一 旦那さんとキスと下心の問題 (4)

久瀬くぜくん、さっき教室見てたでしょう」


 先生の大役を終えたつぐみは、待ち合わせ場所で合流するや、むくれた顔をした。


「えー、気のせいじゃない?」

「いたよ、窓の外のとこ」

「そっくりさんじゃない?」

「嘘。来ないでって言ったのに……」


 眉根を寄せつつ、ようが差し出した手につぐみは手を重ねてくる。

 葉は今日は早朝の開設準備から出勤していたので、そのぶんを差し引いて午後二時でバイトは上がりだ。絵画教室を終えたつぐみにすこしだけ待ってもらって、一緒に文化祭を見て回ることにした。

 つぐみは大学は行ってないし、高校は一日も通わないまま中退したので、文化祭というものを見たことがないらしい。そういう葉も高校卒業後はすぐに就職したので、このバイトではじめて大学の文化祭というものを経験したわけだが。


「つぐみさん、お昼ごはんはもう食べた?」

「ううん。あ、久瀬くんが言ってた、卵で包んだ焼きそば買っておいたよ」

「えっ、わざわざ探してくれたの?」

「買ったのはさっきだから、まだあたたかいと思うけど……」


 見れば、つないでいないほうのつぐみの手にはビニール袋がさがっている。


「ありがとうー。じゃあ、先に食べちゃおうか」

「うん」


 つぐみからオムそばが入ったパックを受け取ると、構内の広場に増設されたプラスチックの椅子を引く。ちなみに開催前にこの椅子と机を並べたのは葉だ。


「つぐみせんせー、おつかれさま」


 オレンジジュースで乾杯して、オムそばのパックをあける。

 文化祭名物のオムそばは、代々受け継がれし秘伝のソースを使った焼きそばとそれを包むふわふわのオムレツが絶品だと評判だ。確かに家で作る焼きそばよりちょっと濃いめの甘辛いソースが太麺に絡んでおいしい。

 きれいな箸遣いでオムレツを割り、焼きそばを口に運んだつぐみは、はっ!という顔をした。ああ、つぐみさんもついにオムレツ+焼きそばという罪作りなメニューを知ってしまったのか……今度家で作ってあげよう。


「つぐちゃん、どっか見たいところとかある?」


 文化祭のパンフレットをひろげて尋ねると、すでにリサーチ済だったらしく「こことここと、あとここに行きたい」とつぐみは迷わずすいすい指さした。


「あー、デザイン科の韮崎にらさきゼミかー。新しい画材を開発してる研究室だったかな? それと工芸科の……」


 つぐみが示したうちのひとつは、工芸科の講師や生徒の作品の即売会を行っているスペースだった。当然、如月きさらぎのテリトリーである。工芸科の講師職をしつつ、彫金作家としての顔を持つ如月がつくったアクセサリーはどれも人気で、毎年めちゃくちゃ売れる。

 つぐみに限ってわかっていないはずがないので、やっぱり如月目当てなんだろうか。最近あまり話題に出ないから油断していたけど、つぐみは思った以上に執念深い。


「久瀬くんは見たいとこある?」

「時間があったら、花菱はなびし先生の展示が見たいな。ゼミのみんなと百枚虫の絵を描いたって言ってたから」

「わかった。じゃあ、A棟を見たあと、北の階段を回ってC棟に行こう」

「はーい」


 てきぱきとつぐみが順番を決めてくれたので、元気よく返事をする。

 しかし、工芸科の作品展示があるA棟に差し掛かったところで、「せんせー!」と後ろからつぐみが呼び止められた。

 さっき絵画教室に参加していた女の子だ。なかなか描く花を決められなかった子で、今はおねえさんに付き添ってもらってつぐみに声をかけたらしい。

「あのっ」と高校生くらいのおねえさんが、横でもじもじしている女の子の手を握って口をひらく。


「この子がつぐみ先生ともうちょっとだけお話したかったみたいで」

「え?」


 瞬きをしたつぐみに、女の子がそーっと腕に抱いていたお絵かき帳を差し出す。見てもらいたいらしい。お絵かき帳を受け取りかけて、あ、と思ったようすでつぐみは葉を振り返った。


「いいよ、しゃべっておいで。俺、そのへん見て回っているから。――あ、スマホの充電切れてない?」

「今日は大丈夫」

「じゃあ、さっきのとこで待ち合わせしよう。終わったらメッセージ送って」


 肩をそっと押すと、「ありがとう」とうなずき、つぐみは女の子のほうへ戻っていった。近くのベンチにふたりが並んで座るのを見届け、とりあえず葉は当初の目的地だったA棟の展示室に向かう。

 工芸科は、陶磁器やガラス工芸、彫金、染織といったジャンルを幅広く扱っていて、展示されている作品も多種多様だ。正直、葉は現代アートや抽象画になると、これはなにを描いているんだろう?とはてなマークでいっぱいになってしまうので、工芸科の作品は、わーきれいだな、とか、かっこいいな、と見たまま思えるものが多くて楽しい。

