第143話 ハッスルハッスル!
今から七十年以上前。
少年、財前善治郎は、ダイナナホウシュウことタマサンの勝利に秘蔵のキャラメルを賭けることにした。
キャラメルは、厩舎の仕事を手伝うたびにお駄賃としてもらっていたもの。当時の彼にとってはキャラメルがカネであり、キャラメルを稼ぐことがオトナ社会へ仲間入りすることと同じ意味を持っていた。
「ただ賭けてもつまらねえ。よーく聞け、決まり事を作ってやる」
旧知の厩務員は紙箱からキャラメルを取り出した。
当時、森永のミルクキャラメルはひと箱十六粒入り。すべて揃っているか改めたのち、厩務員は空っぽのアルミ灰皿をふたつ、財前の前に並べる。
「お前が賭けるのは《一着》か、《それ以外》だ。あの小せえ馬が勝つと思ったら一着に、負けると思ったらそれ以外に賭けろ」
一着——つまりダイナナホウシュウが勝つ方の灰皿に、厩務員は新品のタバコを一本入れた。これが目印だ。
「簡単な賭けだな! あんな小さいの、負けるに決まってる!」
財前少年は大喜びして、十六粒のキャラメルをすべてタバコの入っていない灰皿——つまりダイナナホウシュウが負ける方に賭けた。簡単な賭けだ、あんな馬が勝てるはずがない。そう踏んだのである。
そんな想定通りの賭けを見て、厩務員はほくそ笑む。
「まあ待て、決まり事はまだある。負ける方に賭けたらキャラメルは二倍、勝つ方に賭けたら四倍にしてやろう」
厩務員が付け足したルール。それは現在で言うところのオッズだ。
一着なら四倍、それ以外なら二倍。キャラメルの一攫千金を狙うなら、一着に賭けた方がいい。
学校へ行かず、算数の授業もロクに受けていない財前でも、それくらいの計算はできた。元より彼はキャラメルを使った計算は早かったのだ。博徒だらけの鉄火場で生き残るためについた、生きた知恵である。
「勝ったら四倍か……」
「馬券と一緒だ。好きに賭けろ」
少年財前は考えた。あの馬が勝てるとは思わないが、万が一ということもある。なにより悪い人間ではないものの、ケチな厩務員が持ちかけてきた賭けだ。裏をかこうとしているに違いない。
だからこそ、財前はキャラメル算を披露する。
「なら、あの馬が勝つ方に五粒、負ける方に十一粒」
「なぜそう賭けた?」
「あの馬が勝てば二十粒、負けたら二十二粒。これならどう転んでも俺は儲かるだろ」
財前の回答に、厩務員はほくそ笑んだ。この賭けが、はじめから財前に有利であると見抜いた彼の小賢しさが嬉しかったのだ。
ゆえに厩務員は、さらなるルールを付け足す。
「ならテラ
厩務員は《一着》と《それ以外》の灰皿からひとつずつ除き、自らの口に放り込んだ。
「なんだよそれ、ズルいぞ!?」
「博打ってのはなァ、胴元が損しないようにできてんだよ」
テラ銭。それはギャンブルの場を提供する主催者の利益のことだ。
今日の競馬でも同様に、馬券購入費用の数パーセントが先んじて中抜きされている。ゆえに、たとえ何億円もの払戻金を支払ったとしても主催者が損をすることはない。海千山千のギャンブラーと違い、主催者はレースさえ開けば確実に儲かるのだ。
「さあ、最初こそ十六粒あったが実際に賭けられるのは十四粒だ。よく考えろ」
「クソ! なら、一粒を勝つ方に移す! もうテラ銭取るなよ!?」
「《一着》に五粒、《それ以外》に九粒か」
財前はすぐさまキャラメル算を変更し、勝ち負けの比重を変えてみせた。
馬が勝てば二十粒、馬が負けても十八粒。いずれも当初の元手から増やすことができる。
厩務員は満足したように微笑むと、財前の頭に手を置いた。そして諭すように告げる。
「安心したよ。てめえには、博打の才能はないな」
厩務員が何を言いたいのか、当時の財前にはわからなかった。なんせオッズとルールの隙を突き、絶対に損をしない回答を見つけ出したのだ。
抜け目なく勝ち筋を見つける計算力。これが博徒の才能じゃないならなんなのかと、財前は食い下がる。
「損しないように賭けたからって負け惜しみか? 決めたのはそっちだろ」
「教えといてやる。本当の博打うちはこう賭けんだ」
言って、厩務員は《それ以外》の灰皿の中身を、すべて《一着》の灰皿へ流し込んだ。
オッズ四倍の一着に、十四粒全賭け。
勝てばキャラメル三個半の五十六粒、負ければ
「そんなのバカのやることだろ!?」
「だが、てめえはバカになれなかった。バカになれねえヤツは博打に向いてないのさ」
財前はその日はじめて博打のなんたるかを、そして自身に博才がないことを悟った。
向こうみずなバカにはなれなかったのだ。
その後、競争の結果キャラメルは増えた。だが、勝利の味はほろ苦く、博打で身を立てるという考えは財前の頭から消えてなくなった。
彼が身を立てるのはこの十年後。時流を読んでオーナーに提案したキャバレーが軌道に乗り、暖簾分けという形で独立。そこから店舗展開を無理なく進め始めてからだ。
荒れた少年時代を送った財前は、確実に勝てる博打しかしない堅実な男へと成長する。
それでも博打である馬主を志した理由はただひとつ。
自身を育ててくれた競馬文化を守るため。そして、受けた恩を返すためだった。
*
