六 奥さんとはじめての恋 (5)(終)
十一年後、
つぐみが師事する
「植物がすきなのはいいんだよ。ただ、僕は君の絵がひとつのモチーフに固まってしまうのがもったいなく感じていて――」
「先生、このひと誰?」
つぐみが取り上げたのは、二十歳前後の青年のヌードデッサンだった。均整が取れた身体にのびやかな手足。果敢なさすら感じさせる、うつくしい顔立ち。記憶のなかの葉と重なる部分もちがう部分もあったけれど、ひと目見て、絶対に葉だとわかった。つぐみが葉を見間違えるわけがない。六歳で別れてから、十七歳になる今まで一日だって忘れずに葉のことを考えてきたのだから。
「え、つぐみちゃん、葉くんのこと知ってるの?」
驚いた風に尋ねた花菱に、「このひと、いまどこにいるんですか?」とかぶせ気味に訊く。
以前よりはだいぶマシになったけれど、感情の起伏がほとんどなく、植物以外の何にも関心を示さないつぐみが、これだけ矢継ぎ早に何かを訊くことはめずらしい。花菱はつぐみの剣幕に気圧されながらも、葉が一年前から働いている美大の施設管理スタッフであることと、そのあいまに学生たちのヌードデッサンのモデルをしていることを教えてくれた。
「どこかで会ったことがあるひとだった?」
「会ったことはありません」
「え」
「ぜんぜん知りません。……ただ、顔がすごく好みだったから」
説明するのがややこしかったので、嘘を言った。いや、嘘ではない。葉の顔は好みだ。
つぐみらしからぬ物言いに花菱はたじろぎつつも、画家特有の感性のようなものなのだろうと勝手に納得して、葉をデッサンモデルとしてつぐみの家に招けるよう取り次ぐことを了承してくれた。当時、つぐみは祖父から譲られた木造平屋で、使用人ひとりをつけて暮らしはじめたばかりだった。
葉に取り次ぐときに渡してもらう、画家としての「ツグミ」の名刺の裏に、
数日後、花菱から葉が了承した旨の連絡をもらった。
そのとき、デッサン料の相場を訊いた。一回につき一万円。安すぎる。つぶやくと、「いやそんなもんだよ?」と呆れた風に返された。花菱は用事があって付き添えないそうなので、約束の日、つぐみは玄関の上がり框にひとり座って、葉を待った。普段は家にいる使用人はあらかじめ返しておいた。
やがてガラス戸に人影が射し、インターホンが押される。
「こんにちはー、
葉は事件後、父親の本郷姓ではなく、母方の久瀬姓を名乗っているらしい。今日の日を迎えるまえにひとを雇って葉のことは勝手に調べていた。美大の施設管理スタッフとして雇われるまでの彼の半生を、できるだけ詳細に。
上がり框から、つぐみはそろりと立ち上がった。
「鍵あいているから、入って」
つぐみはドアを開けることができない。
とはいえ、事情を知らない人間にはいささかぶしつけに感じるだろう言葉に、「はーい」と素直に返事をして、葉がガラス戸をあけた。
春の陽射しがすらりと伸びた長身を金色にふちどっている。逆光で一瞬見えづらかったけれど、敷居をまたぐと、ヌードデッサンで見たあの顔が、つぐみの前にいた。ひいき目を抜いても、誰もが目を惹かずにはいられないうつくしい顔立ちの男だ。
葉はつぐみを見返し、ふにゃりと愛想よくわらった。
「はじめまして。花菱先生に紹介された久瀬です」
あまりにふつうにかけられた、はじめまして、の言葉に動揺する。
目を合わせたとたん、殴られても刺されてもおかしくないと思っていたのに。
「は、はじめまして……」
しどろもどろに言って、目を伏せる。
もしかして葉はつぐみがつぐみだときづいていないのだろうか。ありえる。名刺の裏にはちゃんと鹿名田つぐみの名前を書いておいたけど、葉は子どもの頃からちょっと抜けているというか、名刺の裏なんて見忘れたりしそうなところがあった。
「つぐみです」
顔を上げて、はっきり口にした。
「鹿名田つぐみです」
この名前でわからないわけがない。
さあ、なんと言われるだろう。なんでもいい。君になら何を言われてもいいし、何をされてもいい。ただ、君からのものがほしい。なんでもいい。君がくれるものがわたしはほしい。
表情を消してじっと見つめていると、「あ、はい、じゃあ鹿名田さん」と葉はうなずいた。
「えーと、上がってもへいき?」
毒気を抜かれる表情で、彼は苦笑気味に訊いてきた。
