幕間

その後のふたり

 暗い畦道を一時間ほど歩き、やっとたどりついた最寄り駅はすでにシャッターが下りていた。


「えぇえええええ……」


 灯りが落とされた駅舎に駆け寄り、ようは終電の時刻を確認する。

 23:18。現在の時刻は0:58。ゆうに一時間以上は過ぎている。というか、鹿名田かなだ家を出るまえあたりから時間の感覚が軽く飛んでいるけれど、すでに深夜一時近かったことに愕然とした。道理で人通りがないわけである。


「タクシーも……ないねえ……」


 ロータリーをぐるりと見回すものの、タクシーどころか車ひとつ止まってない。駅周辺は暗闇に沈み、朝まで時間を潰せるようなファミレスやコンビニのたぐいも見当たらなかった。唯一、バス待ち用のベンチがぽつんと蛍光灯に照らされている。


「このあたりは五時を過ぎたらお店が閉まるし、夜に出歩くような場所もないから」


 葉のロングカーディガンを肩にかけたつぐみがつぶやいた。すこしまえまでずっと涙腺が壊れたみたいに泣いていたのだけど、いまはちょっと鼻声になっているだけで落ち着いている。


「んん、どうしようか」


 いまさらながら、あまりにお粗末な逃避行をしてしまったと後悔した。始発が五時か六時だとしても、今から四時間以上つぐみを外で待たせるなんて。


「ええと、タクシーって確か電話でも呼べたような……?」


 いかんせん、葉はそんな贅沢な使い方をしたことがないので、記憶があやふやだ。


「いいよもう」


 スマホを取り出そうとした葉のTシャツの裾をつぐみが引っ張った。


「あと数時間待っていたら、電車も出るだろうし。ここで待ってよう」


 バス待ち用のベンチにつぐみが座ったので、葉もトランクを引いてとなりに腰掛けた。――あ、なんかちょっと近かったかもしれない。肩が触れ合うくらいの距離感におののいて座り直そうとすると、はずみに間近でつぐみと目が合ってしまった。ひぇ、となり、同時にベンチから落ちる勢いで身を引いた。まずい。ノリがつきあいたての中学生男女みたいになってきた。


「えーとえーと……さむくない?」

「……だ、だいじょうぶ」

「ならよかった」

「…………」

「…………」


 今度は健康の心配をする老夫婦のようになってしまった。

 距離感に明らかに異常をきたしている。きまずい。

 ちらりとつぐみをうかがうと、こちらに背を向けるようにして足元のあたりを見つめていた。畦道を歩いているあいだもずっとこうだったので、今日はもう目を合わせてくれなそうだ。後悔の念がじわじわせり上がり、地面に埋まりたくなってくる。

 さっきはきづいたら唇が重なっていて、それが心地よくて、二三度おなじことを繰り返してから、ようやく我に返った。つぐみのとなりにいると、葉はときどきおかしなことになる。彼女の言葉や仕草や表情が、急に吹きつける嵐みたいにぎゅうぎゅうと胸を締めつけてくるのだ。しんどい。でもかわいい。すごくかわいい。方向がちがう力が別々に綱引きしているみたいで、葉が扱える感情の許容量をぶっとんでいってしまう。ほんとうは紳士的で理性的な契約夫でいたいのに。

 そういえば、そんなことわざがあった気がする。

 しんとうめっきゃく的な。めっきゃく。めっきゃくって、なんだ?


「つぐちゃん、めっきゃくって――」


 訊いてみようと振り返り、となりの女の子が葉にすこし肩を預けたまま目を閉じていることにきづいた。ちいさくひらいた口からすぅすぅ寝息が漏れている。寝ている。葉がしんとうめっきゃくしたり、めっきゃくってなんだか考えているうちに眠っていらっしゃる。しかも安らかな寝顔だ。脱力しそうになり、すこしわらった。

 つぐみの肩から落ちかけたカーディガンをかけ直していると、つぐみが葉の左手を握ってきた。この子は眠っているとき、そばにあるものをつかむのが癖なのだ。

 包むように握り返した。とりあえずつぐみが起きるまで、葉は絶対寝ないようにしよう。始発を逃すといけないし。寝ない。でも手があたたかい。ひとの手ってとてもあたたかい。触れている肩もなにもかも。しんどいとかわいいのあいだで、くすぐったくなるようなあたたかな感情があふれだす。寝ない。ねない……ねない……。


 ・

 ・

 

「たっくーん」


 早朝、閉めた駅のシャッターを駅員・竹居(38歳)が上げていると、いつも犬の散歩で駅前を通るおねえさまが声をかけてきた。御歳八十五になるぴちぴちのおねえさまである。今日もサングラスにフリルつきワンピースが似合っていらっしゃる。


「ああ、ちづさん、おはよう」

「おはよう。ねえ、たっくん。あれあれ」


 わふわふ言っているコーギーを腕に抱えつつ、おねえさまが駅前のベンチを指さす。すこし影になっているせいできづかなかったが、ワンピースにカーディガンをかけた女の子とTシャツにスウェットの若い男が肩を寄せ合って眠っている。大学生くらいだろうか。ベンチの横には大きめのトランクが置いてあり、ふたりの足元では雀がちゅんちゅん鳴いていた。


「終電逃した学生さんかねえ」

「うふふ、わたしと旦那の若い頃を思い出しちゃう」

「え、そうなの?」

「ふたりで夏に駆け落ちしたのよねえ。親の反対を突っぱねて」


 意外と大恋愛をしているおねえさまに目を剝くと、「始発前には起こしてあげなさいねえ」と言って、おねえさまはコーギーを抱いて帰っていった。毎日思うけど、あれはどちらの散歩なのだろう。

 駅舎内の電気をつけると、まだまどろみのなかにいる若者たちを振り返る。

 仲良さそうに手をつないでいるので、おねえさまの言うとおり、やっぱり大恋愛のすえの駆け落ちかな?と適当に想像しつつ、プラットホームの灯りをつけた。

 今日はよく晴れそうだ。駆け落ちが完遂できるよう、始発のまえには起こしてあげよう。

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