ひばりと律

 ――俺の婚約者は結構すごく面倒くさい。


「ひばりさんは日舞は木之元きのもと先生に師事していらっしゃるんですっけ」

「はい、五歳から。ちいさい頃は途中で扇を投げ出して先生によく怒られました」

「嘘おっしゃい。自慢の生徒だってうかがいましたよ」


 周囲から寄せられる賛辞に、少女は控えめに長い睫毛を伏せる。

 鹿名田かなだひばりは、花にたとえるなら芍薬しゃくやくのようだ。そこに立つだけで華やかで、ひとの目を引き寄せる。まだ十七歳なのに、ひばりの美しさはすでに完成されていて、理知的な弧を描く眉、切れ長の眸、凛とした立ちすがた、すべてをまやかしにする柔らかな笑み、どれもが職人が仕上げた一級品のように計算し尽くされている。ある意味、人工的美少女。


北條ほうじょうくんも、ひばりさんのような婚約者がいて鼻が高いでしょう」


 歓談する客のひとりに水を向けられ、「ええ、まあ」と北條りつは苦笑した。


「ひばりさんはしっかりしているから、僕のほうが尻に敷かれてますよ」

「歳はええと、君のほうが――」

「十歳上です。まあ、ひばりさんは大人びてるから」

「すでにお似合いのふたりだな」

「はい」


 今日は鹿名田家と親交が深い資産家の喜寿祝いのパーティーだった。

 ホテルのホールを貸し切られて行われ、招待客は百名を超える。

 律は鹿名田とは遠縁にあたる北條家の次男坊で、北條グループが経営する商社の系列会社で今は勉強中の身だ。パーティーの主催者とは直接の面識はなかったが、ひばりの婚約者として随伴している。

 ひとしきり関係者への挨拶を済ませると、ひばりは「あしたは学校の定期テストなので」というかわいらしい理由を持ち出して、会場を抜け出した。落ち着いた薔薇色のドレスに同系色のヒール、アップにした髪には真珠を使ったシンプルなバレッタ。姿勢がよいひばりはドレスも和服もどちらも似合う。

 軽い談笑を続けながら歩いていたひばりは、廊下を曲がったところで、「あなたももういいわよ」と横にいた律に言った。

 先ほどまでの芍薬の笑みは消え失せ、勝気そうな十七歳の少女が現れる。

 人工的美少女の、誰もが知らない素顔の一端。


「お役目ご苦労さま」

「ひばりさんこそ、定期テストの前日に大変だったな」

「あんなのはうそよ。早く帰りたかったの」

「だと思った」


 ひばりは黒髪につけていたバレッタを外した。

 もとはまっすぐな黒髪が背中のうえにはらはらとかかる。腕に抱えていたショールをひばりは自分で肩にかけた。ホテルから外に出ると、春の夜はまだ肌寒い。エントランスに止まっていたタクシーを見つけ、ひばりはそれに乗り込んだ。


「お疲れ。じゃあ、また」

「ああ、また」


 お互い、まるで仕事相手に対する別れの挨拶だ。

 さっきかけられた言葉のひとつはある意味で当たっていて、律とひばりは限りなく「お似合いの」ふたりではある。もちろん、それは恋愛的な意味じゃない。



 律がひばりに出会ったのは、彼女がまだ五歳の頃だ。

 はじめ、律はひばりの姉のつぐみの婚約者として、彼女たち姉妹に引き合わされた。当時の律は中学三年生だった。親たちは「年まわりもちょうどよくて」なんて言っていたけれど、律にしてみれば、小学校に上がったばかりの幼児を指して「お似合い」だなんて言われて、いったいなんの悪夢かと思った。

