三 旦那さんと元カノ前線到来 (3)
奥多摩にあるキャンプ場に着くと、花菱先生に学生たちを加えた美大のメンバーはだいたい集まっていた。コンロをはじめとしたバーベキュー器具はキャンプ場が貸し出してくれるらしく、初夏の河川敷では家族や友人同士のグループがあちこちでわいわいやっている。
「花菱せんせー、こんにちはー」
行きがけのコンビニで買ったペットボトル数本が入った袋を学生に渡して、葉はすでに缶ビールをあけている花菱に挨拶する。花菱は齢五十過ぎになるが、今も最前線で活躍する日本画家であり、つぐみの師でもある。バーベキューには似つかわしくない鉄紺の着物に濃紺の羽織をかけていて、ちょび髭を生やした出で立ちは明治大正期の文豪か何かのようだ。
「おお、葉くん来たか。つぐみちゃんもひさしぶり」
「ご無沙汰してます」
いつも思うけど、つぐみは葉ならなかなか出てこないような言い回しをするっと使う。
(ね、あのひと誰なのかな)
(葉さんの妹さん? 俺たちとあんまり歳変わんなく見えるけど)
学生たちは突如現れたつぐみを遠巻きに見て囁きあっている。
学生諸君、妹などではないぞ。なんとつぐみさんは――。
「『妹』じゃなくて『奥さん』。だよね、葉くん?」
口をひらくまえに指摘が入って、葉は肩透かしを食らう。
「もどりましたー」
男子学生たちにスーパーの袋を持たせた如月がよく通る声で言った。近くまで車を出して買い出しにいってきたらしい。重そうな袋からはふたり暮らしではちょっとお目にかからないような量の野菜がのぞいている。「おかえりなさーい」と声をかけつつ、学生たちが「えっ、えっ」とそこかしこでざわめく。
「如月先生、いま奥さんって言った?」
「葉さん奥さんいたの!?」
「てっきりふらふら遊んでるひとかと……」
「遊んでいるは失礼!」
閉館時間になっても鍵を返しにこないおまえたちに何度融通を利かせてやったと思っているのか。施設管理スタッフにはもっと敬意を払え、学生たちよ。
「えー、こほん」
空咳をして、葉はつぐみに皆の注目を集めた。
「彼女はつぐみさん。俺の奥さんというか、つぐみさんの旦那さんが俺です!」
「おおおー!」
ノリのいい歓声とともに、「どっちも一緒じゃーん」という野次が入った。でも、ちがうのだ。雇い主のつぐみに「俺の」なんてつけるのはおこがましい。葉はいつだって「つぐみの」葉だ。
「つぐみちゃんは高校生の頃から活躍している画家でもあるんだよ。せっかくの機会だから、なんでも聞いてごらん」
「おおおー!!!」
さすが美大の学生だけあって食いつきがいい。
さっそく人見知りしない連中が「どんなの描いてるんですか」とつぐみを取り囲む。葉は絵に関する話題はさっぱりなので、つぐみのことは花菱に任せておき、バーベキューの準備隊に回ることにした。
そのまえに、といちおうあたりに「閉まっている扉」がある施設がないか軽く回って確認しておく。バーベキュー器具の貸し出し所はテントだし、トイレに至る道筋も大丈夫。トイレの個室はノブがついていないスライド式だから、つぐみでもあけられる。
つぐみがもっとも苦手とするのは、ノブがついたふつうの扉だ。
それ以外は、たとえばコンビニの自動ドアや駅や施設にあるようなスライド式のトイレ、窓や雨戸なら問題ない。車のドア、電車やバスといった乗り物のドアも該当しないらしい。障子や襖、風呂場の折れ戸はすこし苦手だと言っていた。でも、がんばればあけられる。
ただ、家の玄関のドアだけは絶対にだめだ。それがどんな形であってもだ。
つぐみを知ることは、彼女ができることとできないことを知っていくことでもあり、でもその過程でつぐみはいやがおうにも自分の弱点を相手にさらさなければならなくなる。だから、つぐみは花菱や鮫島といった幼い頃から知る数少ない人間をのぞいて、ほとんど誰ともつきあいを持っていない。今ならSNSを通じていくらでも誰かとつながれる時代だし、それすらもかたくなに拒むつぐみは、もとからひとづきあいを億劫がる性格なのかもしれないけれど。
「ちょっとー。聞いてないんだけど、奥さんが有名画家って」
コンロの準備は学生に任せ、葉が組み立て式のテーブルのうえで大量の野菜を処理していると、となりに入った如月が不満そうに言った。
「言ったじゃん、クリエイターって」
