五 旦那さんとはじめてのキス (1)

 契約には履行期限なるものがあるらしい。

 つぐみとようが結んだ「結婚契約書」なるものにも各条項に履行期限が定められていて、


「第五条(家庭庶務全般) 

 乙(=葉)は甲(=つぐみ)が求める家庭庶務全般に対し、可及的速やかに履行する、もしくは具体的な代替案を提示するよう努めること。なお、諸事情により履行不能の場合は、理由を明示したうえ、三十日以内に甲に申し出ること。」


 と書いてある。

 つまり今回の件にあてはめると、葉はつぐみが求める「完成祝いとしてのキス」について、できるかぎりすばやく誠意をもって履行する、もしくはキス以外のお祝い案を提示するよう努力する。なお、本当にしてよいのかわからず悶々としている場合は、それをつぐみにわかりやすく説明したうえで「できません」と三十日以内に申し出なければならない。 

 どうしよう……とカレンダーを見て、葉は嘆息する。

 七月の外出からもうすぐ三十日が経つ。国語が苦手な葉でも「可及的速やかに」の期間をだいぶ過ぎていることがわかる。といっても、キスに代わるお祝い案も考えられていない。いったいなんと言って、「キスの代わりに肩もみはいかがですか」などと切り出せばよいのか。つぐみの反応がこわい。


「あのさ、如月きさらぎ


 工芸科の制作室の床にワックスがけをしながら、葉は学会に出す論文に赤字を入れている如月に声をかけた。窓の外ではアブラゼミが鳴いていて、制作室とドアでつながった講師室では扇風機が回っている。生徒がいない夏休み期間を狙って、一週間の電気工事が入っているのだ。当然、クーラーは効かない。


「たとえばのはなしだよ? キスしてって言われたらどこにする?」

「口以外に場所ある?」

「ほ、ほっぺたとか……?」

「いま挨拶の話だった? 相手、欧米人?」

「……ですよね」


 うーん、とワイパーに顎をのせて考え込み、あっあんまり置くと乾くや、ときづいて、またまっすぐワイパーを動かす。


「なに? 誰かにキスしてって迫られたの? 不倫?」

「ちがうよ、奥さんにだよ」

「すればいいじゃない?」

「い、いいのかなあ……」


 性交渉は契約外で、と最初に言ってきたのはつぐみである。もちろんキスは厳密には性交渉ではないからアウトではない。えろいやつだったらグレーかもだけど……。

 でも、つぐみの契約夫の分際でしちゃっていいのだろうか。のちのちつぐみにほんとうにすきな男ができたときに、契約夫なんかとうっかりキスしてしまったと後悔するのではないだろうか。そしてどうして止めなかったんだと葉がなじられるのでは? 

 もしかしたらつぐみのなかでは、キスは友愛を示す挨拶のようなものなのかもしれないし、葉が知らないだけで花菱はなびし先生とか鮫島さめじまとかフラミンゴとはもうしているのかもしれないけど。


(なんかそれもやだな……)


 そもそも、なぜキスをするとかしないとかいう話になったのだったか。

 途中までは楽しく買いものをしていたと思うし、お昼にランチボックスを買ったときはつぐみもまだ機嫌がよかった。それが途中から、如月と葉が過去につきあっていたとかそういう話題になり……つぐみは年上がすきらしい(言い切ってた)……いつの間にか「キスして」という話になっていた。この間の流れが謎だ。タイムワープした?と葉は首をひねる。


「如月、バーベキューでつぐちゃんとなに話したの?」


 思いついて尋ねると、「なにもー?」と如月は手の中で赤ペンをくるんと回した。すこし伸びたショートボブは今日はゴムとピンでまとめてある。細身のスキニーにおおぶりのシャツを重ねていて、耳につけているのは、ちいさな銀のキューブが連なるピアスだ。たぶん自作だろう。

 先月、つぐみがやたらと如月のなまえを出していたから、バーベキューのときに悪知恵でも吹き込まれたのかと思ったのだけど、如月は意地悪くて教えてくれない。ベンチに並んでしゃべっていて、「なにもない」はないだろう。