 ――こんな幼児と自分がするのか、結婚? 世間的には完全にアウトだ。


「はじめまして、かなだつぐみです」


 内心ではドン引いていた律に、六歳のつぐみは礼儀正しく挨拶をした。

 長い黒髪にクラシカルな丸襟のワンピース。かわいいというより、よく躾けられた子ども、というのがつぐみの第一印象だった。


「あー、はじめまして。北條律です」

「律がねえさまの旦那さんになるの?」


 横からつぐみをさらにちいさくしたような女の子がぬっと顔を出す。

「ひばちゃん?」とつぐみが驚いた風に瞬きをした。


「だめでしょ、おばあさまのところで遊んでる約束でしょ」

「だって、ねえさまの旦那さまなら、ひばりのおにいさまになるんだって、おばあさまが言ってた。ひばりがおにいさまにふさわしいか、ちゃんとチェックしないと」

「チェックって……なんてこと言うの!」


 好き勝手言うひばりにうろたえ、「ごめんなさい、ごめんなさい」とつぐみは律に謝る。

 この姉妹は普段もこんな力関係なのだろうなということが透けて見えた。つぐみのようすは六歳の子どもには似つかわしくないくらい、全方位に気を配って恐縮していて、はた目にも息が詰まりそうだった。対するひばりは、しっかり者の姉にぞんぶんに甘えている。

 律もまあ似たようなご身分で、北條グループを継ぐ出来のいい兄が上にいたので、子どもの頃から適度に自由気ままに育った。六つ年上の兄とのあいだに確執はないし、人間として尊敬している。

 自分はたぶん幸運な人間なのだろう。恵まれた環境に生まれつき、分を過ぎた責任を負う立場にはなく、律自身なんでも「二番目」で満足できる性格だ。といって、まさか六歳の女児を婚約者にあてがわれるとは思わなかったが。


「ねーねー、律。あんたはすごいしあわせものなのよ」


 つぐみの制止はまったく聞かず、ひばりは腰に手をあてて律に自慢してきた。


「だって、ひばりのねえさまと結婚できるんだもの。ねえさまは世界でいちばんやさしくて、世界でいちばんかわいくて、世界でいちばんすてきなの。ねえさまと結婚できるなんて、あんたすごく運がいいわ」


 どやっとした顔で言うので、律はついわらってしまった。

 何でも二番目の律に、いちばんと言ってくるのか、この子どもは。


「とりあえず君がねえさんが好きなのはわかったよ」

「うん、だいすき。ひばりはねえさまがいちばんすき」


 ひばちゃん、とうれしいような困ったような表情をしているつぐみをひばりがぎゅうと抱きしめる。「律がわるい男だったらあげないからね!」とこちらを睨んで噛みつくひばりに、「もう……」とつぐみは困った風にわらっていた。



 ――思えば、鹿名田つぐみのわらっている顔を見たのは、それが最初で最後だ。

 そのひと月後、つぐみは習い事からの帰り道に誘拐に遭う。

 現場の公園には、ひばりがひとりぼっちで残されていて、「ねえさまがいない」「ねえさまがいない」と泣いているひばりを鹿名田家に雇われている運転手の男が見つけて発覚した。そして、誘拐から三週間後、つぐみは自宅から離れた病院で無事保護される。被疑者の男は自殺し、事件はいちおうの解決を見たが、つぐみの心のほうはそうならなかった。


「暴力をふるわれた形跡はないらしいが」


 律の父親は息をつき、「婚約の話は白紙に戻るかもしれない」とつぶやいた。

 律にとっては願ったり叶ったりだ。もともと小学一年生との婚約なんて、乗り気じゃなかった。

 けれど、なんとなく釈然とせず、律はつぐみの見舞いをしたいと鹿名田本家に連絡を入れた。はじめは断られていた見舞いがなんとか叶ったのは半年後。ひさしぶりに門をくぐる鹿名田本家は、屋敷全体が影にすっぽり覆われたかのような、言い知れぬ暗さがあった。ひばりはどうしているだろう。いや、律が見舞いにいくのはつぐみだが。


「あ、律」


 使用人に案内され、屋敷の長い廊下を歩いていると、対面から赤い着物を着つけた少女が現れた。一瞬つぐみかと思ったが、呼び方でひばりのほうだとわかった。


「ねえさまに会いに来てくれたの?」

「ああ、まあ」

「そう。律っていいやつね。ありがとう」


 ひばりは苦笑した。

 半年ほど見ないうちにずいぶん大人びたな、と思った。

 女の子はこういうものなんだろうか。もともと口は達者な餓鬼だったが、はじめて会ったときはつぐみにくっつき通しだったひばりは、今は使用人から律の案内役を引き受け、着物の裾をさばきながら前を歩いている。律だってあまり子どもらしい子どもではなかったけれど、この頃はまだもう少し両親や兄に甘えていたはずだ。