――そのあと、葉を家に上げて、ふつうにヌードデッサンをした。謝礼に一万円を払って、何度も何度もそんな関係を続けて、そして一年半後、自身に持ち込まれた見合いともうひとつ――とあることがきっかけでつぐみのほうから葉に結婚を持ちかけ、今に至る。
……ときどき、葉はほんとうはつぐみを憎んでいて、すごくすごく憎んでいて、だからつぐみから搾れるだけ搾り取ったあと捨て去るためにここにいるんじゃないかと思うことがある。葉とつぐみのあいだで罪と罰はぐるぐると入れ子のようになっていて、だれがわるくて、何が罪なのか、よくわからなくなる。
でも葉からおじさんを奪う直接の原因をつくったのはつぐみだ。葉がどんな風に思っているのかはわからない。確かめたことはないし、そもそも葉とのあいだで過去の事件を話題にしたことはない。ただひとつ言えるのは、葉が入れる毒だったらつぐみはなんだって飲み干すし、葉が首を絞めてきたらひとつの抵抗もせずに殺されてみせる。今度はまちがえない、絶対に。
・
・
ドアが外れるけたたましい音がして、つぐみは顔を上げた。
外から蹴破られたのだとわかる。すっとんでいったドアが壁にぶつかり、ひばりがびくっと背を震わせた。
「つぐちゃん、いる!?」
部屋に踏み入った葉が中を見回し、床にうずくまっていたつぐみを見つける。嗚咽が勝手に咽喉を震わせる。生理的な涙で顔がぐしゃぐしゃだった。葉は驚いた風に目を瞠らせたあと、ひばりの横をすり抜けてつぐみのそばにかがんだ。
「へいき? 息がくるしい?」
背中をさすりつつ訊かれて、ちいさく首を振る。喘鳴まじりの息は、根気強く背中をさすられていると、徐々にふつうの呼吸のテンポに戻ってきた。あちこちに飛び跳ねていた鼓動も、呼吸につられてもとの場所におさまっていく。
「なんであなたがここにいるのよ……」
つぶやくひばりの声で、葉が顔を上げた。
「か、勝手になんなの。いま、わたしがねえさまと――」
「君こそ、ドアあけられない子のまえでドア閉めるのが暴力だって、なんでわからないんだよ!?」
怒声とともに壁にこぶしを打ちつけられて、ひばりが細く息をのむ。声がびりびりと鼓膜を震わせる。つぐみは葉がこんな剣幕で誰かに対して怒るのをはじめて見た。
「あ、わたし……わたし……」
いつもなら舌鋒鋭く言い返すひばりがみるみる蒼白になる。
それで我に返ったらしい。
「や、すいません……。えらそうに……」
すぐにこぶしを外し、葉はごにょごにょと謝った。
「あの、えーと、妻の具合がわるそうなので! 俺たち、おいとまします。あとこれ、これももらいます!」
机のうえにひろげてあった離婚届をひっつかんでポケットにねじこみ、葉はおもむろにつぐみの身体を抱え上げた。何かを言う気力もなくて、葉の首に腕を回す。
すこし離れた向かいの壁に
ごろごろと、足元がわるい夜道に、葉が引くトランクの音が鳴っている。つぐみは室内着に葉のロングカーディガンをかけただけの恰好で、となりを歩いていた。
トランクとつぐみを引っ張って、葉が鹿名田本家を出て行ったのが三十分ほどまえ。田畑が両側にひろがる畔道をしばらく無言で歩いていたが、途中で「あっ」と葉が声を上げた。勢いで飛び出したせいで、車を駐車場に忘れてきたらしい。
「取りに帰ろうか……」とおずおずとうかがいを立ててきた葉に、「もういいよ」とつぐみは言った。
今さら鹿名田本家に戻るのも恰好がつかないし、また三十分歩くのも面倒くさい。もうすこし歩けば、最寄りの駅に着くはずだった。ただ、もしかしたら終電を逃しているかもしれない。つぐみのスマホは今日も充電切れを起こしているが、もう零時を過ぎている気がした。
「なんで来たの?」
となりで歩く葉を見上げて、ぽつりと訊いた。
ひばりと話している部屋に葉が乱入してくるのは完全に予想外だった。そもそも、ひばりのまえで自分があんなに取り乱すとも思わなかったけれど……。
「そりゃあ来るよ、あたりまえだよ」
「わたしが君の金づるだから?」
意地のわるい言い方をすると、葉は口を閉ざした。
畔道に設けられた街灯はひとつひとつの距離が空いているせいで、葉の表情がよく見えない。雲間から射し込んだ月光がほのかに足元を照らしている。草の陰から虫の声と蛙の鳴き声が聴こえた。
「……いいんだよ。わたしは君の金づるでいたいの」
葉が何も言わないので、自分で訊いて、自分で答えるような言い方になってしまった。