「だって、あの子あれでしょ。言われてピンときたよ、『花と葉シリーズ』」
葉は瞬きをする。花菱はつぐみを画家と紹介しただけで、作品の話まではしなかったから、如月がすぐに言い当てたことに驚いた。学生たちはきづいてないと思うけどね、と如月は息をつく。
「顔出しはおろか、年齢性別出身一切非公開の『ツグミ』が花菱先生の門下生らしいっていうのは知ってたけど、まさか自分より十歳も下の女の子だと思わないでしょ。うわーえげつない才能格差……。君、すごい玉の輿だね。どう口説いたの?」
「え、口説くなんてしないよ」
ヒモのほうから飼い主を選ぶなんて無礼にもほどがある。
「じゃあ惚れられたの?」
「まさか!」
つぐみにとっての葉というのは、八百屋の店先で見つけた野菜を「あ、これください」みたいなもので、確かに商品としては「一目ぼれ」というやつなのかもしれないけど、次元がちがう。
というか、あのときのつぐみは切羽詰まっていて、最初に見つけた八百屋にひとつ残っていた玉ねぎをつかんで、もうしかたないから「これください!」という気分だったにちがいない。つぐみにもうすこし心の余裕があったら、ふたつ先の高級食材店とか、そもそも野菜じゃなくて宝石を買ったりとかしていたはずだ。
……いや、玉ねぎ好きだけどね俺? 家計の味方だし。
野菜をカットし終えると、ちょうどコンロの準備ができたみたいだったので、肉と野菜を焼いていく。もくもくと上がった白い煙の向こうで、つぐみを取り囲んだ学生たちが何かを熱心に話している。
ひとりが言ったことがおかしかったらしく、場が沸いた。つぐみもつられたように微笑む。同世代のやつらといると、つぐみもいつもより年相応で、いい光景だなあって思う。でもそのあとに、ふつうならここからラブとかロマンスとか生まれてもおかしくないのに、先に買われちゃった玉ねぎでごめんなさい、ともちょっとだけ思う。
「ていうか君がツグミのモデルだったんだねー。葉ってそのまんまじゃない」
「あー、まああれはつぐみさんの世界にいる誰かなので、俺でもないというか」
「え、モデルちがうひとなの?」
「いや、俺なんだけど」
鮫島は葉をつぐみのオム・ファタルだと言った。
オム・ファタル。あるいはミューズ。運命、堕落、破滅、創造の源。
つぐみの「花と葉シリーズ」をはじめて見たとき、自分とぜんぜんちがくてびっくりした。つぐみが葉の一部しか描かないせいかもしれないけど、でもそれを差し抜いても、そこにいるのはぜんぜん久瀬葉ではなかった。
葉はこういうものの感想がうまく言語化できないので、えらい先生が書いたらしい漢字いっぱいの美術評をとりあえずいくつか立ち読みしてみたけど、「対象を無機物化する身体表現に逆にストイックさを感じる」とか「花と人間の交接を思わせる表現が時代の精神性を表しており」とか、もっとふつうの言語で喋って!?という言葉の嵐で、余計によくわからなくなってあきらめた。
葉が絵を見たときに感じた気持ちは、ただ、せつない、だった。
でも、その気持ちの解説はどこの評論にも書かれていなかった。
「つぐみさんにはきっと描きたいほかの誰かがいて、それの参考に俺を使ってるだけだと思うよ。ほら、個人でデッサンモデル受ける男ってあんまりいないらしいじゃん」
「それはそうだけど」
「俺と絵のなかのひと、ぜんぜんちがうしね。如月もきづかなかったし」
如月は整った眉をすこし寄せた。
「画家にとってモチーフって代替が利くものじゃない気がするけど」
「――あ、肉焼けてきた。おーい花菱ゼミ生―!」
手伝ってくれる学生もすこしいたけれど、大部分はつぐみと花菱先生とのおしゃべりに花を咲かせている。今日の葉の目的は、つぐみに楽しく学生たちと交流を持ってもらうことなのでかまわないが。
焼けた肉と野菜を紙皿にのせて、手分けして学生に配っていく。ちなみに今日の出資者は花菱先生だ。花菱先生の実家は宮崎で畜産業を営んでいて、つまり良質な宮崎牛が定期的に届く。
ほどよく焼けた宮崎牛と玉ねぎの輪切り、トウモロコシ、トマトをふたつずつ載せたお皿を持って、葉は河川敷を見回した。つぐみはわいわい食べる学生たちからはすこし離れた川べりで、水面を見ていた。
「つぐちゃん、肉もらえた?」