「稽古の途中だった?」

「んー、さっき終わったところ。ねえさまの代わりよ」


 自身の着物に目を向けて淡白に答えたあと、「ねえさまー?」とひばりは細くひらいたままにしてある襖の奥に声をかけた。


「ねえさま、入っていい? 律が来てるよ」


 声は返らない。

 寝ているのだろうか。眉をひそめた律にひばりは大人びた苦笑を返し、「ねえさま、入るね」と襖を引き開けた。

 レースのカーテンが軽やかにひるがえる部屋は、午後の薄い陽が射していて、部屋全体がまどろんで見える。窓辺の長椅子にちいさな影が座っていた。――影。そう、影だ。両膝を抱えて座っていた少女は、「ねえさま、律が来たよ」とひばりが話しかけると、のろのろと顔を上げた。


「……りつ?」

「そうだよ。ねえさまの婚約者」

「婚約者……」


 ひばりに向けられていた視線が、ドアのまえに立つ律のほうに移る。

 つぐみは一瞬だけ何かを期待するように律をじっと見つめたが、すぐにちがったという顔をした。そしてすべての興味を失ったように焦点が合わなくなった。


「ねえさま、お菓子食べようよ。律が持ってきてくれたよ」


 ひばりはしばらくつぐみの注意を引こうとしていたが、無理らしいのを悟ると、ばつが悪そうに視線を逃した。人形のようになった姉の身体にブランケットをかけると、律を連れて外に出る。


「ねえさま、もうずっとこうなの。ごめんね。いやな気持ちになった?」

「……ならないよ」


 無事に帰ってこれてよかった、なんて思っていたすこしまえの自分に今激しく後悔しているところだ。無事ってなんだ。怪我はなかったからよかったってどれだけ想像力がないんだ。六歳の子どもが知らない男に監禁される。三週間も。律だったら恐怖で気がくるう。


「あのね、律」


 なんとなく気まずくなりながら、長い廊下をふたりで歩く。

 前をちゃきちゃきと歩くひばりは、ふいにためらいを帯びた声を出した。


「ねえさまのこと、嫌いにならないで。おねがい」


 こちらを見上げるひばりの切迫した表情に胸をつかれる。


「……べつに嫌いになったりしない」

「うん。そうだね。律ってやっぱりいいやつだね」


 ひばりはへへ、とちょっと恥ずかしそうにわらった。

 半年前に会ったときはあんなにのびのびと姉に甘えていたひばり。つぐみがどこかへいなくなってしまったように、ひばりもどこかへいなくなってしまった。姉妹がいなくなってしまった場所に律だけが変わらず突っ立っている。



 つぐみは結局、一年経っても二年経っても、もとの鹿名田つぐみに戻ることはなかった。

 声をかけてもほとんど応答せず、日がなぼうっと虚空を見つめている娘に手を焼いていた鹿名田家当主は、北條家に申し入れて、つぐみと律の婚約解消と、代わりにひばりと律の婚約を勧めてきた。北條の父親もそれをのんだので、正式にひばりと律は婚約者になる。ひばりが九歳で、律が十九歳のときだ。


「わたしとあんたは仕事上のパートナーみたいなものだから」


 両者の再度の顔合わせのあと、ふたりで庭を歩きながらひばりが言った。

 まっすぐな長い黒髪に、クラシカルな丸襟のワンピース。いつかのつぐみと同じ格好だが、ひばりの足取りは颯爽としている。


「浮気はしてもいいけど、子どもは作らないでね。あと周囲にはばれないようにやって。家に迷惑をかけるのは論外だから」


 小学三年生と思えない、熟年夫婦みたいな言葉が飛び出して、律は苦笑した。

 といっても、もう生意気なだけの餓鬼とは思わない。ひばりがたった数年のあいだに子ども時代を終わらせ、大人たちに立ち向かおうとしていることを、そばでつかずはなれず見ていた律は知っている。



 つぐみが鹿名田の屋敷を出て行ったのはそれから五年後のことだ。

 つぐみたちの祖父の青志せいしは、入り婿ながら鹿名田家の事業を拡げた中興の祖であったが、数年前から持病を悪化させ、入退院を繰り返していた。鹿名田の経営からはだいぶまえに退き、息子に会社の舵取りを任せて、今は隠居の身だ。

