第144話 遺したかったものは

 府中、東京競馬場を志穂が訪れるのは三度目になる。

 服装は、クリュサーオル用の勝負服であるいつもの赤のドレスではなく、中学の制服。ドレスコードのある馬主席、七階から、眼下に広がる府中のターフをぼんやりと見下ろしていた。

 途中、顔見知りや顔見知り伝手に紹介された馬主たちに挨拶や世間話に花を咲かせていても、志穂の脳裏を埋め尽くすのは出走馬のセブンスワンダーのことだ。


「引退か……」


 配布されたレーシングプログラム、メインレースであるG2ダイヤモンドステークスの出走表を一瞥して、志穂はひたすらに悩んでいた。

 

 セブンスワンダーはまだまだ走れる。それは馬と話せる志穂の直感でもあり、かつ、志穂以上に何百何千頭もの競走馬を見てきた厩舎関係者の見立てだ。よその厩舎の羽柴も含めて、みな口を揃えて語っている。


 八歳牡馬セブンスワンダーは、今まさにピークを迎えている。

 晩成性に優れる母母父、六歳まで走ったメジロマックイーンの血が濃く出たためか、いよいよ馬体が完成し、精神も成熟したのだ。レース一週前、そして当週追い切りのタイムも悪くないどころか、二週続けて自己ベストを更新している。

 まさに上がり調子。大器晩成とはこのことだ。


 なのに、彼は今日のレースを最後に引退する。馬主である財前の鶴の一声によって。


「志穂ちゃん、もう来てたのか。早いな」

「ん。おばさんチに寄ろうと思ったんだけどソワソワしてさ」


 思い悩んでいると、スーツ姿で決めた宏樹が現れた。牧場で会うときとは違って、ドレスコード通りに髪の毛もアップにして撫でつけ固めている。これから社交ダンスでも始めるのかといった様相だが、さすがは馬主の孫。燻ってはいたけれど育ちはいいのだ。


 その後、宏樹とは「津軽海峡のヤバさ」を肴に盛り上がった。ただ、そんな雑談はあくまでも気を紛らわせるためのもの。レースを控えた緊張感は刻一刻と迫っているし、なにより引退については思うところがある。

 宏樹が終始チラチラと目を向ける、九個目の必勝守を見留めて、志穂は告げた。どうしても気になってしまったのだ。


「宏樹くんは、まだ作り足りないでしょ? お守り」


 しばらくして意図を理解したのか、宏樹も「ああ」と惜しむような息を吐いた。


「長距離は番組が少ないけど、年末にもうひとつある。そこで引退なら納得もいくんだけどな……」

「ステイヤーズステークスだっけ?」


 毎年十二月の第一週に開かれるG2重賞、ステイヤーズステークス。

 トリッキーでタフな中山競馬場を二周する、長距離馬ステイヤーの名を冠した通りの国内最長の長距離重賞だ。ピークを迎えたのなら、年内いっぱいをその準備に充てたっていい。さすがに急には衰えないだろうし、現に担当厩舎のプロたちが「引退は惜しい」と言っているのだ。


「説得すればいいじゃん、馬主続けてほしいってさ」

「久々にじいちゃんに会うんだぜ? どんな顔して会えばいいかすらわかんねーのに……」

「ダメな孫だな」

「返す言葉もない……」


 宏樹を責めたところで始まらない。志穂は頭を切り替えて、どうにか財前の真意を探る方法を考える。

 なぜ早期引退を決意したのか。なぜ孫との思い出が詰まった大事な馬をすこやかファームへ託したのか。そして五百万円もの資金援助の意図は。

 それを探る機会は、いよいよ訪れる。

 秘書関口を引き連れて、トレードマークの着流しにシャッポ姿で財前が姿を現したのだ。


「どうだ小娘、馬券の調子は!」

「未成年だから買えないよ」

「ワシがガキの時分には買えたがな! カッカッカ!」


 今は令和だ。昭和のおおらかで適当な時代を引き合いに出されてもと呆れる志穂の隣で、宏樹は所在なさげに固まっていた。なんと声をかければいいのか逡巡しているのだろう。そんな迷いなど知るよしなく、財前は声を荒げる。


「久しいな、宏樹。見てくればかり立派になりおって」

「あ、ああ。ガワだけはね」


 たったひと言だけ告げて、財前は志穂の隣に腰を下ろした。祖父と孫、ふたりに挟まれるというなんとも不運な席次だ。

 志穂が座り位置を変えようとするも、財前は「どこへ行く」とピシャリ跳ね除ける。そして宏樹も財前には何も言い出さない。

 居心地がただただ悪い。とうとう耐えかねた志穂は、重い口を開くことにした。


「セブンスワンダーのことだけどさ。いい馬だよ」

「当然よ。ワシの目利きだ」

「なんで引退させんの?」

「前にも言った通り。彼奴はもう八歳、潮時だ」

「嘘でしょ、それ」


 財前はひと言も返さず、横目に志穂を睨みつけた。年輪のごとく刻まれた左側のシワは、渋面。小娘に詰められて気分を害したのか、それとも他に意図があるのか。その表情からは何も読み解けない。


「私の見立てではまだまだ走れる。厩舎の先生も言ってたよ、ようやくピークだって」

「……」

「宏樹くんに言われたって馬主やめる気ないんでしょ? だったらセレクトセールになんて来ないはず」


 財前は志穂を睨みつけたまま、重々しく口を開く。


「何が言いたい?」


 怒鳴りつける訳でもなく、財前はただ志穂の言葉を待っていた。

 どうしても財前の真意を探りたい。志穂は事前に調べていた、セブンスワンダーの秘密を告げる。それは血統表の一番右端に名を残す、とある名馬についてだ。


「じいちゃんは、ダイナナホウシュウの血を残したかったんじゃないの?」


 睨みを利かせていた財前は、その名が出た途端瞑目し、ガラス越しの眼下に広がる府中のターフに目をやっていた。

 そして、惜しむようにゆっくりと口を開く。


「……やはり、古き血は絶える運命よ」


 茜音にも協力してもらって、志穂は血統表にダイナナホウシュウを残す馬を調べ上げていた。その結果、財前の愛するマイナー血統の悲しい運命に気づいたのだ。


「ダイナナホウシュウの父系は、もう途切れてたんだね。子孫に重賞馬が出なくて、種牡馬入りできなかったみたい」


 彼の産駒は、成績がふるわなかった。ゆえに大半が処分されるか乗馬に回され、かろうじて残った直系牝馬が、母の父、あるいは母母の父という形でその血を伝えているだけだ。

 もちろんその繁殖牝馬とて、他の良血馬に押し出される形で繁殖から離脱していく。


「それでもじいちゃんは、ずっと子孫を守ってきた。《ザイゼン》冠の馬って、ほとんどがダイナナホウシュウの子孫。よっぽど大事だったんでしょ?」


 直前まで走っていた持ち馬、《ザイセンゴエモン》は、セブンスワンダーの弟だ。

 それだけでも、彼にとってダイナナホウシュウがどれだけ大事な馬だったかは志穂にも想像がつく。


「残したいんじゃないの? だから私にスワンを預けて、活躍させたかった?」


 問い詰めても、財前は何も言わなかった。

 代わりとばかりに、彼は着流しの袖から黄色い箱を取り出す。

 キャラメルだ。


「小娘。ひとつ、賭けをしよう」

「何?」

「年寄りのお遊びだ」


 静かに告げて、財前は十二粒のキャラメルを志穂の前に並べ始めた。

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