洞爺すこやかファームには、栗東行きの馬運車がつけていた。三週間後に東京で行われるダイヤモンドステークスに備えた、セブンスワンダーの輸送のためだ。さすがに輸送にも慣れた志穂は、馬運車の運転手や厩舎から派遣された厩務員とともに、手早く準備を進めていく。
宏樹もそれを手伝いつつ、リュックサックにまとめた旅支度を馬運車に積み込んでいた。
「宏樹くん、酔い止め持った?」
「いらないだろ、馬運車って揺れないだろうし」
「いや、津軽海峡はマジで死ねるから!」
プリンの輸送時は、もはや志穂のトラウマだ。もう二度と馬運車には帯同したくないが、それは絶対に叶わない。どこでもドアがない以上、強烈な船酔いとも友達になるしかないのである。
酔い止めを宏樹に押し付けて、志穂は馬房で待機しているセブンスワンダーの元へ向かった。これから四本の足を守るクッションを靴下のように履かせたり、水や飼い葉を食べさせたりと行うことがたくさんある。
「スワン、そろそろ出発だよ」
『おっ、もうかい? 早いねえ〜。別れの涙は流さないでおくれよ、嬢ちゃん! って違うか!』
「ウマじゃなかったら殴ってる」
『これがジーオヤ狩りってヤツかー! 近頃の若者はこわいねー!』
セブンスワンダーがみじんも怖がっていないのは、ピンと伸びた耳から充分わかった。
彼は終始、人を食ったような飄々としたおじさんぶりだった。相談するような悩みもなく、困っていることもまるでない。長年の経験ゆえのオトナの余裕とでもいうものか、逆に助けられることばかりだった。
「ハルのことありがとね。アンタがいろいろ話してくれたんでしょ?」
『さあて、かるーくお話したくらいだヨ。おじさんは大したモンじゃないからね』
「素直にイバっときゃいいのに、腰が低いっつーかなんつーか……」
少なくともクリュサーオルなら『オレ様のおかげだ、ゲハハハハーッ!』なんて叫んで、おやつに世話にと口やかましく注文をつけてきたことだろう。なのにセブンスワンダーは、いっさいの見返りを求めない。むしろ志穂の方が申し訳なくなるというもので。
「なんか、あんまり役に立てた気がしないんだよね。毎日調教で乗ったりはしたけど」
『そうかい? おじさんは嬢ちゃんのおかげでいいリフレッシュになったよ? まあ美人でエロい姉ちゃんだったらもっとよかったんだけどネ!』
「悪かったな、使えないガキで」
うりうりとセブンスワンダーの額を撫でながら、志穂は馬房の外へと彼を連れ出した。
外は一面の銀世界。暖房の効いた馬房とは異なり、まだまだ冷え込んでいる。ぶるると温度差に身を震わせた志穂に、セブンスワンダーはそっと寄り添っていた。
馬運車へ向けて歩いていると、セブンスワンダーがゆっくりと告げる。
『嬢ちゃんのおかげでボーヤに会えた。それだけでおじさんとしては充分なのさ』
「大したことじゃないでしょ」
『いいや、マーウーと喋れる嬢ちゃんにしかできないことだ。ちゃんハルのためにもシャカリキモーレツにハッスルハッスルだネ!』
「素直に頑張れって言えばいいのに……」
『たはは! こりゃまいったね〜!』
ふざけた口調ながらも、セブンスワンダーの言いたいことは志穂にもちゃんと伝わった。
足りないことだらけの志穂とハル、そしてすこやかファームを応援してくれている。ある意味、さすがは財前の馬。彼からは、志穂もハルも学ぶところばかりだった。
だからこそ、別れを思うと寂しいものはある。もうターフで見ることもないと思うと余計にだ。
「引退か……」
『その辺は人間に任せるよ。おじさん、久しぶりに走りたくなっちゃったからネ!』
先ほど担当厩務員と軽く喋ったところ、やはりセブンスワンダーの引退はまだ早いと感じている様子だった。ピークの遅い晩成馬で、体力もあり健康面にも問題はない。それに、これまで世話になってきた財前の所有馬ということもあり、恩返しがしたいというのが厩舎の総意である。
「財前のじいちゃんがやめるって言うなら仕方ないのかもしれないけど……」
志穂は己の無力感を呪う他なかった。馬の悩みには応えられても、人間の問題は志穂ではどうしようもないのだ。後継者問題には、志穂も手の貸しようがない。その後継者は今、ホースマン見習いとして頑張っているのだから。
「じゃ、付き添いで行ってくる。しばらく向こうに滞在して、ダイヤモンドステークスを見てから戻るよ」
馬運車に厩務員やセブンスワンダーともども乗り込んで、宏樹はにこやかに手を振った。
「ん。気をつけて。スワンも長丁場になるけどがんばんなよ。ハッスルハッスルで!」
『そうそう! ハッスルハッスル!』
馬運車のタラップが上がり蓋が閉められる。セブンスワンダーの姿が見えなくなるまで、志穂は手を振っていた。
——花道を飾らせてやってほしい。
その依頼に応えられたのか、志穂にはまだわからない。
ただ、やれることはまだある。
志穂はセブンスワンダーが出発した旨の伝えるべく、財前の秘書、関口に電話をかけた。そしてついでに、東京行きの往復航空券をひとり分おねだりしておく。
日付は三週間後。ダイヤモンドステークスの開催日だ。
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