一 旦那さんとキスと下心の問題 (3)

 キスによる下心問題はひとまず十日にいっぺんということで落着したが、つぐみのほうは近頃別のことでちょっと忙しくしている。


「か、鹿名田かなだつぐみです。日本画……絵のおしごとをしています。今日はみなさんと、お花の絵を描いてみようと思います」


 白のスモックをつけて、ようを相手に、しどろもどろに自己紹介の練習をするつぐみに、「せんせー! はいはーい!」と葉は元気よく手を挙げた。


「どら焼きはお花に入りますか?」

「……入りません。久瀬くぜくんがすきなお花を描いてみましょう。ひまわりとかチューリップとか……いまの季節なら、はぎ曼殊沙華まんじゅしゃげ、菊、竜胆りんどう……」


 んー、子どもに萩とか曼殊沙華とかわかるかな?と思いつつ、つぐみが一生懸命なので、うんうんとうなずいておく。居間のちゃぶ台のうえには、十二色のクレヨンや水彩絵の具、色鉛筆といった各種画材が用意されている。それと画用紙が何枚か。つぐみは先生役の練習をしていて、葉は生徒役だ。

 来週、葉がバイトをしている美大では文化祭がひらかれる。美大生たちの作品展示はもちろん、屋台や催しものも盛りだくさんで、周辺の大学生や受験生たちだけでなく、近所の子どもたちも遊びにやってくる。つぐみは催しもののひとつである「子ども一日絵画教室」の先生役を務めることになったのだ。つぐみの師である花菱はなびし先生じきじきのご指名だった。

 十七歳のときに「花と葉シリーズ」で一躍脚光を浴びたつぐみは、美大はおろか高校にも通っていない。ただ、彼女の師である花菱先生は、画家として独り立ちしたあともつぐみを気にかけていて、ときどき同世代の美大生たちと交流を持たせるようにしたり、今回のようなバイトに誘ってみたり、心を砕いているようだった。


『前はこういうバイト、誘ってみてもぜんぜん興味を持ってくれなかったんだけどね』


 つぐみが毎日の作業を終えたあと、夜な夜な「一日絵画教室」の練習をしているという話をしに行くと、花菱先生は大学にある自身の制作室で、下図を描きつつ苦笑した。構図や配色の構想を練る小下図と呼ばれるものだそうで、紙上にはカミキリムシや鈴虫が秋の野菜と並べて描かれている。美大の教授であり、日本画家でもある花菱が得意とするモチーフは昆虫だ。


『今回はやってみたいって。訊いた僕のほうがびっくりしたよ』

『先生、あのさ、絵画教室やる部屋のドアって……』

『だいじょうぶだよ。当日はどの部屋もあけっぱなしだから。スタッフにもそれとなく伝えておくけど』


 それならよかった。葉はいちおう施設管理スタッフという名目で雇われているので、文化祭期間中は構内のパトロールとか誘導でこき使われる。もちろん、行きと帰りはつぐみに付き添うつもりだし、休憩時間にはつぐみに美大名物オムそばを食していただかなければって思っているけど、いつものようにずっとそばにいられるとは限らない。


「――久瀬くん。なに描いてるの?」


 つぐみが画用紙をのぞきこんできたので、「庭のコスモス」と葉は機嫌よく答えた。


「コスモス……」


 葉の絵を見たつぐみは三秒くらい絶句した。


「え、と、元気なコスモスだね……?」


 元気ってあまりコスモスには使われない言葉のような……。

 確かに葉が描いたピンクのコスモスは、画用紙いっぱいに描かれているので、生命力がありあまってそうではある。


「かなだせんせー、お手本みせて」


 葉が持っていた色鉛筆を差し出すと、「すきに描いていいんだけど」と言いつつ、つぐみは新しい画用紙をひろげた。庭に咲いているコスモスを思い出しているのか、すこしのあいだ目を瞑ったあと、ちいさな手でさらさらと花を描いていく。

「すごい」と葉はつぶやいた。


「誰が見てもコスモスってわかる」

「コスモスは花びらがスカートみたいにびらっとしてるの。平面的で……茎は折れそうなくらい細い。でも種類によってそうじゃないときもあるし……おなじ種類でも細部は花ごとにちがうから。久瀬くんが描いたのはうちの庭のだから、センセーションかな。いちばんポピュラーな種類。縁側のそばに生えている子なら、花がくしゅっと縮こまり気味だったはず……」


