで。


 電車を乗り継いで、都心に近い街に出る。

 つぐみが住んでいるのは東京の郊外にある、とくに有名でもない下町なので、ごくまれに都心近くに出ると、ひとの多さにくらくらする。布製の肩掛けかばんをぎゅっと握り、スマホに表示された道を注意深く歩いた。

 待ち合わせ場所のホテルに入ると、ラウンジのソファに目を惹く容貌の少女が座っていた。


「ひばり」


 つぐみの呼びかけに、ひばりは口をつけていたカップから顔を上げた。


「ねえさま」


 ラウンジにぽつんと立ったつぐみの左右に視線を走らせ、「……ひとりで来たの?」と尋ねる。


「うん。電車とか自動ドアは平気だから」

「そう」


 ひばりもひとりのようだった。

 まっすぐな黒髪がかかった藤色のクラシカルなワンピースを見つめて、制服ではないんだなと思い、そもそも今日が土曜日だったことにきづいた。つぐみの画業は世間の祝休日とは無縁だし、葉もスポット的な働き方しかしていないので、曜日感覚がズレがちだ。


「座ったら?」

「あ、うん」


 促されて、ひばりの対面に浅く腰掛ける。

 渡された革張りのメニューから飲みものを選んだ頃に、ひばりがラウンジの従業員を呼んでくれた。「ホットミルク」と頼んでメニューを戻す。


「はい、これ」


 ひばりはすぐに本題に入った。

 封がされた茶封筒は下方に興信所の印字が入っていた。

 ひばりが個人で依頼した久瀬くぜ葉――本郷ほんごう葉の調査書だ。

 以前、祖父の法事で、葉と別れるようひばりに迫られたとき、彼女は葉の身元を興信所を使って調べたと言っていた。

 だが、一週間ほどまえ、ひばりからつぐみあてに連絡があり、葉に関する調査書をつぐみに渡すと言ってきた。どういう風の吹き回しかはわからない。調査書を両親や親族たちに見せれば、もっと強固に葉と別れさせようとしてくるだろうし、つぐみ相手に嫌がらせがしたいなら、ほかにも使い道はあるだろう。でもひばりはこの切り札をつぐみ相手に使っただけで、もう手放すのだという。

 葉の出生から経歴がのった調査書を簡単に確認すると、「コピーは?」とつぐみは慎重に尋ねる。ひばりは呆れたような表情をした。


「取ってないよ。わたし以外、誰も見ていない。もちろんりつも。……おばあさまに限って知らないなんてこともない気がするけど」

「そうかもね」


 誰が何を知っていても、つぐみの生活を脅かしてこないのなら、正直何でもいい。

 葉と結婚するとき、つぐみは鹿名田かなだ姓を捨てなかった。本音を言えば、鹿名田一族からは完全に離れたかった。以前ひばりが指摘したとおり、鹿名田を名乗れば、本家の血を引く娘だのなんだの言われることが増えるからだ。

 でも、葉の姓を使おうとすると、法的には本郷姓を名乗るほかなくなる。つぐみのほうにはなんのこだわりもないが、ただ、ひとつどうしても困ることがあって、つぐみは葉も含めて対外的には、二年半前に久瀬葉とはじめて会った、ということにしている。つまり、葉が本郷葉であることにきづいていない、ということにしている。

 ふつうに考えて、絶対にありえない。健康保険証や運転免許証といった各種書類には本名が記載されるし、一緒に生活していてきづかなかったら、つぐみは相当のまぬけだ。でも、そういうことにしている。過去にさかのぼれば、十三年前の事件のことは避けては通れず、わたしたちはきっと当然のように終わってしまうだろうから。


「あいつのほうは、ねえさまが誰だかわかっていないわけじゃないんだよね?」


 調査書を封筒にしまうつぐみに、ひばりが訊いた。

「うん」とつぐみは首肯する。


「はじめは、もしかしたらわかってないのかもとも思ったけど……」


 葉はなんだか抜けているところがあるので、つぐみの名前自体を忘れてしまったのかもとか。もしくは、どこかで頭を打ってつぐみの記憶だけきれいさっぱり抜け落ちたのかもとか。

 そんな馬鹿なことはありえなかった。

 しばらくそばにいるとわかる。葉はそれときづかせないくらい自然に――でも絶対に自分の両親の話をつぐみにしない。施設以前の子どもの頃の話もだ。

 再会してからすこしして、そのことにきづいたとき、つぐみは泣きたくなった。君はあんなにおじさんがすきだったじゃないか。その話をつぐみは一生聞けないのだろうか。もしかしたらつぐみを気遣っているとかではなくて、単につぐみには聞く資格がないから話さないだけかもしれないけれど……でも葉は……たぶん葉は……つぐみを痛めつけようと思って、いつか仕返ししてやろうと思って、そばにいるわけではない。たぶん……。


 ――スマホの充電はオッケー?

 ――充電器も?

 

 つぐみをどうでもいいと思っているひとなら、外出先のスマホの心配はしないだろう。何かあったら連絡していいとわざわざ言ったりもしないだろう。

 べつに何かとくべつなことを言葉にして確かめたというわけではないのだ。

 ただ、静かに積み重なっていく日々がふいにじんわりとした重みを得たとき、つぐみはこのひとを信じようと思った。どこにも行かないって言ってくれた葉の言葉も。


「……これ、なんでわたしに渡してくれたの?」


 茶封筒をかばんにしまいながら訊いた。

 ひばりはつぐみのことが嫌いなはずだ。つぐみは鹿名田家の長女としての役割を放棄して、家から逃げ出した。つぐみが捨てたものをぜんぶ引き受けるはめになったのはひばりだ。恨まないわけがないし、皆のまえでのつぐみに対する辛辣な態度は当然だ。


「べつに……気が向いただけだよ」

「……そう」

「ねえさま。あの……」


 めずらしくひばりがためらうそぶりをしたので、つぐみは瞬きをした。


「あのあと……へいきだった?」

「え?」

「くるしそうにしてたから」


 ぶつ切りの言葉をつないで、どうやらひばりが鹿名田家でドアを締めたときの話をしているらしいときづいた。「ああ……」とつぐみは顎を引く。


「べつにときどきあることだし……」

「あんなのが、ときどきあるの?」


 ひばりは信じられないという顔をした。

 そういえば、ひばりのまえでああなったことはなかった。鹿名田の家でのつぐみは長いあいだ完全に心を閉ざしていて、はじめの何度かは激烈に苦しい思いをしたけれど、その後は部屋から出ようともしなかった。だから、ある意味で平穏だったのだ。

 いまはすこし、前よりもたいへんだ。外出するとき、つぐみはふつうのひとよりずっと丁寧に道順を確認する。始終、気を張っていないといけないので、疲れもする。でももしかしたら、ほんとうはいろんなひとが、見えない場所でこんな風にちいさな工夫を重ねながら生きているのかもしれない。


「いまは大丈夫なの?」


 ひばりは急に不安になったようすでラウンジをぐるりと見回した。


「うん、ここは平気。それにわたしも外に出かけたかったし」


 話しながらふと思いついて、つぐみはひばりを見つめる。


「あの、ひばちゃん」

「……な、なによ?」


 身構えた風に姿勢を正したひばりに、つぐみもまたかしこまって口をひらく。


「教えてほしいことがあって……」

「だから、なんなの?」

「――律くんにはいつも何をプレゼントしてる?」

「は?」

「だから律くんに誕生日とかクリスマスとか、何をあげてる?」


 真面目な顔でもう一度繰り返すと、「……は?」とひばりは胡乱げにもう一度繰り返した。

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