神の世へ

 午前0時の針がカチリと動いた。

 同時に、窓の外がほのかに明るくなった。

「迎えが来た」

 瑞穂が静かに立ち上がる。

 ベランダに出た瑞穂は、何語かわからない言葉を使って何やら呼びかけているようだ。

 旭もベランダに出て、仰天した。夕方迎えに来た美しい龍がベランダの手すりへ太い首を伸ばし、主に頬擦りせんとばかりに巨大な顔を寄せている。龍の体を覆う鱗一枚一枚が仄かに発光しているようで、その長大な身体が夜の闇にぼうっと浮かび上がっていた。

「…………うわ……」

「怖がらなくともよい。忠実な私の龍だ。主人の言葉もちゃんと理解する。側に来てみよ」

 龍の口元から伸びる長い髭を撫でながら、瑞穂は旭を振り返った。旭は恐々瑞穂の横に立つ。

「この龍は、がいと申す」

「ガイ……」

「数の単位だ。兆の先にけい、垓と続く、その垓だ。10の20乗にあたる」

「10の20乗……」

 何ともスケールの大きい名だが、いかにもこの龍に相応しい。

 瑞穂はその鼻先を優しく撫でながら、垓に話しかける。

「垓よ、この者は旭と申す。これから私の側で過ごすことになる。私同様、主と思って仕えよ」

 垓の巨大な目が、ギロリとこちらを見た。

 金色の虹彩の奥にある、濃い琥珀色の三日月のような瞳孔に捉えられ、思わず身体が竦む。

 だが、次の瞬間、龍は猫が甘えるのとまるで同じように喉からグルグルと優しい音を出した。

「えっ……な、なんか可愛いな……もしかして、人懐こいとか?」

「はは、人懐こくはない。警戒心が強く、主の危機の際や敵に対してはこの上なく攻撃的だ。だがとても賢く、主のみならず主にとって大切な存在だと理解すれば身をもって守ってくれる。そなたのこともしっかり理解したようだから、安心せよ」

