別れ
「うおっ!」
ニンジンを切ろうとして危うく指先を刻みかけ、旭はキッチンで一人唸り声をあげた。
「ただいま……あれっ!?」
パートから帰ってきてキッチンを覗いた母親が、エプロン姿で包丁を握る旭の姿を見るなりすっとんきょうな声をあげた。
「なに、旭!? 何やってるの!?」
「……カレー作ってる」
「なんで!!?」
「いやほら、母さん最近仕事や家事やいろいろでちょっと疲れてるみたいだなと……まあそんな感じで」
なんとなく俯いてボソボソ言う息子に、母親はパッと嬉しそうに微笑んだ。
「え、それほんと!? 旭、そんなこと思ってくれたの? じゃ今日はパート行って正解だったなあ。朝ちょっと頭痛が酷くてお休みもらおうか悩んだんだけど、急に穴開けちゃうと迷惑かかるしね。母さん家にいたら、旭がこうやって晩ご飯作ってくれるとか百パーなかっただろうからねー」
「え、百パーってひどくね?」
「あはは、ごめん! でも、本当に嬉しい。
こういうことがあると、また頑張ろうって思える。ありがとう、旭」
「大袈裟だって。ただのカレーだし」
まな板に置き直したニンジンをトンと一つ切り、旭は言葉を続ける。
「今日は、後片付けも全部俺やるから。母さん、ゆっくり風呂入ったりしてのんびり休んでてよ。風呂、もう沸かしてある」
「……旭。
なんかあった?」
急に真面目な声になった母の問いかけに、旭は内心ぎくりとして母親を見つめ返した。
「——いや、何にもないって」
「ふうん……
ならいいけど。
じゃ、お言葉に甘えてのんびりさせてもらおっかな」
母は再び柔らかい笑みを浮かべて自室へ入っていった。
その目尻の皺が、旭の目の中にくっきりと残った。
視界が、不意にじわりと滲んだ。
母のあの笑顔を見られるのも、今日で最後だ。
彼女が、自分を息子として愛おしんでくれるのは、あと数時間だ。
どうしてもっと早く、こういうことができなかったんだろう。
母が疲れた顔をしているのには、以前から気づいていたのに。
どれだけ後悔しても、もう何も取り戻すことはできないけれど。
それでも、明日からは、母の体の不調は改善していくはずだ。雨の神の加護を受け、これからはきっと大きな病などもせず元気に暮らしていける。
母には、一つ幸せを残していける。
旭は無理やり大きく肺に息を吸い込み、溢れかけた涙を何とか引っ込めた。
指に小さな切り傷を作りながらもカレーが完成し、サラダ用のレタスを洗っていると、妹が慌しく帰宅した。
「ただいまー。来週隣の中学と練習試合だからって顧問しごきすぎ。エースアタッカーは辛い。あーお腹空いた、今日はカレーかー……って、は!?」
キッチンに立つ旭の姿に、母同様妹も顔を強張らせた。
「なんだよ?」
「いやそれは驚くでしょ、夕飯まで大抵部屋から出てこない兄ちゃんが急にエプロンして料理って……明日雪降るとか? 大雨はちょいちょい降らしてるけどねーあはは」
「あーー、うるさい! ほのかも早く着替えて支度手伝えよ、たまには母さんにのんびりしてもらいたいと思ってんだからさ」
旭の言葉に、ほのかは一歩後退して微妙な目つきで兄を見た。
「うあ、不気味だ……これ絶対なんかあったやつじゃん。あ、もしかして例の柚季ちゃんにこっぴどくフラれて平常心を失ってるとか?」
「つまんねー話はいいから!!」
「はいはい」
そんな会話をしつつ、ほのかはクスクスと楽しそうな顔をする。
妹とこんなやりとりをするのも、思えば久しぶりだ。
いつの間にか、家族のいろいろなど視野から適当に追い出して、自分だけの世界に浸かる日々が当たり前になっていた。
トマトを洗い、不揃いかつ不格好なくし形に切る。料理の手を動かしながら、旭はこれまで無縁だった思いを取り留めなく幾つも胸に浮かべた。
ダイニングテーブルに概ね夕食の支度が整った頃、父親が帰宅した。
「ただいま……あれ、どうした? 今日はなんの日だ? 何かの記念日とかか? それとも母さんが体調不良か!?」
旭とほのかのエプロン姿に父親も目を丸くし、むしろ微妙に動揺気味だ。兄妹は顔を見合わせ、なんとなく苦笑いを浮かべた。
「ううん、別に何もないよ。兄ちゃんが、たまには母さんゆっくりさせてあげようって提案したんだ。私も、兄ちゃんがこんなこと言い出すなんて驚いたよ。……でも、こういうの、必要だね」
ほのかが、いつになく真面目な顔でそんなことを言う。
その言葉に、父も淡く微笑んだ。
「……そっか。
いつもいつもいい子でいる必要なんてないから、時にはそういう気持ちになってくれるだけで、親ってのは嬉しいもんだよ。
じゃ、父さんも急いで着替えてこよう。なんでもない日だけど、なんかのお祝いみたいな夕食だな!」