つぐみのとなりにしゃがんで声をかける。一度配られたぶんの肉は食べ終えたらしく、つぐみは空の紙皿を持っていた。声をかけたのが葉だときづくと、ほっとしたように表情がなごむ。
「久瀬くん、ずっとお肉焼いてたね」
「あー、そうかな? 食材が目の前にあるとつい手を出したくなる衝動が……」
はいどーぞ、と持ってきた紙皿をつぐみのほうに差し出す。
「トマト焼いたのすきでしょ、つぐちゃん」
「うん。ありがとう」
つぐみは葉の皿から焼きトマトを取った。
肉と玉ねぎとトウモロコシも半分、つぐみの皿に移す。もとからふたりで食べる用に持ってきたのだ。
「おいしい?」
「うん」
「天気曇りになっちゃったけど、なんとかもちそうだね。晴れたらもっとよかったかもだけど」
「そう?」
つぐみは首を傾げ、渓流に目をやった。
上流のほうで降った雨の名残か、水は澱んでいる。といっても流れはゆるやかだ。つぐみは水に手を入れると、「ここね」と小石のひとつを指した。
「ひとつだけ輝いて見えてきれいだなあって。表面がほかより白いんだよね。粒にガラスみたいなのが混ざってて、ひかりが角に当たると光る。すごいなあって思って見てた」
言われてみると、確かに水中で小石がひとつだけ光って見える。
「それと川って結構、音するね」
「それは雨で増量したせいかも」
「だよね? こんなに音したっけ?って考え込んでた」
「考え込んだんだ?」
「うん」
楽しいのか、つぐみは水中をまだかき回している。
葉にはつぐみの絵の価値はわからない。彼女のファンが手に入れたいと切望して、有名な先生とかが長い美術評を寄せるあの絵のことが、葉にはいまだによくわからない。そこに描かれているのが自分だと言われてもだ。
でも、それでも、つぐみの話を聞くのはすきで、つぐみ自身が語る言葉は平易で、どこにも難解さはなくて、ずっとずっと聞いていられる。小石のひかりが当たったところはきれいだ。葉もそう思う。
肉を食べ終えるとつぐみはすっくと立ちあがり、「いざ」となぜか敵将に挑む武将みたいな顔をして、如月のもとにまっすぐ向かっていった。なぜ。如月による元カノ査定は、初手押し出しみたいなかんじでつぐみが勝利して終わった気になっていたので、葉はびびる。
はらはらと遠目に見守っていると、つぐみが如月に何かを言って声をかけ、如月が缶ビールを持って立ち上がった。ふたりが離れたベンチに座ってしゃべりはじめたので、偵察を続けるべきか後退するべきか迷っていると、「葉くん」と花菱に呼び止められた。
「せっかく来たのに、君のほうはずっと肉焼いてるからさあ」
呆れた風に肩をすくめ、花菱はクーラーボックスをあけた。
「何か飲むかい?」
「あ、ごめんなさい。俺、運転して帰らなくちゃなので」
ノンアルコールのほうのビールをもらって、簡易スツールを出す。
花菱ゼミでは院生のひとりが小型マイクロバスを借りたらしく、花菱先生は朝から悠々とビールをきめている。
「しかしつぐみちゃん、変わったなあ」
如月とつぐみのすがたに目を留めて、花菱がつぶやいた。修羅場勃発中なのかもしれないが、花菱の目には女子同士の交流に映っているようだ。
「葉くんと出会うまえはもっと人形っぽい子だったから。感情がなかなか表に出てこないというか、まああの子の場合は鹿名田の家自体が特殊だし、事件のこともあったしね」
「つぐみさんっていつから絵を描き始めたんですか?」
「んー、八つか九つ……もとは知り合いの医師に相談されて、治療の一環としてはじめたんだ。はじめて会ったときの彼女は完全に心を閉ざしていて、しゃべれるような状態じゃなかったし。一緒に絵を描いて、あの子のすきなこととかきらいなことを知っていったかんじ」
そうそう、と花菱はスマホを操作して画像フォルダを呼び出した。
「このあいだうちの押し入れの掃除をしていて、見つけたんだよ。小学四年生の頃のつぐみちゃんの絵」
「おお、すごいうまい……」
暗い色調の背景に柘榴と蔓性の植物が描かれている。つぐみは超絶技巧の植物画が持ち味らしいが、確かにこの時点でふつうの小学生の絵ではない、というのが葉にもわかる。一分の隙もなく執拗に緻密に描かれた植物たち。あいまいさをゆるさない、つぐみの世界。
「これくらいの歳の子どもだと、ふつう動物とか友だちや家族を描いたりするもんなんだけど、つぐみちゃんの場合ははじめから植物だったなあ。というか、植物だけ。生きものが登場したのは葉くんがはじめてだよ」