「葉くん、つぐみさんから何か訊かれた?」

「……君とつきあっていたのかって」

「おお」


 意外そうに声を漏らし、如月はふふっと咽喉を鳴らした。


「え、なに?」

「意外と逃げない子だなと。――それで? 君はなんて答えたの?」

「いいですか如月。俺は嘘が顔に出やすいタイプなんです。で、つぐみさんは嘘を見抜くのがなぜかやたらうまいんです。……つく勇気ある?」


 ないねえ、と如月はあっけらかんとわらった。


「ていうか君って、嘘をつくと罪悪感ですぐやっぱりごめんって白状するタイプだと思うよ」

「それは、うん。自分でもそう思う……」


 如月と葉がつきあっていたのは、美大で施設管理スタッフのバイトをはじめてからだから、三年前から一年ほどだ。当時、如月は講師の仕事を終えたあと、制作室を借りて自身の作品制作をしており、葉が閉館の見回りをしていると、「あと十分」とか「あと五分」とお願いされることが多かった。細身な如月が武骨な工具を使っているのがおもしろくて、時には三十分くらい融通をきかせて後ろで眺めていた。葉はひとが何かの作業に没頭しているのを見るのがすきだ。それで如月がお礼に居酒屋でおごってくれたりしているうちに、なんとなくそうなったのだ。

 過去につきあったひとたちを思い出すと、なんとなくそうなった、が多い。なんとなくそうなって、自然とそういうことをして、ゆるゆる一緒にいるものの、そのうちまあだいたい相手側に「そろそろおしまい」というかんじで放流される。相手の女の子はみんな葉よりしっかりしているので、どこかの段階できちんと我に返り、将来のことを考えて、関係を整理するのだろう。

 そういう意味で、つぐみは葉の人生で出会った女の子たちのなかで異彩を放っている。

 つぐみとのあいだで「なんとなくそうなった」ことはひとつもない。彼女はいつも葉に対して「あれがしたい」と提示する。そしてそのための対価を払う。ひとつのあやふやさが入る余地もなく、あいまいさもグレーもゆるさない。彼女だったら、葉を捨てるときもきっぱり別れの言葉を突きつけるだろう。いや実際、自分たちの場合は離婚届をお役所に届け出ないと別れられないのだが。


「そういえば如月さ、別れたとき言ってたすきなひととはうまくいったの?」


 ワックスがけを再開しつつ、葉は尋ねた。

 二年前、如月と別れたときに言われた理由が「ほかにすきなひとができた」だった。てっきり葉と別れて、そのひととくっつくのかと思っていたのだけど、いまだに如月には男の気配がない。


「あーあれね」


 如月は頬にかかった髪を耳にかけた。


「いないよ」

「え?」

「すきなひとはいない。葉くんとはそろそろ別れたほうがいいと思ったから別れたの。でも、それをどう説明したらよいか、あのときは自分でもわからなかったから」

「あ、そうなんだ……」


 なにも考えずに訊いたぶん、思いのほか処理にこまるものが出てきてたじろぐ。

 別れたとき、葉と如月のあいだに明確ないさかいは見当たらなかった。喧嘩がないとは言わないけれど、葉の側からするとほどよい温度で続いていた気がしたのに、突然別れを告げられたかんじだったのだ。そのときは、すきなひとができたならまあしかたないか、と思って納得した。でも如月いわく、すきなひとはいなかったのだという。つまり如月は葉を慮ってそう言ってくれた、ということだ。


「君はやさしくてひとを甘やかすのがうまくて空気も読めて――……でも実はとってもドライなひとなんだよ」


 原稿に赤を入れながら、如月は言った。


「わたしがすきなひとができたって言ったときも、びっくりはしてたけど、そっかーってかんじだったじゃない? 誰かに対して荒れくるうような感情とか、正しさを捻じ曲げてでも手に入れたいとか、そういう衝動、君は抱いたことないでしょう」


