四 奥さんとご褒美のゆくえ
ふた月ほど取り掛かっていた一対の曼殊沙華画が完成した。
最後にツグミのサインと落款を押すと、やってきた鮫島に引き渡す。夕暮れどきに仄暗く浮かぶ赤の曼殊沙華のなかで眠る葉の右肩から腰、脚にかけてのしなやかな線を描きこんだものと、夜明けのほの白いひかりのなかに群れ咲く白の曼殊沙華と溶け入りそうな葉の左半身の線を描いたものだ。
とくに白のグラデーションは、自分で鉱石を砕いて絵の具をつくって表現した。つぐみの瞼裏にはずっと、河原で見た水中の小石のしろさがあった。やさしくてまろやかなしろさだ。あれは葉がとなりにいたから、そう見えたのだろう。
「それじゃ、
鮫島は葉が出した冷茶をぐびりと飲み干すと、ネクタイを緩める。
七月に入り、梅雨明けとともに気温は毎日うなぎのぼりに上がっている。画商である鮫島は、三十五度越えのこんな日にもブリティッシュスタイルのスーツで通していた。つぐみのまえではさすがに上着は脱いでいたが。
「ツグミの半年ぶりの大作ですからね。もう結構、問い合わせもきてますよ。やっぱり売るときは二曲セットがいいんですよね?」
「あれはふたつでひとつだから」
「わかりました。まあ、コレクターも二曲一双で置きたいと思いますけどね、あれは」
つぐみの要望にできる限り寄り添おうとしてくれるのが鮫島のいいところだ。
冷茶に添えられた水羊羹を切り分けつつ、「問い合わせといえば」と思い出した風に口をひらく。
「青浦礼拝堂の絵画の件、どうします?」
その話はすこしまえに電話で聞いていた。青浦教会は大正時代に建てられた、鎌倉にある煉瓦造りの教会で、今度礼拝堂の一部を改築するらしく、そこに飾る宗教画をぜひつぐみに頼めないかと鮫島を通じて依頼があったのだ。
「条件的にも申し分ないとは思いますよ。しかも先方はあなたの絵をいたく気に入っているし」
「でも、『花と葉シリーズ』じゃないんでしょう……?」
「まあ宗教画ですからね。マリアにしろイエスにしろ聖人の誰かにしろ、外国人ではありますよね」
真顔で冗談みたいなことを鮫島は言った。
口をつぐんで、つぐみは足元に目を落とす。十七歳で「花と葉シリーズ」の第一作を発表し、注目を集めて以降、つぐみは「花と葉シリーズ」以外の作品を発表したことがない。葉という支点を失うと、つぐみの脳内のモチーフはばらばらに散らばり、絵としてフレームに落とすことができなくなる。もちろん描けないことはないのだが、ただ超絶技巧を尽くされた花がそこにあるだけ、という絵になる。大枚をはたいてでも手元に置きたいと思わせる、引力がある絵にはならない。
「先方も急いではないようだから、もうすこし考えてみてくださいよ」
断りそうなつぐみの気配を察したのだろう。鮫島はすばやくそう言い置いて、席から立った。
「つぐみさん、お疲れさまー!」
葉はつぐみの絵の完成祝いに手巻き寿司をつくってくれた。
鹿名田家にはそういう風習はなかったのだが、葉はお祝いというと必ず手巻き寿司をつくる。酢飯を炊いて、ふわふわの錦糸卵、キュウリ、イクラのしょうゆ漬け、イカ、トロ、サーモン、甘辛い鶏そぼろ。大きな海苔にくるんで食べる。つぐみは葉が用意する具のなかでいちばん錦糸卵がすきだ。やさしくて甘い薄焼き卵。葉は施設の調理スタッフのおばさんに教わったと言っていた。
「あとこれ、このあいだ漬けた梅シロップ。できたから飲んでみよ?」
たっぷりの氷に蜜色の梅シロップを注いで、水で割る。一口のむと、思ったよりも酸っぱくなくて驚いた。濃厚な深みのある甘さだ。
「すごくおいしい」
「ねー」
一緒にヘタ取りをした青梅は、あのあとしょうゆ漬けになって朝ごはんの食卓にものぼっていた。葉は七月のはじめにも黄色く熟れた梅を集めていて、それは梅ジャムに変わる。今まで実をどっさりつけては落としていただけの梅の樹だったが、余すことなく使ってもらえて満足しているんじゃないだろうか。
「つぐみさん、それでさ」