「そういえば、前にもそんなこと言ってましたね……」
「あの子はたぶん、人間がいやなんだと思う」
きらい、でも、苦手、でもなく「いや」。
でもなんだかその言葉はつぐみをたとえるときにやけにしっくりとくる。
性交渉は契約外。つぐみが結婚するにあたって、最初に提示した条件を思い出す。いや、男の葉とちがってつぐみはどうしたって身体構造上受け入れる側になるし、人間がいやじゃなくても、嫌で当たり前だと思うが。
「つぐみちゃんに好きな『ひと』ができて、僕はうれしいよ」
「あのさ、花菱せんせー」
そういえば、このひとがいたじゃないか、と葉は思い出す。
難しい美術評を漢字検索をかけながらがんばって読まなくたって、つぐみをずっと見守り、師となり、画家として一歩を踏み出せるよう背を押した。花菱なら、つぐみが描く絵のことも、もっとわかっているだろう。
「つぐちゃんの『花と葉シリーズ』って、先生的にどんなかんじなの?」
「どんなかんじとは?」
「俺、えらい先生の書いた文章とか読んでみたけど、よくわからなかった。あれはどんなところがすごいの?」
「んー、まあまずは色彩感覚だよね。あの子の絵って、必ずしも色彩学におけるセオリーを守ってないんだけど、ふしぎと同居させるというか、あるいはひきたたせあうというか。色に対する感度が精緻なんだよね。それと彼女の代名詞のようだけど、細かい刺繍のような超絶技巧。もちろん技術がすごいんだけど、モチーフに対する観察眼と忍耐強さがほかのひとより優れているんだと思うよ」
「よく見ているし、我慢強いってことかー」
さすが大学で教鞭をとる花菱の言葉はわかりやすい。
そのうえで、と花菱は顎をさするようにした。
「僕個人の感想を言うと、あれは宗教画かな」
「しゅうきょうが?」
顔をしかめてから、あ、クリスマスのとき出てくる聖母子像とか、そういうやつかと思い直す。つぐみの絵とあまり似ていない気がするが。
「あの子は自分の神さまを描いているんだと思うよ」
さすがつぐみ。急にスケールがスぺクタクルになってわけがわからなくなった。
神ってなんだ。キリストとか大仏とかか。
え、いた? いたっけ? キリストとか大仏。いたっけ、絵の中に?
危うくブラックホールに投げ出されそうになったので、そのまえに葉は軌道修正をした。そもそも葉が知りたかったのは、つぐみの絵に何が描かれているかではない。
「あれってつぐちゃんは描いてて楽しい絵なのかなあ?」
「うん?」
「いや、俺ははじめて見たとき、胸がぎゅーっとしちゃったから。こんな気持ちでずっと描いてたらしんどくない? 俺はべつに座ってるだけだからいいけど、つぐちゃんは絵を描いているとき何を考えているんだろう……。でも、何読んでもわからないんだよね」
「彼らが見ているのは、彼女の絵のほうだからね」
花菱は苦笑した。
「鹿名田つぐみのことは、鹿名田つぐみにしかわからないよ。あるいは本人にも」
「そうだよね……。でもつぐみさん、素直じゃないからさあ」
「君は彼女の絵を見たとき、胸が痛くなったんだな」
「うん、泣きたくなったよ」
河原ではゼミ生たちがコンロの片づけをはじめている。
なんとか天気がもつかと思っていたが、午後三時過ぎから雨の予報らしい。川近くは増水すると危ないので、周りも早めに撤収をはじめたようだ。
話し込んでいるうちにすっかり炭酸が抜けてぬるくなったノンアルコールビールを流し込み、葉は簡易スツールを倒す。
きづけば、ベンチにいたはずのつぐみと如月も話を終えていた。
「えーと、楽しめた?」
修羅場が勃発していたかわからず、ひとりベンチに座っていたつぐみのもとに向かっておそるおそるおうかがいを立てる。俯きがちだったつぐみからは、「うん」としっかりした答えが返った。なら、よかった。つぐみが一日楽しく過ごせたなら、葉も来た甲斐があったというものだ。
「……負けたけど」
「え、なにに?」
「久瀬くんには言わない」
唇を引き結ぶと、つぐみは心なしかきりっとした顔で立ち上がった。
それがいまだに敵将に挑む武将みたいで、葉は修羅場勃発したのかしなかったのか、結局さっぱりわからない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます