葉の一日

「つぐみさーん、調子どう?」


 ようはベッドに丸まっている少女に声をかけた。

 花鳥の装飾がほどこされた木製フレームが特徴の、アンティークのシングルベッド。ものが少ないつぐみの私室兼寝室では、ベッドだけがいつも特異な存在感を放っている。

 つぐみの部屋にはドアがついていない。代わりにかけられた玉のれんから顔をのぞかせると、つぐみはのろのろタオルケットを引き上げた。


「いま何時……?」

「朝の八時だよ。身体起こせる?」


 額に手をあてると、熱い。昨晩からあまり下がっていないようだ。体温計で測ると、やっぱり三十八度で、半身を起こしたつぐみはとろんとしている。水に変わってしまった氷枕をつくり直し、額に貼ってあった冷却シートを新しいものに替える。そのあいだにつぐみは市販の風邪薬と解熱剤を飲んでいた。

「何かちょっと食べる?」と尋ねると、首を横に振ってベッドに横たわる。葉がタオルケットをかけ直しているうちに、すぐに寝息が立った。



 鹿名田かなだ本家から帰宅して一週間。

 気を張っていた疲れが出たのか、夏風邪なのか、つぐみはずっと体調を崩している。

 葉は子どもの頃からほとんど風邪を引いたことがない、丈夫そのものの身体なので、一緒に暮らしはじめてから、季節の変わり目になると体調を崩し、大作の制作を終えると熱を出し、そうじゃなくてもちょいちょい風邪をもらってくるつぐみにびっくりした。今ではつぐみの顔を見ると、なんとなく熱があるのかわかる。目の焦点があわなくなって、「きりっ」がなくなり「とろん」が増える。

 つぐみの部屋を出ると、朝から回していた洗濯機が終了の音を鳴らしたので、洗濯物を外に干す。今日は一日快晴の予定だ。それから庭の草木に水まきをして、夕飯用の簡単な仕込み。いつもならそれなりに時間がかかるけど、つぐみは今日もあまり欲しがらないだろう。とりあえず米を洗って炊飯器だけはセットしておく。

 朝の家事を終えると、九時を過ぎていた。

 ――さて、今日こそはあれを回収せねばなるまい。

 そう、あれだ。葉の不注意でいまだに鹿名田本家の駐車場に置き去りにされたままになっている、我が家の自動車だ。

 

『車を取りにでかけてきます。三時過ぎには帰ります。

 冷蔵庫におかゆとプリンが入っているから、おなか減ったら食べてね。

 おかゆはレンジで二分です。   葉』


 つぐみあてのメモを、寝入っている少女のそばでくてっと横たわっている黒い柴犬の抱き枕の額に貼っておくと、葉は車の鍵を取って夏のうだるような日射しの下に出た。



 タクシーを使うととんでもない額がかかるので、鹿名田本家までは電車とバスを使うことにした。

 平日の昼の電車は、歓談するおばさまがたがいるくらいで、まったりしているけど、鹿名田家の最寄り駅がちかづくにつれて、だんだん気が重くなる。つぐみが敵陣に挑むかのような顔でいたから覚悟していたけど、魑魅魍魎の巣窟か、あそこは。こわい。

 車を置いていったのは今さらながら痛恨のミスの気がしてきた。

 誰にもばれないうちにこそっと入って、こそっと車とともに逃げよう。

 と思って警戒してそーっと駐車場に入ったはずなのに、空色の自家用車に鍵を差し込んだところで、前方から曲がってきた車があろうことか駐車場に入ってきた。フロントガラス越しに目が合って、「あ」と葉は声を上げる。あちらも「あ」という顔をして頬をゆがめた。

 自家用車のとなりにぴかぴかに磨き抜かれた高そうな車をつけたのは、北條ほうじょうりつだった。


「……なにしにきたんだ?」


 車から降りた律にいやそうな顔で訊かれて、「車を取りに……」と目をそらす。


「車? ああ、やたら古い車が置いてあると思ったら君か。不法投棄かと思った」


 数十万円で買った中古車だけど、まだ元気に働く現役です。レッカー車に運ばれるまえに救い出せてほんとうによかった。


「律さんは?」

「俺は婚約者の機嫌をうかがいに」


 と言ってから、律はふと何かを思いついたようすで口の端を上げた。


「ただ、手土産を忘れたな」

「えっ、そうなんですか」


 すごくしっかりした見た目なのに抜けてるところもあるんだなーと思っていたら、「うん、だからちょっとつきあってくれないか」と流れるように誘われて固まった。なんだ今のひっかけみたいな会話。こわい。


「いや、俺もう家に帰るので……」

「そう時間は取らないから。この車のこともひばりには言わない」


 それはちょっと魅力的な申し出だった。


「駅前にひばりが好きなケーキ屋がある。お礼にケーキ代は支払うよ」

「もちろんそれなら」


 常時腹をすかせていた頃の名残なのか、葉は「おごり」の言葉に弱い。脳を通らず口から先に答えてしまい、しまった、という気分になった。と言ってもう前言撤回はできない。

 まあいい。駅前なら、帰宅ルートからそう外れていない。

 しかたなくなぜか律を乗せて車を出し、駅前のケーキ屋に向かう。


「ひばりは君になんて言ってきたんだ?」


 いつもはつぐみを乗せている助手席に律が座ると、やたら車が狭く感じる。

 律は北條グループといういくつかの商社を経営している家の次男坊だと聞いた。歳はつぐみより八つ上の二十七歳。といっても、葉の周りの二十七歳よりもどっしり構えた余裕があって、よく言う「育ちがいい」ってこんなかんじなのかな、と能天気な感想を抱く。鹿名田家のひとびとも北條律も、葉の人生にこれまで登場してこなかったタイプの人間ばかりだ。

 ええと、と言い淀み、「ひばりさんに訊いてないんですか?」と尋ねた。


「ひばりは自分の話はあまりしない。素直じゃないし」

「ああー、つぐみさんもそうですね」

「さすがにドアを蹴破られたときは呆然としていたけど」

「えっ、あれは……。ごめんなさい……」


 そういえば蹴破ったな、ドア。すっかり記憶から飛んでた。

 あのときは、いつまでも寝室に戻ってこないつぐみに胸がざわついて、屋敷をうろついていたところで律に会ったのだった。ひばりとふたりでいるようだと言われた。それなら放っておくべきかな、と部屋から離れようとした直後、ドアの向こうからつぐみの悲鳴が上がった。

 つぐみはめったなことでは声を上げない。尋常じゃなかった。あわててドアのノブを回したけれど開かず、あとは考える前にドアを蹴破っていた。

 ひばりは落ち着いているけど、考えてみたらまだ十八歳の女の子だ。いきなりドアを蹴破られて、怒声を浴びせられたらおびえて当然だ。あれはよくなかったと思う。つぐみのまえでドアの鍵を締めるのはゆるせてないけど、声を荒げたり壁にこぶしを打ちつけたのはわるかった。あとこぶし、打ちつけると自分が痛いのでもうやらない……。

 おなじ部屋で前日、葉はひばりに言われた。


 ――5000万出したら、わたしのお願いも聞いてくれますよね、久瀬さん?


 彼女が要求したことはひとつ。


 ――ねえさまと離婚して。なんのつもりかわからないけど、ちかづかないで。


 はったりじゃないと告げるように、机のうえに小切手が置かれた。零の数が多すぎていくらだかわからない。つぐみとの契約金3000万円に加えて、さらに5000万。ひばりが言うからにはそうなのだろう。


 ――ちかづかないっていうのは……。

 ――金輪際、姉の視界に入らないで。姉の人生に一切かかわらないでほしいの。


 ひばりはなにも姉を苛めたくてこんなことをしているわけじゃない。金額からしてもひばりは本気だ。本気で、姉の身を案じている。でも……。


 ――い、いやだ。

 ――嫌?

 ――俺の雇用主はつぐみさんだから、つぐみさんじゃないひとのお願いは聞けない。

 ――あなた、それ本気で言ってるの?


 ひばりからしたら、葉はつぐみにたかる卑しい虫だ。

 3000万円をせびったに飽き足らず、つぐみの生活に今も寄りかかっている。つぐみを脅して、無理やり言うことを聞かせていると思われてもおかしくない。

 ……実際はどうだろう。あの子は3000万の対価に葉をどんな風に扱ってもいい。何を求めてもいい。葉がつぐみにしてあげることはぜんぶ、3000万の対価だ。あの子と俺のあいだには、金銭契約以外のなにもない。そう言えることがとても大事で、重要なのだ。でも、はたから見たらやっぱり、葉はつぐみにたかる卑しい虫なのかもしれない。それを決めるのはひばりではなく、つぐみだけども。


「――ひばりさんは、つぐみさんのこと、だいすきですよね」


 やりとりの詳細を伝える気にはなれなかったので、とりあえず感想だけを言うと、律は意外そうに葉を見た。


「え、なんですか?」

「いや、ひばりの感情はわかりづらいから。よく伝わったなと思って」

「伝わりますよ。だって、あのひと俺のことすごいきらいでしょ……」


 それはつぐみへの愛情の裏返しだ。

 心配なのだ。大切なのだ。だから、あんなむちゃくちゃなことを姉にするのだ。ひばり自身がどこまで自分の感情に自覚的なのかは、つきあいの浅い葉にはわからなかったけれど。


「ひばりはひばりなりに背負っているものがあるんだよ」


 つぶやく律の言葉を聞いたとき、ふと律はひばりと葉のやりとりを聞き出すというより、これを葉に言いたかったのではないかと思った。つまり、ひばりのフォローがしたかったのではないかと。

 べつに葉相手にひばりの印象がわるくてもよくても、なんの影響もない気がするけれど――……でも、葉がひばりがだいすきなつぐみの夫だからか。

 ひばりのことはきらいではない。律も誰も。ただ、葉の優先順位はつぐみ一強で変わらない。それだけだ。とはいえ、ひばりが葉がすごくきらいなのは変わらなそうなので、この先もうまくやれるかどうかは先が思いやられるなあ、というかんじである。親戚づきあいってむずかしい。



 駅前のケーキ屋で律になんでも買ってやる、と言われたので、アイスシュークリームのバニラ味とチョコ味を持ち帰りにした。溶けないよう保冷材も多めにつけてもらう。

 そうして帰宅する頃には日が暮れかけていた。


「つぐみさーん、ただいまー」


 離れにも聞こえるよう声を張って、引き戸に鍵をかける。

 つぐみは出かけたときと変わらず、寝室で眠っていた。額から冷却シートが剥がれかかっていたので、かがんで新しいものに貼りかえる。つぐみはそれで起きたらしく、「帰ってきたの?」と尋ねた。柴犬の抱き枕に貼っていたメモは見たらしい。


「うん、ただいま」

「おかえりなさい」

「冷蔵庫に入れておいたプリン食べた?」

「んーん」


 面倒そうに首を振ったつぐみに「えぇ……」と葉は息をつく。

 つぐみは放っておくと、食べるのを面倒くさがって餓死しそうだ。


「車取りに行ってたんだっけ」

「うん、そう。アイスシュークリームもらったよ。起き上がれそうなら、一緒に食べよう?」

「もらったって誰に?」

「律さん」

「……なにそれ」


 つぐみは不快そうに眉根を寄せた。

 鹿名田家に行ったときに感じていたけど、つぐみは律がすきではないらしい。なんでだろう。あんなにしゅっとしてぱりっとして、気遣いもできるし、車はぴかぴかだし、情もあって、アイスシュークリームまでおごってくれる。旦那さんにするなら、ああいうひとなんじゃないのか? そこまで考えて、そういえばつぐみは昔、北條律と許婚同士だったことを思い出す。


「律さんとつぐちゃんって昔から仲悪かったの?」


 箱からアイスシュークリームを取り出しながら訊く。

 つぐみがバニラ味がいいというので、葉はチョコ味をもらった。寝台に並んで座り、ビニールの包装を破く。


「どうだろう。あーこのひとが婚約者なのか、としか思わなかったから」

「え、そんなドライなもの?」


 物語だったら、そこから恋がはじまるところではないか。

 いやでも、つぐみと律の恋がはじまってしまうと、ひばりとの三角関係になり、葉も混じるから四角関係に? 雇われ夫は入ってくるなという話かもしれないけれど。それに、つぐみは素直じゃないところがあるので、興味がなさそうに言いつつほんとうはちがうのかもしれない。

 バニラ味のアイスシュークリームを食べているつぐみを葉はちらっと見た。


「……なに? 久瀬くんもバニラがよかった?」

「いや、そっちじゃなくて……。律さんってさ、しゅっとしてぱりっとしてかっこいいよね?」

「そう? あいつは腹黒だから、わたしはきらい」


 つぐみの一刀両断ぶりがあまりにすがすがしいので、「そ、そうですか……」と葉は何も言えなくなった。


「久瀬くんのほうがずっとかっこいいよ」

「ええっ」


 あのしゅっとしてぱりっとして車がぴかぴかでアイスシュークリームを二個買ってくれる北條律よりも!? つぐみの人物採点は個性的で、ちょっと葉に甘すぎるんじゃないだろうか。あるいは北條律がきらいすぎなのか。


「どのへんが?」

「それは君が――」

「俺が?」


 目が合うと、つぐみはなぜか頬を染めてそっぽを向いた。


「……君の顔とかだよ」

「あ、そっち」


 そういえば、前にも見た目がすきだと言われた気がする。

 まあ毎日顔を合わせるなら、嫌いな顔より好みの顔のほうがいいと思うし、そんなに気に入ってもらえて自分の顔さまさまだ。


「ね……熱あがってきたかも」

「えぇ、シュークリームで?」

「熱い」


 つぐみが頬に手をあてているので、「どれどれ」と額に手を置いた。でも、すこしまえまでアイスを食べていたせいで手がつめたくなっていてよくわからない。「んん?」と眉根を寄せて、額のほうをこつりとあわせる。冷却シートのふにゃっとした感触があたって、「うーん?」と別のところにあて直したけれど、やっぱりふにゃふにゃしたジェルの範囲内だった。つぐみがふふっとわらいだす。