 吹き抜けの階段に飾られた染織のタペストリーを眺め、如月をはじめとした講師や生徒が作品を置いている展示室に顔を出す。


「あれ、葉くん? ひとり?」


 ちょうど受付をしていた如月が記名帳から目を上げた。


「んー、つぐみさんと回ってたんだけど、忙しそうだったから」

「ああ、子ども向けの絵画教室? 贅沢だよねー、つぐみさんが先生って」

「つぐみさん、如月の作品見たそうにしてたよ」

「え、ほんと? それは素直にうれしい」


 如月は最近またばっさり短くした髪からのぞく耳に、自身がデザインしたピアスをつけていた。大小の球体が高さを変えて連なっていて、雨粒とか惑星みたいに見える。如月の作品はピアスが多くて、あまり耳元におしゃれをするイメージがないつぐみには向かない気もしたけど、見るのとつけるのは別なのだろう。

 長机が出された教室には、如月のほかに美大生や卒業生がデザインしたアクセサリーが並べられていた。ピアス、ネックレス、指輪、髪飾り。


「それ気になるの?」


 誰が制作したのかわからないバレッタを取り上げて見ていると、如月がとなりに立った。客足が途絶えたので、ひやかしに来たらしい。


「これさ、鳥のかたち、かわいくない? つぐみさんに似合うかなって思って」

「……君、昔とちょっと変わったよね」


 制作者である卒業生の名刺を渡して、如月が苦笑する。


「え、俺? そうかな?」

「うん。すくなくともわたしが知る君は、よそで恋人のことをデレデレ考えてるみたいなひとじゃなかったよ。目の前にいるときはやさしいんだけどね」


 前に如月に言われたことがある。


 ――君は実はとってもドライなひとなんだよ。


 どうなんだろう。葉はつきあったひとはみんな大事にしているつもりだったけど、ほかでもない如月がそう言うんだからちがったのかもしれない。仮にもし如月が三千万円を持って結婚してと言ってきたら、心配したり、朝になるまで愚痴につきあったり、もし泣いていたらそばにいて慰めたりもするだろうけど、うんいいよ結婚しよう、とは言わなかったと思う。それはつぐみだからしたことで、あとにも先にもつぐみにしかしない。


「葉くん、つぐみさんとはいつ出会ったんだっけ」

「えーと、二年半くらい前かな?」


 つぐみと再会した当時、まだ葉は如月の部屋で暮らしていた。

 如月から別れを切り出されたのは、ちょうどその数か月後だ。


「ふーん。なら、よかった」

「え、なにが?」

「君に振られる前に振っておいてわたし、先見の明があったよ」


 一瞬、意味をはかりかねた。それは葉がいずれ如月を振ったかもしれないということだろうか? 自分から関係を切るなんて、葉はしないと思うし、如月とつきあったままだったらさすがにつぐみとは結婚しないと思うけど……。

 怪訝そうな顔をしていると、「それ買うなら二千九百円だよ」と如月は髪飾りを示してくすっとわらった。



 工芸科の展示を回って、花菱先生とゼミ生たちの百枚の虫図を見終えたところで、ちょうどつぐみからメッセージが入った。

 昼にも待ち合わせた場所に駆け足気味で行くと、画用紙を一枚腕に抱いたつぐみが柱のまえで葉を待っていた。


「つぐちゃん」


 声をかけると、「あ」とどこか所在なかった表情に安堵がひろがった。


「ごめん、お待たせ」

「ううん、わたしのほうこそ。いろいろ見て回れた?」

「うん。つぐちゃんが見たかった展示、まだやってると思うけど」

「夕方になっちゃったし、もういいよ」


 さっきつぐみの腕にはなかった画用紙にきづいて、「それ、どーしたの?」と尋ねると、「もらった」とつぐみが画用紙を葉に見せる。右上につぐみせんせいへ、と書かれた紙には、青とピンクの朝顔の花が大きくふたつ描かれていた。


「元気な朝顔だねえ」

「うん。夏休みに育てた朝顔なんだって。さっき描いてくれた。久瀬くん、朝顔の種ってどんなのか知ってる?」

「あー、昔育てたこと、俺もあったような……。黒くてころころってしてるよね」

「花が咲き終わると、ぎゅっと種が詰まっている袋ができるんだよね。あれができると夏ももうおしまいだなあってかんじがする。今日ポケットに入れたままになってた子がいたよ」


 今日のつぐみはいつもより饒舌だ。となりを歩くあいだ、絵画教室に来ていた子どもたちのようすを葉にもちょっとずつ教えてくれる。

 つぐみが楽しそうにしていて葉もうれしい。葉はいつも、つぐみはとってもすてきな女の子なので、みんなつぐみが描いた絵ばかり褒めていないで、もっとつぐみ自身のことも知ってほしいと思っている。

 絵画教室でつぐみのファンは増えたらしい。うれしい。ほんのちょっぴり、でもつぐみさんのかわいいとこをいちばんたくさん知っているのは俺だから!と子どもたち相手にマウントをとりたくなるけど。


