決心

「——決心はつきそうか」

 青ざめた旭をじっと見つめ、瑞穂が静かに問いかける。


「……そんな話、急に聞かされても……

 あんたの言う『神の世』へついていくってことは、俺はもうこっちの世界には存在できなくなる、って意味だろ?

 俺のここでの生活は、どうなるんだよ? 家族や友達や、学校や……」

「——そなたが神の世へ発った後は、こちらの世界の者たちからそなたの記憶は全て消えることになる。

 家族も、友達も、知人も全て、そなたが元から存在しなかったかのようにこれまでの暮らしを続けていく。そなたのこの部屋も、最初から誰も使っていない物置部屋同然に、家族は何の違和感を感じることもないだろう。

 つまり、そなたが我々の世へ旅立っても、そなたの不在を悲しむものはこちらの世には一人もいない。その点は案ずるな」


「——……そ、そんな……

 待ってくれ、例えこっちの世界がそうでも、俺の気持ちは? 俺の孤独や悲しさなんか、どうだっていいのかよ!? 

 父さんも母さんも、妹も……友達もみんな俺を忘れて。それって、どんなに辛い思いをしても俺が戻る場所はなくなるって、そういう意味だよな?

 俺はあんたらの世界で他の神やらに冷たくされながら、ただあんた一人に守られて寂しく暮らせって、つまりそういうことかよ!?」


「——そういうことだ」

 一切揺るがない声で、瑞穂がそう答える。


 ——ああ。

 こいつは、やっぱり「神」なんだ。

 血も涙もない、無慈悲な存在。

 目の前にある現実を淡々と突きつけ、有無を言わさず呑み込ませる、残酷な神。


「それから——これも、そなたに言っておかなければならない」

 瑞穂のひんやりと静かな声は続く。


「旭、よく聞いて欲しい。

 ——初穂の遺言には、強力な『縛り』がかかっているのだ」


「……『縛り』?」


「そう。

 つまり、そなたがこの契約を守らねば、そなたの家族や知人に不幸や災難が降りかかる」


「——……」


「現に、そなたの母に、最近体調が思わしくない様子があろう?」


「……母さんの体調……

 そういえば……最近少し目眩がするとか、頭痛がひどいとか……歳のせいね、なんて言って笑ってるけど……」


「このままでは、それらはやがて重い病に転じることになる」


「…………

 な、なんだよそれ……そんな非科学的な話、ありえねえだろ……

 それなら今すぐ病院行って、検査して、必要なら手術でも何でもすればいい。そんな迷信めいたことで不安がらなくたって、今の医療なら——」

「そういう話ではないのだ、旭」

 瑞穂はぐいと膝を前に進めると旭の肩を掴み、底のない湖のような瞳で旭を見据える。

 その瞳が発する力に、旭の身体は固く抑え込まれた。


「この契約には、もう猶予がない。召し上げるべき者が十七歳までは待つ、というその上限が来ている。さよが人柱になった歳も十七だったからな。

 そなたは、つい先日、十七歳の誕生日を迎えたであろう。ここでそなたが契約に頷かなければ、初穂のかけた『縛り』が効力を発し始めるのだ。

 縛りの力は、理屈抜きの運命のようなものだ。何をどうやっても、避けることはできない」


 旭は身動きが取れないまま、瑞穂の瞳を見つめ返した。


 硬直した指の先が氷のように冷え、小さく震える。


「…………俺が、頷けば……

 俺があんたに頷けば、母さんの体調は回復するのか」


「少しずつだが、確実に回復に向かう。

 母だけではない。そなたがこの契約に従うならば、そなたの一族全員が今後末長く我々の加護を受けるだろう」


 ——そういうことに、なってるのか。

 やっぱり、俺もどうやら「人柱」ってことらしい。


 太く冷たい鎖で雁字搦めにされるような恐怖と諦めが、同時に旭の感情を覆っていく。

 