ちゃぶ台をいっぱいにした手巻き寿司をふたりで腹におさめると、食後のお茶を淹れつつ、葉が切り出した。
「お祝い、なにがいい?」
「……手巻き寿司つくってくれたよ?」
「いや、それはつぐちゃん出資のもと俺がつくっているだけなので……。なんでもするよ。肩たたきでも、頭のマッサージでも、手のマッサージでも」
「マッサージが多いね」
「得意なので」
葉はどやっとした顔をした。
かわいい。つぐみはついわらってしまった。
「えーと、じゃあ……。服を買いたいんだけど」
「うんうん」
「つきあってくれないかなって」
「えー、そんなんいつでもつきあうよー」
そんなこと、と言うがつぐみのなかでは大ごとだ。なにしろ、つぐみは誰かと買いものに行ったことがほとんどない。服に至っては常にネットショッピングだ。それに今回つぐみが知りたいのは、葉がすきな女の子の服の趣味なので、本人がいないことには始まらない。
先月の如月事件はつぐみにとって青天の霹靂だった。
頼み忘れた買いものがあって葉のスマホに連絡したら、見知らぬ女が出たのだ。
――はーい、葉くんの携帯です。
何事かと思った。スマホを持ったまま三秒固まり、一言も発せず通話切るボタンを押した。すぐに葉から折り返しの電話がかかってきたのだが、さっきの女かもしれないので取らなかった。以来、つぐみは葉の携帯には絶対電話をかけていない。
ふたりはどういう関係なんだろう。
葉はもしかしてつぐみ以外にも通っている家があるのだろうか。多重婚は法律的にありえないにしても、ほかにも契約恋人をやっているとか……。もやもやして、でも葉に直接訊くのもはばかられて、でもやっぱりどうしても気になって「あのひと誰?」と勇気を出して訊いたら、「職場の同僚」という試験の模範解答みたいな答えがかえってきた。
ただ、葉はつぐみを舐めている。つぐみは偏執的に葉という生きものを観察しているので、いつもよりコンマ数秒切り返しが早かったとか、言葉の並びが普段とちがったとか、さまざまな理由から「嘘じゃないけどそれだけじゃない」と見抜いた。
バーベキューで会った如月は、ショートボブが似合うすらりとした長身の女性で、年はたぶん葉の五つくらい上で、余裕があってきれいで、とりあえずつぐみの要素をすべて逆にしたようなひとだった。そして、
――葉くん。
如月が葉を呼んだときの声と雰囲気だけで、あ、このふたりはつきあっていた、とつぐみは察した。人間が苦手なくせに、ときどき発揮されるこの異常な鋭さはなんなのだろう。我ながらいやになる。
べつにつぐみだって、葉が誰ともつきあったことがないなんて思っていない。でも、誰かとつきあっていたかもしれないと思うのと、つきあっていたらしい女性が目の前に現れるのとでは雲泥の差がある。つぐみは急に今日選んだワンピースがすごく子どもっぽかった気がして恥ずかしくなった。いつもは気にならないのに、葉と如月が並んでいるのに比べて、つぐみと葉が並ぶと兄と妹くらいに見えてしまうのもなんとなくいやだった。
そういうわけでのリベンジである。
つぐみも今年二十歳になるし、化粧や服でいくらでも大人っぽくなれるはずだ。
つぐみは葉の雇い主なのだから、いつも堂々としていないと。
平日のデパートはつぐみが想像していたよりも閑散としていた。
つぐみは近隣のデパート事情をよく知らないので、葉が美大の学生たちによく服を買いに行く場所を聞き出してくれた。ちなみに葉自身はショッピングモール内のファストファッション店で衣料品をまかなっているので、ブランドには詳しくないようだ。すこし前を歩く葉は、ジーパンに白のTシャツという、それはコーデなのか?という無難すぎる組み合わせにスニーカーを履いているが、手足が長くて腰の位置が高いから、なぜかかっこいい。
「どこがいいかなあ。つぐちゃん、行きたいお店ある?」
エントランスにある案内板を見て、葉が尋ねる。