 その青志だが、実は数十年に渡って愛人を囲っていたことが露見して顰蹙ひんしゅくを買った。百年前ならともかく、今の世で別宅に愛人を囲っているというのは外聞がわるい。幸いにもふたりのあいだに子どもは生まれず、彼女は数年前に病死したらしいが――そのときの家を青志はつぐみに贈った。


 ――君が好きなように使ってよい。


 青志に言われたつぐみは、画材道具一式を抱えて鹿名田本家から出て行った。

 はじめはつぐみの心の治療のために習っていた絵で、つぐみはみるみる頭角を現し、今ではいくつかの作品を画商に買い取ってもらっていた。ひばりいわく、つぐみの作品は「植物を細密に描いただけの地味で根暗な絵」だそうで、まだ一枚も売れていないらしいが。


「ねえさん、出て行ったのか」


 久しぶりに鹿名田本家に顔を出すと、制服すがたのひばりががらんどうになった姉の部屋の長椅子にぽつんと座っていた。律は三年前に大学を卒業して、北條グループの系列会社で働いている。

 今日は出先からの帰り道にそのまま寄った。ネクタイを緩めて、ひばりのとなりに腰掛ける。


「うん。あのひと弱かったからね」


 ひばりは午後の陽がうっすら射し込む窓の外を見た。


「この家では生きていけないよ。そっちのほうがいいよってわたしがおばあさまに言って追い出してやったの。鹿名田と関わらない場所で勝手に生きていけばいいんだよ、あんなひと」


 ――ねえさまのこと、嫌いにならないで。おねがい。

 必死の形相で訴えていた少女は、近頃つめたい目をして姉を蔑む言葉を口にするようになった。


「追い出してやった、ね」

「……なによ?」

「君はわるい女になったな」

「あなたもひねくれてるんだからお似合いでしょ」


 つんと顔をそむけて、ひばりは言った。

 ひばりは人前では華やかな芍薬のような少女で、その実、棘がある薔薇のように容赦ない性格で、だけどそこで終わりでもない。口元に薄くたたえていた笑みが消え失せると、ひばりは完全な無表情になった。いちばん無防備なひばりの表情だ。ぽろっと律のまえで漏らすのは、律に心をゆるしているからではなく、長いことそばにいたせいで、律に取り繕う必要がなくなっているからだ。


「……ねえさまね。あのとき、ひばりの代わりになったのよ」


 長椅子の背に腕をのせて、ひばりは窓の外に目を向けている。二階にあるこの部屋から見えるのは、建物の影になって日が射さない坪庭だけだった。暗く窮屈な庭を毎日つぐみは窓から見ていたのだろうか。


「先におじさんにちかづいていったのはひばりなの。キャラメルがもらえてうれしくて。知らないひととしゃべってはいけません、知らないひとから何かをもらってはいけませんって、おばあさまに言われていたのに、ねえさまはちゃんとだめだよって言ったのに、わたしが先におじさんについていったの。ねえさまはわたしを守ろうとしただけ。あのひとは自分のぶんのいちご飴もわたしにあげてしまう、そういうひとだった」


 ひばりの声は平坦で、感情がひとつも伝わってこない。この十年でひばりが身に着けた処世術だ。


「でもわたしは、そのことを誰にも言ってないの。決して誰にも。言えない。どうしても言えない。きっとこの先も。鹿名田の家では今も、知らないおじさんにお菓子をもらってついていった愚かな子どもは姉のほうなんだよ。……ね? わるい女でしょう?」


 ひばりは実際ひどい妹で、大勢のまえで、まるでそこにいないかのように姉を軽く扱う。つぐみが鹿名田本家を出て行くときに鷺子さぎこに口添えしたのだって嘘ではないだろう。ひばりはそうやってずっと姉を守ってきた。自身の輝きで好奇の目から姉を隠し、この家から出ていけとなじりながら背を押すのだ。でもそれが、つぐみへの愛からくるものなのか、贖罪からくるものなのか、あるいはふたつが絡まり合って、ただ相手を傷つける棘でしかなくなっているのか、律にも、きっとひばり本人にももうわからない。