 葉の脳裏にぴったりと閉じられたアパートのドアがよぎった。

 ひらひらと一万円札が舞っている。ドアの頑強さに対して嘘のような軽さで。


 ――おねがい。


 と彼女は言った。


 ――おねがい久瀬くん。お金あげるからわたしと結婚して。


「……ないね」

「そこは嘘でもちがうっていいなよ。既婚者」


 呆れた声を出して、如月が椅子ごとこちらを振り返る。

 如月の視線から逃げるように葉は半開きの窓を全開にした。ワックスがけを終えた部屋はワックス臭に満ちている。「くさっ」とあらためて感じたようすで如月が顔をしかめた。


「あ、そういえば俺、来週夏休みもらうから」


 夏休み期間、施設管理スタッフは交代で合計三日の夏季休暇が取れることになっている。葉は来週、もともとの休日にくっつけて、五日間の連続休暇を取る予定だ。


「つぐみさんとどこか行くの?」

「どこというか……奥さんの実家で法事があるんだよね。おじいちゃんの一周忌」

「実家ってことは、鹿名田かなだ家?」

「うん、そう」


 鹿名田家は千葉の九十九里浜にある、明治時代から続く大地主の名家だ。

 つぐみは鹿名田のなかでも本家の長女として生まれたらしい。


「でも、つぐみさんって君と結婚するとき、実家とは絶縁したんじゃなかったっけ? 花菱先生からちらっと聞いたよ」

「そうなんだけど、おじいちゃんとは唯一仲良かったみたいなんだよね、つぐちゃん。お墓でおじいちゃんに報告したいことがあるんだって」


 その電話はふた月ほどまえに家電にかかってきた。

「はーい、鹿名田です」といつもの調子で葉が受話器をとると、数秒ほど間があいたあと、「つぐみに代わっていただけますか」と固い女性の声が言った。


 ――ええと、どちらさまでしょうか……?

 ――鹿名田鷺子さぎこです。それでわかります。


 あとで知ったが、それはつぐみの祖母であったらしい。

 離れの制作室にいたつぐみに伝えると、「ああ」となまえ自体には驚きもせず顎を引いた。うれしそうではないし、かといって嫌そうでもない。ただ感情が薄い。子機を耳にあてたつぐみは言葉少なに「はい」とか「わかりました」とか応えたあと、「では、そのとき権利書を」と言って電話を切った。


 ――久瀬くぜくん。


 子機を葉に返しながら、つぐみはぽつりと言った。


 ――八月におじいさまの一周忌があるの。君も来てくれる? お盆の頃なんだけど。


 葉の予定はつぐみを第一にいつだってあけられる。ただ、つぐみから家族の話を聞いたことがほとんどなかったので、ちょっと驚きはした。


(おじいちゃん、亡くなっていたのか……)


 愛人を囲うためにこの家を建て、彼女を喪ったあとはつぐみにこの家を譲ったひとだ。葉がつぐみと結婚したのは去年の十月なので知りようもない。ただ、デッサンモデルとしてつぐみの家に通っていたときも、つぐみはそんなそぶりを見せなかった気がする。……いや、ちがう。結婚直前の夏は――つぐみからの連絡が急に途絶えて、しばらく会っていなかった。このままこの子と会うことはもうないのかもと思っていた夏だった。


(そうか、あのときおじいちゃんが亡くなってたのか)


 ――これで最後。三回忌はいかない。だから。


 訊いてもいないのに、つぐみはきっぱりと言った。

 何回忌でも、行きたいなら行けばいいし、行きたくないなら行かなければいい。葉はそう思ったけど、そもそも自分は両親に対して何回忌もやったことがないので、法事の重要さ自体があまりわかっていない。なぜつぐみが張り詰めた顔で唇を引き結んでいるのか、彼女にとって鹿名田がどんな家なのかも。

 なにしろ葉にとってはこれがはじめての鹿名田家訪問なのである。

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