一 旦那さんとキスと下心の問題 (2)

 まどろんだ午後の空気のなかで、ざりざりと鉛筆が紙のうえを走る音だけがしている。

 ざりざり。ざりざり……。ときどき微かな息遣いが漏れ、つぐみが丸くなった鉛筆を別のものに持ち替える。それ以外はなんの音もしない。深海の底にいるみたいに静かだ。

 ようは半開きの障子戸を背に、モデルをするときにいつも使う椅子に腰掛けている。もちろん、何も着ていない。

 九月下旬になって涼しくなった風がひらいた障子戸から流れこんだ。頬にかかった髪がふわりと揺れる。あ、微妙に伸びてる、ときづく。最近忙しくて髪を切るのを忘れていた。葉はいつもどおり、とりとめのないことを考えていて、それを見つめるつぐみの眼差しはつめたくも熱くもなく、透明なひたむきさを帯びている。

 ふしぎなもので、つぐみはキスしたりとか、手で触れたときは過剰なくらい反応するのに、画家として葉に相対しているときは恐れもしないし、恥ずかしがりもしない。つぐみがそうなので、葉も何も感じない。包み隠さず、すべてを見せている。恐れも恥ずかしさもないけれど、ただ暗い水のなかでずっと息もしないで泳ぎ続けているような、多少の息苦しさがある。


 ――あんたってツグミの絵のなかの『葉』とぜんぜん似てないよな。

 ――絵ってね、いきものなんですよ。葉くん。


 ぼんやりしていると、このあいだ羽風はかぜに言われたこととか、鮫島さめじまに言われたことが気泡のように葉の脳裏に浮かび上がっては消えた。

 実はあのあとびくびくして、著名な画家のモデルになったひとたちのその後をネットで調べたのだけど、結構みんなポイっと捨てられている。結婚していたのに捨てられて、次のモデルが妻の座におさまっていたりとか。ピカソとか悲惨で、モデルのひとたち、ポイ捨てされたあと、自殺したり病んで入院したりしている。こわい。つぐみに捨てられたら葉も傷心のあまり死ぬのか? こわい。こわすぎる。


 一時間ほど無言で描き続けたあと、つぐみは鉛筆を置いた。


「――お疲れさま」


 それがスケッチが終わったという合図だ。

 葉はほっと息をついた。ポイ捨て妄想で、ちょっと溺れかかっていた。

 凝り固まっていた手足を伸ばすと、長椅子にかけてあった服を取る。それらを身に着けていきながら、「あ、花菱先生からほうじ茶もらったよー」と思いついたことを言った。


「お茶淹れるから、つぐみさんがこないだ買ったどら焼き食べようよ」

「……う、うん」


 つぐみは閉じたスケッチブックを抱き締めるようにして葉から目をそらした。長い髪からのぞいた耳がわずかに赤く染まっている。えっ、と思って、葉はチノパンを半分ほど履いたまま固まった。いきなりつぐみに恥じらいモードに入られてしまうと、こっちもこっちで急にいたたまれなくなってくる。


「…………」

「……………………」


 沈黙に急きたてられるように服を着終え、「じゃあ、お茶先に淹れてます!」と葉は部屋を出た。

 平常心、平常心、と自分に言い聞かせつつ、水を入れた薬缶を火にかける。花菱からもらったほうじ茶の封を切ると、まろにえ堂の黒糖味と栗のどら焼きをお皿に出した。

 つぐみが遅れて居間にやってきたので、「どら焼き半分こにする?」と尋ねる。つぐみはなぜかほっとした風に「うん」とうなずいた。


 半分こしたどら焼きはどちらもおいしかった。


「どっちが好きだった?」


 お茶に息を吹きかけつつ、つぐみが尋ねる。


「んー、どっちも好きだけど、選ぶなら栗かなー」

「秋になったら、マロングラッセが期間限定で出るらしいよ」

「それもおいしそうだね」


 時間は四時過ぎで、もうすこししたら夕飯の支度を始めないといけないけど、それまではゆっくりできる。つぐみも今日はもう作業を終えたのか、座椅子で雑誌をめくったりしてくつろいでいる。


「そういえば、鮫島さんの展示会はどうだったの?」


 実はその話はきのう帰宅したときにつぐみに一度したのだが、顔料のための石を砕きながらだったためか、聞き流されている感があった。案の定、忘れていらっしゃる。


「ええと、羽風さんに会ったよ」

「……だれ?」


 きのうは「ふーん」で話が流れたのだが、今日は訊き返された。


「ほら、フラミンゴ色の髪の。うちに一度鮫島さんが連れてきたの、覚えてない?」

「あー」


 やっと思い出したようだったけど、興味はなさそうだった。

 つぐみはそれ以上訊いてこなかったし、あいつはつぐみを何度も呼び捨てにしたので、会いたがっていたことはつぐみには教えない刑に処す。今度、つぐみさまと呼び直したら、取次のおうかがいを立てるくらいはやってもよい。