「そろそろ母さんにも声かけよっか。さっき部屋でお気に入りのCD久しぶりに聴いてるって、すごく嬉しそうな顔してたよ」
ほのかの明るい言葉に、旭は黙って頷く。
最近はバラバラ気味だった家族の空気が、久しぶりに柔らかく一つになっている。
その空気は、驚くほど温かくて、こんなにもいい匂いがするものだったんだ。
最後の夜に、旭は初めてそんなことに気がついた。
夕食後の皿を洗う旭の横に、すいとほのかが立った。
「ん、どうした?」
「これ」
妹は、ぞんざいに小さな箱を突き出した。タオルで手を拭きながら、旭はそれを受け取る。
包みを開き、箱を開けると、中には細やかに仕上げられた寄木細工の手鏡が入っていた。
「うわ、綺麗だな、これ……」
「この前の修学旅行のお土産。こんなふうに兄ちゃんと話したりする時間も最近なかったし、なんか渡すタイミング逃してた」
「……」
「ほら、兄ちゃんしょっちゅう鏡の前で前髪気にしてるじゃん? 今日はうまくいっただの失敗しただの。それあればどこでも前髪チェックできるでしょ、私的には兄ちゃんの髪とかほんとどうでもいーんだけどさ」
目の奥から、再びじわっと熱いものが込み上げる。
ダメだ。堪えろ、俺。
必死に唇を噛んで、旭は突き上がってくる波を胸へ押し戻した。
「——ありがとな、ほのか。
大事にする」
「ねえ、ほんと今日の兄ちゃんキモい」
「キモいとか言うな!!」
いつものように笑い合いながら、旭は丸く滑らかな手鏡の温もりを掌に何度も確かめた。
別れの言葉の一つも伝えられない辛さが、ギリギリと胸を掻き毟る。
いくら嘆いてもどうにもならないことを告げて、無駄に家族を悲しませる必要なんてない。
家族の明るい声と、笑い合う顔。今夜の記憶を自分の宝物にできれば、それだけでいい。
みんな、どうか、ずっと元気で。
心の中でそう繰り返し、旭は自室に入ると静かにドアを閉めた。
*
深夜、23時半。
大きいリュックを部屋の真ん中に据え、旭は自分の持つべき物を黙々と詰めていく。
あっちで着るものって、やっぱり瑞穂みたいな和装なのか? 多分そうだろう。しかし朝から晩まで着慣れない装いで耐える自信はない。とりあえず愛用のルームウェアであるジャージは必携だ。それから使い慣れたインナー類。急に
「準備は順調か?」
艶やかな低音に、はっと声の方を振り返る。
いつの間にか雨の神がベランダに降臨し、鍵のかかっていたはずの窓を勝手に開けて窓枠に頬杖をついている。
「なっ、なんだよ急にっ!? なんで音も何もしないんだよ、まじびびった!! しかもまだ時間前じゃんか!?」
「そうやってそなたが困っておるだろうと思って参ったのではないか」
そう言いつつ、瑞穂はすっと人差し指で一の文字を描くように動かす。その動きに合わせて、やはり施錠しているはずのサッシが音もなく開いた。ベランダで雪駄を脱ぎ、彼が一歩部屋に踏み入ると同時に、清澄な水の気配が部屋を満たした。
「だから! 勝手に鍵開けるなって!……まあ、もう別にいいけど」
「あちらの世には、そなたの望むものは全てある。準備など、難しく考えることはないのだ」
「そんなこと言われても……」
「——辛い思いをさせて、済まぬ」
不意に、瑞穂が旭をまっすぐに見つめた。
穏やかな湖のようなその瞳の色に、ざわざわと毛羽立った感情が不思議に鎮まっていく。
「あんたのせいじゃないんだろ。
6時間で住み慣れた世界と別れる決意しろって言われて、平気でいられる人間なんていないしな」
「だが、思ったより清々しい表情をしておる」
「……瑞穂にそう見えるなら、ちゃんと決心できたってことだろ。カレーも結構美味くできたし」
「……そうか」
「まあ、雨の神様がなんでもあるって言うんなら、俺もあれこれ持ち物悩まなくていいってことか。瑞穂の言葉、信じるからな」
「——そなたからそういう言葉を聞けるのが、私にとって何よりの幸せだ」
瑞穂は嬉しそうに微笑んで、旭に呟く。
「は? 何よりの幸せって……今の言葉のどこにそんな感動ポイントあったっけ?」
「私を信じてくれるという、その言葉だ」
「……」
「私を、信じてくれるか。旭」
「……ってか、俺はこの先あんた以外、誰を、何を信じていいのかわからない。
何があっても、あんたのことだけは信じてていいんだろ、瑞穂?」
気丈に振る舞いながらも、どこか縋るような色を帯びた旭の眼差しに、瑞穂は一瞬ぐっと息を詰まらせた。
だが、そんな気配を一瞬で消し去り、雨の神は眩しい笑みを輝かせた。
「当然だ。そなたは何も心配せず私に全てを委ねよ」
「今の言葉、忘れるなよな」
ふっと小さな笑いを漏らす旭の横顔を、深く澄んだ水の眼差しが包み込んだ。
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