(お正月番外)つぐみさんちのお正月

「つぐちゃーん」


 半分ひらいた襖の向こうからようが声をかける。


「うん」

「つぐみさーん」

「うん」

「ね、もう開けていーい?」

「だ、だめっ」


 あわてて声を張れば、「ええ……」と残念そうな声を出し、でも葉はきちんと半分ひらいた襖の向こうで「待て」をした。

 居間にある姿見のまえに立ったつぐみは、今一度自分のすがたを確かめる。

 数年ぶりに箪笥たんすから出した振袖は、きちんと保管していたため、虫が食ったり皺が寄ったりはしてなかったけれど、何しろ着付けること自体が久しぶりだ。衿元がだらしなくなってないかとか、帯の結びが変じゃないかとか、入念なチェックを入れたあと、もう一度鏡のまえで前髪を指で直す。

 心を決めてようやく襖から顔を出すと、きづいた葉が振り返った。ぱあっと効果音がつきそうなくらい、葉の顔が輝く。


「――久瀬くぜくん」


 恒例の賛辞が飛び出すまえに、つぐみは葉の口に塞ぐように手をつきだした。


「だいじょうぶ。褒め言葉は平気」


 そう言っておかないと、葉はつぐみを褒めまくるのである。

 もちろんつぐみだって、おめかしをした以上、すこしくらいは褒めてほしいと思っている。でも、いざフランス料理のフルコースデザート盛りのような褒め方をされると、挙動不審になってその場をぐるぐる回った挙句、逃げ出したいような気持ちに なるので、今日は先手を打った。

 きりっと告げたつぐみに「ええぇ……」と葉はお預けを食らったわんこみたいな顔をした。


「つぐみさんに赤の着物がとっても似合うって話もしちゃだめなの?」

「だめ」

「花がたくさん描かれているのが華やかですてきだねって話も?」

「だめ」

「いつもは髪を下ろしてるけど、まとめてもすてきだし、牡丹の髪飾りがとってもかわいいねって話も!?」

「だめだってば」


 もうほとんど褒めている気がしないでもないけど、とりあえずつぐみが固辞の姿勢を続けると、「そっかー」と葉は肩を落とした。


「じゃあ……じゃあさ、一言だけは? 短くまとめるから!」


 意外と粘ってくる。


「……そ」

「そ?」

「それならいいけど……」


 目をそらしてぼそぼそとつぶやくと、葉は相好を崩した。


「着物のつぐみさんもとってもすごくかわいいです!」

「………」


 雷に打たれたようにしばらく固まったあと、つぐみは葉の周りをぐるっと一周して、もう一回ぐるっと一周したあと背中に落ち着いた。「え、なに?」とふしぎがっている葉に「振り向かないで」とぴしゃりと言う。日本には古来、言霊という思想があるけど、葉の言葉にはほんとうに何か妙な力がこもっているんじゃないだろうか。心臓が飛び出して死ぬかと思った。

 まだどきどき言っている胸を押さえ、つぐみは深く息を吐きだす。

 とはいえ、つぐみは葉の雇い主なのだ。これくらいで心臓が飛び出して死んでいる場合ではないし、葉のまえではもっと雇い主らしく毅然としていないと。

 つぐみは葉の背から離れると、ひとから「無愛想」だとか「無表情」とよく言われるつめたい表情をできるだけ心がけて、おごそかに口をひらいた。


「久瀬くん、去年は結婚してくれてありがとう。今年もよろしくお願いします。……その、毎日ごはんがおいしいです」


 葉とつぐみの関係は表向きは夫婦だが、実際は雇用主と契約夫である。

 今日は元旦なので、旧年の働きぶりへの感謝と今年への期待を伝えることにした。葉は神妙そうな顔でうんうんうなずいたあと、ごはんのあたりで頬を緩める。


「ありがとう。今年もよろしくね、つぐみさん」


 目を合わせて微笑まれると、やっぱりまた葉の周りをぐるぐる回りたいような衝動に駆られた。がんばってこらえようとしたけれど、途中で無理になってつぐみは葉の周りを半周した。と思ったら葉もつぐみの背を追いかけて半周した。え、と思って続けて半周する。さほど広くない居間でふたりでぐるぐる三回くらい回った。葉は途中から声を出してわらっていて、つぐみも結局つられてわらってしまった。葉といると、しばしば調子がくるう。ほんとうはもっときりっとしていたかったのに。


「はー、たのしかった。あ、でもそろそろ出かけようか」


 葉は目尻に滲んだ涙をぬぐって、カーキ色のモッズコートを羽織った。

 家の近くにある神社は有名どころではないものの、昼を過ぎると、近所の参拝客が押し寄せるので結構な人出になる。露店もたくさん出ていて、敷地内に設置された舞台では地域の子どもたちのチアダンスやご老人がたのカラオケ大会までなぜか行われている。そういうことにつぐみは葉と結婚するまでまるで興味がなかったのだが、「初詣どこに行く?」と年末に葉が訊いてきたので、はじめて家に入っていたチラシにちゃんと目を通した。

 去年は正月も絵を描いていた。というか、大晦日とか正月という認識がとくになかった。つぐみの生活は絵の制作と次の制作に向けた休憩があるだけで、金太郎飴みたいにどこを切っても同じ毎日がべろんと続いていたのだ。

 つぐみが制作室にこもって、えんえんと花に色をつけているあいだ、数百メートル離れた近くの神社では、子どもたちがチアダンスをしたり、ご老人がたが演歌を熱唱していたのかと思うと、落差にすこしおかしくなった。べつに知らなくたってなんにも困らないけれど、葉と生活していると、こういう「知らなくたってなんにも困らないけど、知るとちょっと楽しいこと」が増えていく。


「久瀬くん、あのね」


 正月の空は青く晴れていた。

 カラコロと馴れない下駄を鳴らしつつ、つぐみは思いきって口をひらく。


「わたし、実はしてみたいことがあって」

「おおー、なに?」

「屋台のね……チョコレートでトッピングされたカラフルなバナナがあるでしょう?」

「あ、チョコバナナだね」

「あれを食べてみたいの」


 値段もちゃんとリサーチしている。相場は三百円だ。

 どきどきしつつ打ち明けると、葉は瞬きをしたあと、なぜか噴き出した。


「うん、買おう買おう。りんご飴もたこ焼きもあるよ。好きなものぜんぶ買おう」


 転ばないようにか、あたりまえのように差し出された大きな手のうえに手をのせる。

 りんご飴もたこ焼きも食べたことはないけど、葉が言うならきっとおいしいのだろう。単調な毎日のささやかすぎる変調。きっとつぐみ以外には取るに足らない。それでも、変調には未知のきらめきが宿っている。

 ひとまず未知のバナナに想いを馳せつつ、つぐみは眉をひらいて、葉の手を握り返した。

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