 正直、コスモスの種類まで葉はわかっていなかったが、つぐみが言うならそうなのだろう。すこしずつ彩色が進んでいくつぐみの手元に目をやり、葉は口元をほころばせた。


「かなだせんせー。せんせいは、どうしていつもお花を描くんですか?」

「それは、ほかに描くものがなかったからです」


 ちょっぴり切なくなる答えが返ってきた。


「わたしの部屋からはよく庭の花が見えて――」


 つぐみはコスモスの花びらに陰影のために青を入れながらつぶやいた。


「そこは建物のあいだとあいだにある坪庭で、毎日午前の二時間くらいしか陽が射さないんだけど……花は必ず咲いて、でもわたし以外の誰にも見られずに散っていって……わたしは一度、花をぜんぶ抜いてしまったことがあるの。がんばって咲いても意味がないし、疲れるだけでしょう。おばあさまが雇った庭師は怒るというより、おびえた顔をして、花が抜かれた穴を埋めてた。――でも翌年、おなじ場所からやっぱり花が咲いて……」


 ふいに葉の脳裏に鹿名田の大きな屋敷の二階の窓から、じっと庭を眺めているちいさなつぐみのすがたがよぎった。ただの想像だ。つぐみが言う庭がどこにあったのかも、葉にはわからない。


「わたしはこれを描かなければならないと思ったの」


 つぐみの手元で、コスモスはいま咲いたかのようにみずみずしく花ひらいた。

 うーん、とつぐみは眉間に皺を寄せて、葉とつぐみのコスモスを見比べる。


「……わたしって教え方、下手?」

「そんなことないよー。せんせいはとってもすてきだよ」


 心の底からの賛辞である。鹿名田先生はとってもすてきだ。

 でも、つぐみは口先だけだと思ったらしくて、唇を尖らせた。


「子どもって何しゃべったらいいかわからない」

「ふつうにしゃべれば平気だって。どら焼きの好きな味の話とか、きのう食べた夕飯のこととか」

「久瀬くんはどうせ子どもにも好かれるんだもん」


 拗ねてしまったようすで、つぐみは葉の手から画用紙を取り上げた。

 ごみ箱にポイっとされるのかと思ったら、まっすぐ伸ばして、居間の壁に貼ってくれる。うれしくなったので、つぐみのお手本もとなりに貼った。生命力がありあまったコスモスと居住まいを正したコスモスが砂色の壁をでこぼこと彩って、居間がすこしにぎやかになる。



 *…*…*



「そ、それではお花の絵を描いてみましょう」


 一週間後。一日絵画教室の教壇に立ったつぐみは、集まった子どもたちに向けて、つっかえながら、はじめの挨拶を終えた。ギャザーがたっぷり入ったグレーのティアードワンピースにスモックをつけたつぐみは、太い三つ編みで髪を後ろにまとめている。緊張しているせいか、いつもの三割増しくらいにきりっとした表情だ。


「せんせー!」


 子どものひとりが元気よく手を挙げるのを、葉は窓の外からはらはらしながら見守る。ちなみに今は構内パトロールの最中である。ちょうどつぐみが一日絵画教室をしている部屋のまえをパトロールしているのである。サボりではない。


「バナナはお花に入りますかー!」

「は、はいりません!」

「せんせーは彼氏はいますかー?」

「かれしっ?」

「はいはーい! 彼氏は何人いますかー?」

「せんせいは結婚しているから、いませんっ!」


 つぐみが力いっぱい言い返すと、なぜか子どもたちから爆笑が上がった。

 配られた画用紙に子どもたちがうきうきとクレヨンや色鉛筆を走らせる。

「せんせー」と袖を引っ張ってくる子もいて、何かを訊かれたつぐみは一生懸命、身振り手振りで説明をしていた。筆が進んでいない子のまえでも立ち止まって、話を聞いたり、一緒に考えたりしている。ふたりとも難しい顔で黙り込んでしまったときには葉も一緒にどうしようかと思ったが、そばにいた子が見かねたようすで助け舟を出した。それでその子も何かを思いついたらしく、白い紙に鮮やかな黄色の線が引かれていく。

 ほっと胸を撫で下ろしていると、子どもたちのあいだを回っていたつぐみと窓ガラス越しに目が合ってしまった。しまった、と思って隠れたあと、そーっと顔だけをのぞかせる。つぐみは息をついて、ちいさく手だけを振った。


「つぐみせんせー!」


 そんな彼女を呼ぶ子どもたちの声が、伸びやかに教室に響きわたる。

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