「くすぐったいし、よくわかんない」


 間近でふるえる笑い声を聞いたとき、ふいにあたたかなものがこみ上がって、こめかみが痺れそうになった。最近、鎧をまとっているつぐみとか、弱っているつぐみばかりを見ていたからかもしれない。鹿名田家でつぐみが見せる笑顔は、きれいに整えられていたけれど、痛々しいものばかりだったので。

 もうすこし笑い声を聞いていたくて、すりすりと額を擦った。つぐみはじゃれつかれていると思っていて、「もう体温計でいいよ」とわらった。うん、確かに体温とかもうわからない。「はいはい、いま持ってきます」と従順にお願いを聞いて、目を閉じてちょっとのあいだだけ祈った。神さま。おねがいです、神さま。

 この子がずっと、ずーっとしあわせでありますように。

 わらっていて、くれますように。



 シュークリームの箱を折って、古紙回収用の紙袋に入れる。

 つぐみは今日はもうおなかいっぱいだと言うので、ひとりで煮込みラーメンを作って食べて、風呂に入り、風呂掃除も済ませた。まだ八月だけど、庭はすでに秋の様相で、りーん、りーんと草陰から虫の声がしている。ダイニングテーブルの端で干からびていたキュウリの馬にきづき、「そういえば」と葉は冷蔵庫をあけた。

 保冷室にはキュウリと一緒に買ったナスがまだ残っていた。

 ほんとうならお盆の終わりに出さなければいけなかったのだが、鹿名田家訪問とか、そのあとのつぐみの体調不良やなんかですっかり忘れていたのだ。ひとりだったし、どうしよう、と思ったけど、迎えておいて送らないのもよくない気がしたので、割り箸を四つ刺したナスを縁側に持っていった。


「おじーさん、つぐちゃんとたくさんお話できましたか?」


 ここはつぐみの祖父の青志せいしが愛人を住まわせていた家なので、戻ってくるとしたらやはり青志だろう。ナスのちょっとしなびた背を撫ぜて、「また来年も来てね」と送り出す。葉がつくるナスの牛はやっぱりバランスがわるくて、しばらくぐらぐらしていたが横に倒れてしまった。……まずい、青志おじいさん、帰路半ばで落馬したかも。いや牛だから、落牛か。

 キュウリの馬もナスの牛もひとつずつで定員オーバーを起こしているだろうから、葉の両親は帰ってこれない。つぐみが暮らすこの家に、とくにおやじのほうを招くわけにはいかない。

 葉は普段使わせてもらっている部屋の抽斗の奥にしまっていた煙草とライターを持ってくると、サンダルをつっかけて庭に出た。

 着火したライターの炎を煙草の先に近づける。じわりと先端に橙の火が灯るが、煙をへんな場所に吸い込んでしまい、げほげほと噎せた。葉は年に一回しか煙草を吸わないので、いつもはじめは慣れてなくて噎せてしまう。

 この銘柄は父親が愛用していたものだ。五年まえに廃番になっている。五年前に買ったひと箱をずっと使っている。

 ――おやじ。そっちはどうですか、おやじ。

 かあさんが作る薔薇棚には会えましたか。まだふたりでつくっている最中ですか。

 というか、かあさんにぼこられていますか。しばかれていますか。

 すごい怒られてそうだけど、たぶん一緒にはいるよね。

 俺は――……

 俺はいま、とっても難しい恋のなかにいます。

 俺がすきになったひとは、たぶんほんとうは、すきになってはいけないひとだと思うのです。

 指に挟んだ煙草からゆらゆらと紫煙がたちのぼっていく。

 ヒモは捨てられるまでがヒモの身の処し方なので、いつかつぐみにほんとうにすきなひとができたら、葉はあっさり捨てられてやらないといけない。だいじょうぶだろうか。ヒモとしての一生をちゃんとまっとうできるのだろうか。考えるだけでも胸が痛いのに、実際にそうなったら、おねがいだから捨てないでって、結局やさしいあの子にすがりついてしまいそうだ。

 善きヒモのなり方について、とりあえずしっかりものの母親のほうに尋ねてみたけれど、母親は記憶のなかのあっけらかんとした笑顔で、息子よ健闘を祈る、とさじを投げた。

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