ブランドについては事前に調べてきた。「ここと、そこと、」とつぐみが示すと、「うんわかった」と言って大きな手を差し出す。外に出るとき、葉はだいたいつぐみと手をつないでくれる。安心させるように。
つぐみが最初に選んだのは、二十代前半の女性向けのブランドだった。ばりばりのキャリアウーマン向けのお店だと浮くだろうから、適度にカジュアルそうなブランドを選んだのだけど、入ってみると結構、ぱりっとしてしゅっとしている。というか、マネキンのスタイルが無駄によくて、こけしスタイルのつぐみとはだいぶひらきがある。
「おおー、ハンガーもおしゃれだ……」
ズレたところに感心している葉の手を引っ張り、「久瀬くんはどういうのがすき?」と尋ねる。
「ん? 俺?」
「うん……スカートかパンツかとか。色とか……。如月はストライプのシャツブラウスだったよね?」
「なんかちょいちょいいきなり飛び出すね? 如月」
ふしぎそうな顔をしたあと、「如月みたいなかんじにしたいの?」と尋ねてくる。
「か、かっこよかったし」
「あーうん、確かにかっこいいよね如月」
そこは嘘でもいいから、つぐみさんのほうがかわいいくらい言ってほしかった。
3000万円、仕事して。
……そこまで考えて、ふと思い至る。
つぐみは葉を3000万円で雇っているのだ。こんな風に葉の服の好みとか、葉の女性の好みなんか懸命に聞き出さなくたって、ただ一言、如月よりつぐみのほうがかわいいと言ってもらえばいいのでは。……でもそれだと、つぐみは服が欲しいんじゃなくて、葉に如月より自分がかわいいと言ってもらいたいということに。あれ。よくわからなくなってきた。
「つぐみさんは私服、ワンピースが多いから、そういうのがすきなのかなって思ってた」
ひとり混乱していると、店内にかかっている服をいくつか見ていた葉が「これとか」と一枚のワンピースを広げてみせた。夏らしい透け感のあるベージュで、スカートがひらりと軽やかに広がるかんじがかわいい。腰もとにさりげなくリボンが結んであるのもすきだ。
「お探しですか?」
声をかけてきた店員さんに「あーはい」と葉が軽くこたえた。
「彼女ってどういう色が似合いますか? あ、でもつぐちゃんは如月スタイルがいいんだっけ?」
「き、如月は一度離れて……!」
恥ずかしくてつっこむと、店員さんが控えめに微笑んだ。
「お客さまだと肌色が白いから、淡いお色も似合うと思いますよ」
たとえば、とピンクベージュのブラウスやレモンイエローのトップスを見せられる。
「夏なら、ロングスカートをあわせてもお似合いかと」
「ほんとだ。長いスカートもかわいいねえ」
「合わせられますか?」
店員さんに訊かれて、ちいさくうなずく。
それからも葉は店に入るたび、自分で探したり、店員さんに聞いたりしてつぐみに似合いそうな服を見つけていった。きづけば、服三着と靴と髪留めを買っていて、葉の手に抱えられた荷物は増えていった。
「結構買ったね」
「ほんとうだね」
あらかじめ調べておいたお店に加えて、気になったお店も回って、一息つく頃には正午を過ぎていた。デパートの園庭に出ていたキッチンカーでふたりぶんのランチボックスを買って、ベンチに座る。横には今日の戦利品が積み上がっている。葉の好みを聞くつもりが、いつのまにか単に好きな服を買うだけになってしまったけれど。
日射しを遮るパラソルの下で、葉はランチボックスをあけている。
「久瀬くんは見たいお店ないの? 服買う?」
思えば、午前中ははじめから終わりまでつぐみの用事で使い切ってしまった。
今さら思いついて尋ねると、「俺はデパートぶらついて楽しかったからもう満足」と手を振られてしまった。確かに葉の買いものは近くのショッピングモールでほぼすべて済んでいる印象があるが。
「それよりつぐみさんはお祝い何にするか考えておいてね」
「え、買いもの来たよね?」
「それはいつでもつきあうって」
わらいながらランチボックスのチキンをかじって、「これめちゃくちゃおいしいね?」と瞬きをする。
(……ね、あのひとすごいかっこよくない?)