 律はひばりの長い髪に触れた。

 頭を撫でるようにすると、とたんにひばりは胡乱げな目になり、「なに?」と訊いた。


「まさか慰めているとか言わないよね?」

「婚約者に婚約者役をしてほしいのかと思って」


 ひばりがこうなので、律はひばりに対してはいつにも増してひねくれた物言いばかりをしてしまう。

 気の強い少女が見捨てられた子どものような横顔をするので、撫でたくなっただけだ。べつに恋とか愛ではない。ただ情はある。でも、もしかしたら外の世界ではこれを恋とか愛というのかもしれない。ひばりと律はとても恋などできない歳で出会い、仕事上のパートナーとしてずっと生きてきたので、内実はブラックボックスだ。

 ただひとつ。


 ――だいすき。ひばりはねえさまがいちばんすき。


 この子が尋常ではないほど姉がすきなことを律だけは知っている。


「なるほど」


 律の物言いにひばりは納得したそぶりを見せた。


「うん、いいね、婚約者。仕事して」


 長椅子の背にのせていた腕を解いて、律の肩に猫が甘えるように頭をのせてくる。

 はいはい、と言って、ひばりの頭を撫でた。口をひらくと悪口が絶えないのに、ひばりはぎゅっと目を瞑って静かにしている。ほんとうは泣くのをこらえていたのかもしれなかった。



 *…*…*



 葉とつぐみが出て行ったあとの部屋に入ると、ひばりは外れた扉のまえで呆然と立ち尽くしていた。

 ひばりがつぐみと葉の結婚を快く思っていないことは知っていた。そして青志の法事で、つぐみに接触してなんとか引き離そうとしていたことも。


「おい、平気か」


 つぐみがひばりに連れて行かれたらしいことは葉に教えたが、まさか扉が蹴破られるとは思わなかった。脱出劇はもうすこし温厚にやってほしい。

 ひばりのまえに立って、とりあえず怪我がないらしいことを確かめていると、俯きがちにこぶしを握ったひばりがふるふると震えていることにきづいた。

 顔をのぞきこむと、ひばりは目元に涙をいっぱいに溜めて、唇を噛みしめていた。


「律。ふたりを連れ戻して」

「……なんで俺が」

「連れ戻してよ。わたしの婚約者でしょ!」


 怪訝な顔をして、ひばりを見る。

 ひばりがこういう乱暴な理屈を持ってくるのはめずらしい。


「だって、ねえさまが……ねえさまが不幸になるよ。きっとあいつに脅されてるんだよ。見えないところでひどいことされてるんだよ。ねえさまはやさしいから、我慢して言えないんだよ!」

「――ほんとうにそう見えた?」


 尋ねると、ひばりは目を大きく瞠らせて、唇を引き結んだ。

 はずみに溜まっていた涙がぽろりとこぼれ落ちる。頬を染めて、ひばりは手の甲で涙を拭った。いつもは芍薬とたとえられる彼女とは思えない、子どもっぽい仕草だ。

 律がポケットからハンカチを取り出して差し出すと、ひばりは忌々しげに奪い取った。


「律はきらい。いったい誰の味方なの?」

「ひばりさんだよ」

「嘘よ」

「ひばりさんですよ」

「嘘」


 ひばりはもうすこし、自分が向けている感情より向けられている感情のほうにも敏感になるべきだ。でもひばりはいつも、「わたしたちは仕事上のパートナーだから」と言い切っていて、律がある時点から誰ともつきあっていないし、つきあおうとしてもいない事実にはまったく目を向けていない。いまだに自分はつぐみの代わりに律がしぶしぶ引き受けた婚約者なのだと思って生きている。いい加減きづけ。


「とりあえずドア直すか」


 床に倒れたままになっているドアを持ち上げようとすると、「ちょっと待ってよ」とひばりが不満そうな声を出した。袖をぐいと引かれて、律の背中にひばりの額があたる。


「婚約者、三分間仕事して」

「はいはい」


 ぐすっと泣きだした少女へ言いつけどおり三分間背中を貸す。

 この関係が「仕事」の壁を越えるには、あと何年かかるのやら。

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