「あ、つぐみさん。この大学の塔って文化祭のときだけ夕方に点灯するんだよ。見てこうよ」

「塔がひかるの?」

「うん、そう。屋根のとこがガラス張りになってて」


 つぐみの手を引き、広場に続く大階段をのぼる。

 夕方になり、だいぶ人波も引けてきた。学生たちは夜までバカ騒ぎを続けるんだろうけど、葉は今は勤務時間外なので、施設や備品を壊さない程度に好きにやってくれってかんじだ。

 階段のうえのほうで腰を落ち着けると、ちょうど四時の鐘が鳴って、茜色の空にそびえる時計塔がぺかっと点灯した。おおー、とあちこちから歓声が上がる。


「ほんとだ。ぴかぴかしてる」


 興味深げに塔を見つめているつぐみから、葉は手元に目を戻した。


「あー、ええと、つぐちゃん」


 ポケットに入れていたちいさな包みを取り出す。


「はいどーぞ!」


 献上する勢いで包みを差し出せば、「えっ、なに?」とつぐみはいぶかしがるように葉を見た。


「くれるの……?」

「うん」

「なんで?」


 ――君に似合うと思ったからだよ。

 と言うのはさすがに契約夫の分際で何様だという気がしたので、「一年雇ってくれたから……」と葉は急ごしらえの理由を口にする。ちなみにいちおうつぐみが毎月支給する生活費ではなく、バイト代のほうから払った。


「ちょっと早いけど、お歳暮的な……?」

「おせいぼ」

「ほら、俺たちもうすぐ結婚して一年になるでしょ。だから、いつもありがとうの代わりです」


 とりあえず理由としては立った気がするので、そのまま押し通してつぐみの手に握らせてしまった。考えてみたら、茶色の紙袋に髪飾りをそのまま入れただけなので、ラッピングとかぜんぜんしていない。

 如月値札取ったかな!?と葉は急に不安になってきた。取ってなかった気がする。二千九百円。やばい。葉としては、え、結構するな……?でも作家さんの一点ものだしな……?というかんじだったけど、つぐみからすると、え、安いな……?お歳暮なのに?というかんじかもしれない。


「つぐみさん、待って。一度返してくれない?」

「なんで?」

「ちょっと諸事情あり……」

「嫌」

「なんで!?」

 

 手を伸ばした葉から守るように包みを引き寄せたつぐみは、葉に背を向けて紙袋をひらいてしまった。「ああぁああ……」と葉は悲痛な声を出す。

 値札はしっかり端っこにくっついていた。でも、つぐみはそれに目を留めてはいないようだった。


「バレッタ?」

「うん。つぐみさん、髪長いから使うかなって……」


 アンティークっぽい鳥の彫金に大小のまるい青い石が嵌め込まれたものだ。鳥がきりっとしているかんじとか、青くて透明な石とか、つぐみっぽいなと思ったのだけど、安易だった気もする。

 つぐみは髪留めを握ったまま、しばらく無言だった。おそるおそるうかがうと、なぜか眉間にぎゅっと皺を寄せて怒ったみたいな顔をしている。えっ、どういうニュアンスの表情だろう? 


「あ、ありがとう……」


 何かをこらえるようにつぶやくと、つぐみはすっと葉に髪留めを返してきた。

 さっき葉が「一度返して」と言ったのを覚えていてくれたらしい。葉が値札をほどくために髪留めを摘まむと、「ああ……」とつぐみは我が子をとりあげられた母親みたいな悲壮な声を出した。あんまり見ないでほしいのだけど、葉がバレッタについた値札をほどくのをじーっと凝視している。バレッタに何かしたらただでは済ませないという気迫を感じる。


「ええと、髪につけてみる?」

「うんっ」


 つぐみは大きくうなずいた。

 今日のつぐみは絵画教室のときに邪魔にならないように、後ろで太めの三つ編みをつくっていた。ちなみにつぐみは髪をヘアゴムで結ぶ以外のことは基本的にできないので、髪を結ってあげたのは葉だ。

 バレッタのクリップを外して、三つ編みの根元のあたりに留めてみる。

 これだとつぐみには見えないので、スマホで撮った写真を見せてあげた。

 スマホから目を上げて、「……どう?」とつぐみはそわそわと葉にも訊いてきた。


「似合ってる。とってもかわいいよ」


 思ったことを素直に伝えると、つぐみは肩を跳ね上げて俯いた。まとめた髪からのぞいた耳や首のあたりまで赤い。あっいつもの恥ずかしがりやのつぐみさんになってしまった、と微笑ましく思っていると、「ありがとう」とつぐみはもう一度言った。


「……お歳暮、うれしいです」


 目を合わせたとたん、ふわっとつぐみから笑顔がこぼれた。

 思わずまぶしくなって、葉は目を細める。

 それは春の花がいっせいに咲いたみたいな、可憐な微笑みだった。

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