つぐみは葉にとって都合がいい女でいたい。お金をくれて、衣食住も保障してくれて、でもいつだって離婚届一枚でポイっと捨てられる。そういう都合がいい女だ。もちろん、つぐみだって葉を都合よく使っている。それでいい。それでいいのだ。互いにリターンがなければ、この関係は成立しない。それで。
「――どうしてひとりでひばりさんのとこ行ったの?」
金づる云々について何も言わなかった代わりに、葉は別のことを訊いてきた。
「5000万でひばりが久瀬くんを買うって聞いたから」
昨晩、葉にひばりが取引を持ちかけるのを立ち聞きしていたとは言えず、つぐみは目を伏せる。爪先が蹴った小石があらぬ方向へ飛んでいった。
「……久瀬くんにとっていちばん都合がよい金づるには、わたしがなりたかったから。ひばりが5000万円出すっていうなら、1億でもなんでも、もっと多くわたしが払えばいいと思って」
「つぐちゃん、さすがにそこまで稼いでないでしょ」
「たくさん仕事すればどうにかなるから」
「どうにかって……」
葉はあっけにとられたようすでつぐみを見た。
視線がふいにかち合う。吸い込まれるような澄んだ眸だ。場違いに見惚れてぼうっとしていると、葉は大きく息をついた。ごろごろと回り続けていた車輪の音がふいに止まる。
葉はすこし腰をかがめて、つぐみに目線を合わせた。
「君はさあ、ヒモ道というものをはきちがえていると思う」
「……ひ、ひもどう?」
いきなり謎の単語が飛び出て、つぐみは眉根を寄せた。
ヒモ道。書道、華道、茶道のように、ヒモとして極める道のことだろうか。
一度も聞いたことがない。世間では一般的なのだろうか。
「ひとかどのヒモは、飼い主をほいほい変えたりしない。むしろ飼い主に捨てられるところまで含めてヒモの一生だから。それがヒモの生誕から終焉までで、そういうストイックな営みがヒモ道というものだから。つまり何が言いたいのかというと」
葉はつぐみをまっすぐ見つめた。
「君が捨てるまでは俺はどこにもいかない」
瞬間、強い風がざあっと足元の夏草を揺らした。風の音以外、虫の音も蛙の声も、街灯がばちばち明滅する音も、つぐみの呼吸もぜんぶ止まった。
「……ほんとう?」
「ほんとうだよ」
「ほんとうに、ほんとう?」
つぐみは葉のシャツの裾を両手で握りしめた。
「ほんとうにほんとうに、ほんとうっ!?」
「うん、ほんとう。ほんとうだよ」
しつこいくらい何度も訊いた言葉に、おなじように返される。
ふいにそれまでこらえていた涙がぽろぽろといくつも頬を伝っていった。きづいた葉の手がつぐみの目元に溜まった涙を拭う。右も左もそうされるけど、涙が次々あふれて止まらない。
「ほんとうに……?」
しつこい。もういい加減にしろ。
思っているのに、壊れた機械みたいにまた繰り返そうとすると、ひらきかけた唇をふさぐように唇が重なった。肩が跳ね上がる。惰性のようにこぼれた「ほんとう?」は吐息のなかに吸い込まれて消えた。二度、三度、言葉をのむこむようについばんだあと、唇が離れる。
つぐみは瞬きをした。なにが起こったのかまだよくわかっていない。
「ええと……」
しまった、という顔をしたあと、葉は横に目をそらした。
「り、履行期限過ぎたけど、やりなおしで……」
履行期限。
そういえば、ここに来るまえ、キスをするしないで若干もめた気がする。もうずいぶんまえのことのように思えたし、葉が覚えていたことにもびっくりした。
「……いきなりでごめんなさい」
「べつにいいけど」
動揺すると、どうしてこうかわいくない言い方をしてしまうのだろう自分は。
眉根を寄せ、つぐみは葉の手を引いた。
「もう一度して」
「えっ」
「……いやなの?」
「やじゃない、はい、やじゃないです」
うろたえながら言って、葉はえへんと空咳をした。
頬に手を添わされたので、おそるおそる目を瞑る。さっきよりも葉の手が大きく感じられる。こわい。でも、あたたかい。昔と変わらない。でも、もっとおっきい。……すき。だいすき。
ひとつ呼吸を置いたのち、それはやさしく、やさしく雨のように降ってきた。
一度目の恋は繭のなかから外に出られないまま死んだ。
つぐみの二度目の恋は、もうはじまっている。
《1st season》 is END !!!
to be continued …
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