 思わず、目の奥からじわりと熱いものが突き上げる。

 みっともないところを見られたくなくて、旭は思わずぐっと俯いた。


 そんな旭を、ふわりと清々しい香りが取り巻いた。

 小さく顔を上げると、瑞穂の大きな袖が旭の肩を柔らかに包み込んでいる。

 雨の後の木々が発するような優しい気配に心を慰められ、涙腺が一層強く刺激される。 


「……う……うっ……」


 堪えきれず、思わず肩が震えた。

 同時に、身体がぐいと力強く彼の懐へと引き寄せられた。


「そなたの幸せは、私が全力で守る。

 どんなことがあっても、さよのような残酷な目に合わせたりはしない。約束する。

 人の世では決して味わえない幸福を、そなたに味わわせてやる」


 広い胸元に満ちるその香りを、旭はひとつ深く吸い込んだ。


「……やり方が随分と卑怯だな」

「どんなことも概ね卑怯だろう」

「それ、神の言葉とは思えないけど?」


 なんだか、もうどうしようもない。旭の腹の奥から変な笑いがこみ上げた。


「——瑞穂。

 今言った約束、本当に守ってくれるんだろうな?」


 そう小さく問いかける旭を、瑞穂は一瞬驚いたように見つめた。

 そして、その逞しい腕が一層強く旭を抱き締める。


 その温もりは、悔しいほどに頼もしく、焔が消えてしまいそうな旭の心を深く安らがせた。



 気づけば、薄雲の向こうへ陽が傾き、空の色が薄紫へと移り始めた。

 瑞穂はふと窓へ顔を向けると、小さく何かを唱えた。

「今、迎えの龍を呼んだ。間もなくここへ降りてくるだろう」

「えっ、龍……!?」

「そうだ。鱗が七色に輝く美しい龍だぞ」

 まるでタクシーでも呼んだかのような瑞穂の言葉に、旭は度肝を抜かれる。

 グラスに残った茶を静かに飲み干し、すいと音もなく立ち上がると、彼はあでやかな笑みで旭を見つめた。

「では、私は一旦戻ることにしよう。

 ——そなたが頷いてくれて、安堵した」


「……」

 その笑みを受け止め、旭はどう応えたらいいのかわからない。顔の筋肉はただギクシャクと硬直する。

 複雑に沈む旭の思いを知ってか知らずか、瑞穂はさらさらと今後のスケジュールを旭に伝達していく。

「今宵、子の正刻に迎えに参る。それまでに、諸々もろもろの準備を済ませて待っていて欲しい」

「ねのしょうこく……」

「つまり、午前0時だ。と言っても、あちらの世でのそなたの暮らしに必要なものは全て女房や小姓らが揃えるから、心配は要らぬ。そなたがどうしても持っていきたいものだけをまとめておけば良い」

「……わかった」

 スマホやパソコンは使えるのか? そんな詮ない疑問が浮かびかけ、小さな自嘲が漏れる。持っていったところで、人の世を懐かしむだけのガラクタになるのだろう。


 壁の時計を見上げれば、今は午後6時。こちらの世界にいられるのもあと6時間、ということだ。

 ぐっと胸が詰まるが、どうせ行くならずるずると時間を引き延ばしても辛くなるだけだ。断ち切り難い未練を断ち切るためにも、残り数時間くらいの方がいい——。

 そう思うしかない。


 そんな旭の顔をすいと覗き込み、瑞穂は穏やかに微笑んだ。

「そのように不安げな顔をするな、旭。

 初穂の遺言により神の世へ来る者を丁重に扱うようにとの前触れは、神の世の者たちにも充分に行き渡らせておる。僅かにでもそなたに対し無礼な振る舞いをするものがいれば決して許さぬゆえ、安心せよ」

「——一つ、聞きたいんだけど」

「何だ」

「俺、そっちの世界へ行ったら、どんな場所で、どういう立場で過ごすことになるんだ? 当然学校なんてないんだろうし、一日をどこで何をやって暮らすのか、というか……」

「そなたには、私の身の回りの細々こまごまとした用を任せる。住まう場所は、私の居城の最上階の一室を用意してある。晴れた日は大層見晴らしが良いぞ。調度品も身の回りの世話をする者達も、全て最上級のものを整える。望む物があれば、側の者に何でも申しつければ良い」

「…………は? 

 まじか? 何か下働きかなんかで使うとかじゃないのか?」

「何ゆえそうなる?」

「だって、俺どこから見ても正真正銘の一般人で、しかも男だぞ? その待遇、どう考えても釣り合わないだろ……そんなんじゃ公家か将軍家の姫君とか、そんな扱いじゃんか……」

「まあ、人の世で言えばそんなところだ」

「は!!??」

「さよに味わわせてやれなかった幸せを存分に与えよ、というのが初穂の遺言なのでな」

「いやいやちょっと待て! 俺的には城の廊下の掃除でもさせてもらった方が……!!」

「そういう意味ではそなたはもう一般庶民的な暮らしはしたくてもできぬ。何も気にせずゆるりと過ごせばよい」

「…………」


 雨宮旭という男子高校生は、本当にどこにもいなくなってしまうんだ。

 ——いや、これまでの雨宮旭にこだわる必要など、もはやないのか。

 どうせ『雨宮旭』を知っている人間など、あと6時間でただの一人もいなくなってしまうのだから。


 何か自分自身の根幹がグラグラと揺さぶられるような奇妙な感覚に、旭はぐっと俯いて黙り込んだ。


 その時、窓の外に大きな影がよぎった。

 はっと外を見ると、とんでもなく巨大な生き物の尾のようなものが、窓全体を覆うようにぐわっと通り過ぎていく。

 その正体を確認すべく窓へ駆け寄り、外へ身を乗り出した旭は、目の前の光景に言葉を失った。

 光を透過しながら七色に輝く鱗を波打たせ、その龍は空中で舞を舞うかのように主を待っていた。

 驚異的に太く長い胴が大きくうねるたびに鱗が煌き、その背骨に沿って生え揃ったたてがみが細やかな金の糸のようにさらさらとたなびく。

「ではまた後ほど、旭」

 瑞穂はベランダに静かに降り立つと、雪駄の爪先で軽く地を蹴った。

 と、その白銀の羽織の大きな袂がぶわりと上空へ翻る。

 信じられない高さで空へ舞い上がった雨の神は、差し出された巨大な竜の額——柱のように突き立った二本の角の間へと、ふわりと飛び乗った。


 主を乗せた龍が空へ向けて首をもたげた瞬間、その姿は跡形もなく旭の目の前から消えた。



 ——今起こったことは、果たして現実だろうか?

 旭はふらふらとクッションに座り込むが、目の前には確かに瑞穂が飲み干していったグラスが残されている。


 紛れもない現実であれば、こうしてぼんやりしている時間はない。

 開け放たれた窓から静かに吹き込む風を頬に受けながら、旭は龍の飛び去ったであろう空を見上げた。



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