(ほんとだ、イケメンー)
近くの席に座っていた女子が葉のほうをちらちら見て囁きあっている。
もそもそとチキンを食べつつ、そうだよね、久瀬くんはチキンかじっててもかっこいいよね、とつぐみは胸中でうなずく。でも、ここにいるひとたちの誰も、今日すれちがったひとたちの誰も、葉がどういうときにいちばんうつくしいかを知らないと思う。
久瀬葉は服を着てないときがいちばんいい、とつぐみは思っている。
半分ひらいた障子戸から午後のひかりが射し込み、葉の裸体をうすく照らしている。蛍光灯じゃなくて自然光がいちばんすきだ。見えすぎなくて、見えなすぎない。葉の肩とか背中とか太腿のあたりとか、普段服の下になっていて膚がしろいところには、ちいさな丸い痕がいくつも残っている。なんだろうとはじめふしぎに思って、すぐに煙草を押し付けられた痕だとわかった。それはひどく古い傷に見えた。
はじめてきづいたとき、つぐみはなぜかじんと胸が痛くなった。
かわいそうに思ったのではなくて、暴力を受けたときの痛みを想像したわけでもなくて、つぐみはおなじように、自分とおなじように痛みでつながれる同類を見つけた気がして、じん、としたのだった。うれしくて、かなしい。はしたない感情だ。そしてそれはいともたやすく裏切られた。
へくしゅ、と目の前の身体がいきなりくしゃみをして、あ、しまった、という顔になり、つぐみのほうを見て照れたようにわらった。
その一連の表情の変化で、つぐみは葉が痛みを抱えて生きているのではなく、長い時間のなかでちゃんと傷を癒してここに座っているのだとわかった。つながれると伸ばしたロープをぷっつり断ち切られたような気分だった。
葉が惜しげもなく身体をさらせるのはつよいからだ。この身体はあまりに今このときを生きていて、過去におびやかされることもおびえることもなく、ただそこに在る。胸がまたじん、と痛んで、つぐみの頬に静かに涙が伝っていった。そのことがつぐみを……今もドアをあけられないでいるつぐみをどれほど……。
「つぐみさん?」
目の前で手を振られて、つぐみは瞬きをする。
「チキンかじったまま停止してたから。おいしくなかった? チキン」
「ううん、おいしい」
「そう? じゃあゆっくり食べて」
葉はいつのまにかランチボックスの中身を食べ終えていた。
炭酸を片手にまぶしそうに園庭を見ている葉につぐみは目を向けた。
「久瀬くん、如月とつきあってたの?」
「へっ?」
すっかりくつろいでいた風だった葉が急に背を正す。
「またいきなり出るね、如月!?」
おなじ質問は如月にもした。
――久瀬くんとつきあってました?
ショートボブのうつくしい女性はつぐみを意外そうに見たあと、
――そういうの、先に本人に聞いたほうがいいと思うよ。
と不敵に口端を上げた。なんかもう完璧だったし、つぐみはKO負けだった。
「えーっと、つ、つきあっていたかな? でも結構昔だよ。つぐちゃんと結婚する一年以上前だし!」
「ふーん」
どうせそうだろうと思っていた。――一年以上前。でもじゃあ、葉と出会った頃はまだつきあっていたのか。つぐみが葉に出会ったのは一年半前だ。べつに葉はひとつもわるくないけど、なんだかむかむかしてくる。
「く、久瀬くんは年上の女のひとがすきなの?」
「え、え?」
「すきなの?」
「いや、きらい……ではないけど、とくべつすき……というわけでも……」
葉はさっきから目に見えてうろたえている。
「つぐみさんはどっちがすきなの?」
「わたしは年上がすき」
「あ、そうなんだ……」
間髪いれずにこたえたつぐみに、ひとごとみたいに葉はうなずいている。
「フラミンゴのひとも、年上っぽかったもんね……」
なぜここでいきなりフラミンゴが出てくる?
つぐみは眉間の皺をますます深めた。つぐみの機嫌がどんどんわるくなっていることだけは伝わっているのか、葉はベンチのうえで若干身を引いている。
「久瀬くん」
「う、うん?」
「わたしお祝い決めた」
ずいと身を乗り出し、つぐみは言った。
「キスして」
至近距離で見つめ合ったまま告げると、黒よりも茶に近い眸がみるみるみひらかれていき、「キスっ!?」と葉はベンチから落ちる勢いで身を引いた。
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