「つぐちゃんが出した絵、もう何人も買い手がついてたよ。鮫島さんが喜んでた」

「そう」


 淡白にうなずき、「いくらくらい値がついたんだろう」とつぐみはつぶやいた。

 つぐみの絵に対する熱情と冷ややかさは、葉にはいつも摩訶不思議に映る。描いているときの、このちいさな身体のいったいどこにひそんでいるのだろうと驚かされる情熱と、納品したあとの、周囲の賛辞とは裏腹にただ商品としての価値だけを見ている冷ややかさ。つぐみは有名な先生にどんなに熱烈な美術評をもらっても浮かれないし、自分が描いた作品がどんな展示をされているかとか、ひとにどう思われているかにもあまり興味がないようだった。

 超然としているというより、ぴったりドアを閉じている。

 つぐみが描いた作品は、つぐみの内側と外の世界をひとつも結びつけたりしない。葉はつぐみの絵を見ていると、ときどき胸が痛くなる。そこがあまりにもうつくしく、隙間なく、完璧に閉ざされているからだ。絶対にわたしの内側に踏み込んでくるなというように。

 いつの間にか、沈黙が落ちていた。


「あ、お代わりいる?」


 つぐみの湯飲みが空になっているのにきづいて、葉は腰を浮かそうとする。

 何も言わずにつぐみは葉のカーディガンの裾を引っ張ってきた。

 口に出して決めたわけではないのだけど、葉とつぐみのあいだにはふたりだけにわかるサインがあって、つぐみが葉の服の裾を両手で引っ張ってきたときは、キスして、だ。ただいまでもおかえりでも、おはようでもおやすみでもないので、なんでもないけどただキスがしたい、のサイン。

 なにも考えずに唇を触れ合わせた。キスの平均回数とかで悩んでいたのがどっか飛んでいくような速さで。葉は流されやすい。そういうところがある。でもつぐみのときは微妙にちがっていて、主体的に流れていっている。欲しがられたら、なんでもあげたい。すこしも待たせずに。

 鹿名田かなだ家から帰ってきた頃から、つぐみがずっと纏っていた鎧のようなものがふわっと解けたのに葉はきづいた。前は、四六時中どこかで気を張っていた。長椅子でくったり眠っているときも、葉が作ったごはんを食べているときも、つぐみはぜんぶは葉に気をゆるしていなくて、何をするでもおそるおそるだった。

 だから、つぐみの肩からふわふわと緊張が抜けて、葉はすごくうれしくなった。そんなに一生懸命、ちゃんとしようとしないでいいよって葉はずっと思っていたから。欲しいものはいくらでも欲しいと言っていいし、もっと甘えていいし、たくさんわがままを言っていい。

 この子が育った環境から愛情に飢えていることにはなんとなくきづいている。

 つぐみははじめに言った。

 三千万円でわたしと結婚して、わたしをあいしてと。

 あいして、というのは、つぐみの場合、単純に大事にされたいとか、ひとりの人間として丁寧に接してほしいとかそういうのであって、男女の恋愛的な意味ではない……たぶん。最初に性交渉は契約外って釘を刺していたし、そもそも、この子の「キスして」って、ちいさな子が「好きって言って!」とか、「頭撫でて!」と言っているかんじに近いのだ。

 べつにそれでもぜんぜん葉はよくて、いくらでも大事にしてあげたいし、言葉を尽くして、君は大事にされて当然のひとなんだよって伝えたい。そう思っている。ほんとうだ。

 でも一方で、葉はつぐみのことを想っている。

 女の子として恋着しているのだ。

 すきな子とキスしている時点で無欲な菩薩のようにはいられず、むしろ煩悩は渦巻くわけで、なんだかもうそれってスーパーの精肉売り場で、ほんとうは豚小間肉なのに牛の高級ステーキですって偽装して売りつけているみたいだ。愛情(人間愛100%)というシールで、実際は愛情(下心20%含む)みたいな。

 つぐみが心をひらけばひらくほど、俺がやっているのは食品偽装ならぬ愛情偽装というやつなんじゃないかって罪悪感がつきまとう。なのに気持ちはどんどん膨らんで、このままいくといつか愛情(下心100%)になっちゃいそうでこわい。