 その言葉に、旭も恐る恐る手を伸ばし、垓のゴツゴツとした鼻の頭をそっと撫でた。

「垓、よろしくな」

 垓は嬉しそうに再び喉をグルグル言わせて旭を見た。


 ——きっと、悪いことばかりじゃない。

 龍のどこか愛らしい仕草に、旭の心にも微かな温もりが生まれる。


「……今、荷物持ってくるから」

 瑞穂に催促させたくなくて、旭は急いで部屋の中のリュックを取りに戻った。



「では、参ろう」

 瑞穂は夕刻と同様、軽々と空中に飛び上がると垓の額にふわりと飛び乗った。太い角に片手をかけ、彼は旭へすいと手を差し出す。

「え、大丈夫だから、自分で上がれるし」

「そなたは大丈夫でも、垓が嫌がるのでな。自分の鼻や額をしたたか踏みつけられるのは好きではないようだ」

「……」

 ドギマギと差し出した旭の手を取ると、瑞穂はまるで空を煽ぐようにその腕を上へと持ち上げた。

 旭の身体も重力から解き放たれたかのように、ふわっと空中へ浮き上がる。

「ひゃっ!!!」

「はは、大丈夫だ。手を離さずに」

 手を引かれ、まるで綿を踏むようにふわふわと垓の鼻筋を歩き、両角の間の瑞穂の隣にストンと収まった。

「よくできた」

 子供のように褒められ、思わず照れそうになる。気恥ずかしさを誤魔化しついでに旭は垓に話しかけた。

「こんな大きいリュック乗せて、重いだろ。垓、ごめんな」

 任せろ、とでも言うように、垓が小さく鼻を鳴らした。


「では垓、頼むぞ」

 瑞穂の言葉に応え、垓は夜空へ向けて首を大きくもたげた。

 同時に、それまで静かだった真夜中の空気が凄まじい勢いで動き出した。

 ぐわっと一瞬大きく身体が後ろへ引っ張られ、龍は凄まじい勢いで上昇する。旭は思わず瑞穂の袖を力一杯掴んだ。

「待って待って、怖い!!!」

「安心せよ。垓は私たちを守る結界を体表に張り巡らせておる。外の空気の流れも星の引力も全て遮断しているから、呼吸もできるし落下もしない」

「……あ、ほんとだ……」

「ここから見下ろす夜の風景は絶景ぞ」

 言われるままに下を見下ろせば、家々の屋根が見る間に小さく遠ざかっていく。やがて、広々とした地表を飾るように煌く夜の街が眼下に広がった。

 七色に輝く龍が夜空を飛んだりしては、それを目撃した人間たちは大騒ぎするはずだが、恐らく垓はさっきのように人からは見えないよう姿を消しているのだろう。

「ここから垓の速度が上がる。外の景色も見えなくなるが、到着まではそう時間はかからぬ」

 やがて、周囲の景色は夜の闇から白く輝く空間へと移り変わった。まるで新幹線の車窓から外を見るような感覚で、旭はその白い光をぼんやりと眺めた。


「——あちらでは、そなたのことをいろいろ言う者もいるだろう。神の世には曲者も多いからな。

 だが、そのようなつまらぬ言動には取り合わずにいてほしい」

 旭の横で、不意に瑞穂が呟くように口を開いた。

 その声の調子がこれまでと違う気がして、旭は隣の端整な横顔を見つめた。

「私の言っていることが、わかるか?」

 旭は黙って頷く。

 自分が初穂の遺言を叶える人間として神の世へ行くいう段階で、既に不穏な予感は充分すぎるほど感じている。不安がったり嘆いたりしたところで、自分自身が消耗するだけだ。今はただ彼の言葉に従う以外にない。


「あちらでは、私の従者がそなたの日々の世話をすることになっておる。からすと申す男だ」

「鴉……」

「文武共に優れた信頼を置ける者ゆえ、なんなりと頼るとよい。

 ——もし、どうしても私を信じられぬ時には、鴉を信じよ」


「え?」

 今聞いた言葉の意味がよくわからず、旭は小さく問い返したが、瑞穂はただ静かに前を向いたままだった。







「旭」

 優しく肩を揺すられ、旭ははっと目を覚ました。

 いつの間にか熟睡してしまったようだ。ぼやけた目をゴシゴシと擦る。

 次第にはっきりしてきた視界には、想像もしていなかった風景が映った。

 周囲は淡い靄に包まれ、視界はあまり良いとは言えないが、垓はどうやら高く聳え立つ城の周囲を緩やかに飛んでいるようだ。

 純白の城壁に、漆黒の瓦。艶やかな朱塗りの欄干。まるで幻のように美しい城が、靄の中に静かに佇んでいた。

「垓、天守へ頼む」

 瑞穂の指示で、垓は城郭の最上階付近を目指して緩やかに上昇する。上へ登るに従い靄は晴れ、明るい朝の陽射しがキラキラと城の屋根瓦を輝かせていた。


 最上階の欄干へしなやかな身体を寄せると、垓はふわふわと空中へ静止したまま、長い首をその回廊へと差し入れた。

 瑞穂が垓の額から回廊の床へ降り立ち、旭は瑞穂の手を借りてそれに続く。二人が降りたことを確認すると、垓は安心したかのように鼻からふうっと大きく息を吐き出した。その鼻と首筋を、瑞穂は労うように優しく撫でる。

「垓、ご苦労だった。ゆっくり休むと良い」

 その言葉にグルル、と小さく喉を鳴らすと、垓は美しく身をくねらせて上空高く飛び去った。

 と同時に、背後から凛と引き締まった声が響いた。

「お帰りなさいませ。旦那様」

 振り向くと、そこには見事な黒の羽織と袴をつけた男が床にひたと手をつき、城の主人に向けて恭しく頭を下げている。

「戻ったぞ、鴉。顔をあげよ」

 その言葉に、男は静かに顔を上げる。

 黒く潤った瞳と、柳の葉のような涼しい目元。後ろでポニーテールのようにひとつに束ねた黒髪も艶やかに美しい、凛々しい青年だ。

「初穂の遺言に則り、雨宮家より神の世へ参った者だ。旭と申す。これより主人同様に忠実に仕えよ」

「……あ、雨宮旭と申します。よ、よろしくお願いします」

 ドギマギと挨拶する旭の様子を楽しげに見つめるようにしてから、鴉は再び床に指をついて深く頭を下げた。

「ようこそお越しくださいました、旭様。鴉と申します。これから旭様の身の回りのお世話をさせていただきます。どうぞ何なりとお申し付けくださいませ」

 鴉は、旭を真っ直ぐに見上げて清々しい笑みを浮かべた。


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