「つぐちゃん、あのさ……。俺から契約の協議というか提案なんだけど」


 結局一回で済まず、軽く五回はキスしたあと、ようやく頭が冷静になってきて、葉はびくびく切り出した。キスしていたときの名残で、つぐみの手は握ったままになっている。


「なに?」

「あの……キス、なんだけど……」

「うん」

「ええと、日にち決めませんか、するとき……」

「……どういうこと?」


 意味をつかみかねているようすのつぐみに、「だから、ほら」と葉は後ろめたさから早口になる。


「スーパーの肉の日とか豆腐の日みたいなかんじで、先に日にちを決めておいて、その日しかしない」


 とりあえず下心混入に関しては、まず不意打ちでするというのがよくないと思う。あらかじめ日にちを決めておけば、朝から心頭滅却して下心を極限まで削ることで、愛情偽装をしないで済む。

 これが根本的な解決になるとは葉も思ってないけど、とにかくこのまま朝から晩までつぐみに乞われるままキスをしていると、下心が早々に大台を突破しそうで危険だ。つぐみがキスに飽きるまで、なんとか20%程度でとどまってほしい。多少の混入物はあれど、おおむね人間愛ですって言えるので。

 けれど、話を聞いたつぐみは目に見えてしおれていった。


「いやだった……?」

「え?」


 考えもしなかったことを訊かれて、葉は目を瞬かせる。

 つぐみは完全に俯いてしまった。


「待って、いやって俺が君を? やじゃない、やじゃないよ」

「そう」


 いちおううなずいたものの、つぐみは顔を上げてくれない。

 まずいと思った。キスするしないはあくまで葉の下心側の問題であって、つぐみがわるいとかいやだとかいうことは一ミリもない。ほんとうにぜんぜんない。つぐみにそう思われるのはこまる。

 葉はつぐみの肩に軽く手を添えて、目を合わせるようにした。


「ほんとうだから。君とキスするのは、まったく、ほんのちょっぴりでも、すこしも嫌じゃない。いくらしてもうれしいし、しあわせな気持ちになるから。信じて」

「……そう」


 今度の「そう」にはちゃんと心が入っていた。ほっと胸を撫で下ろす。

 葉のほうは勢いあまって、キスがすごくすきなひとみたいになってしまったけれど、でもつぐみがほんのちょっとでも「いやがられている」と思うくらいなら、葉はキスがすごくすきな変態でいい。ぜんぜんいい。だって、ほんとうにすきだし。

 とはいえ、それと下心混入は別問題だ。


「じ……、じつはこのあいだ鮫島さんに聞いたんだけど、鮫島さんちでは奥さんとふたりで決めたひみつの数字があって、下一桁がその日のときにだけキスするんだって。つまり、三を選んだら、三日と十三日と二十三日しかやりません的な。みんな言ってないけど、そういうものらしいよ」


 ちなみに、はじめから終わりまでぜんぶでたらめだ。葉は嘘をつくのが得意じゃないけど、追い詰められると真顔ででたらめが言えるらしい。ごめんない鮫島さんと奥さん……と心のなかで謝った。


「そ……」


 つぐみがびっくりしたような顔で葉を見つめてきたので、ひやっとする。いくらこの子がすこし世間知らずだからって、今のはでたらめが過ぎたか。


「そう、だったんだ……」


 つぐみは衝撃を受けたようすでうなずいた。

 安堵するのと同時に、こんなに心が清らかな雇い主を騙してしまった……という別種の罪悪感がつきあがる。でも、背に腹は代えられない。


「どの数字でもいいの?」

「うん。つぐちゃんが好きな数字を選んで」

「じゃあ……」


 すこし考えたあと、「一」とつぐみは言った。


「一がいい」

「わかった。一日と十一日と二十一日と、あとときどき三十一日だね」


 言いながらきづいた。もしかしてつぐみは一から九のなかで、いちばんキスの回数が多くなる数字を選んだのだろうか。かわいすぎか。

 ちなみに今日は九月二十二日だった。

 九月は三十日までしかないので、次は十月一日だ。

 つぐみもおなじ計算をしていたらしく、あ、という顔をした。すこし悩んだあと、「……でも一で」と繰り返す。唐突にかわいいとしんどいの綱引き大会が葉の胸のうちではじまった。かわいいのにしんどくて、胸が苦しい。


「わかった、じゃあ『一』で。……あしたから、そうしよ?」


 日を決めてキスをするのはあしたからなので、今日はまだしてもいい。

 自分に言い訳しつつ、つぐみにおうかがいを立てた。受け入れるようにつぐみが目を伏せたので、ほっとして唇を重ねる。

 頬に手を添えて、もう一度丁寧にくちづけた。それから、こめかみや頬のあたりにも軽く唇を触れさせると、くすぐったかったのか、つぐみがふふっとすこしわらう。甘くて苦い痛みが胸を襲う。……ああもう下心混入阻止、無理かもしれない。

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