第141話 連綿と紡がれる歴史

 ハルたちを洗った後は、人間を洗う番だ。ハルの後方を走っていたがゆえに泥まみれになった羽柴を実家の風呂に突っ込んで、衣類を洗濯乾燥機の中に放り込む。

 脱衣所でちらりと見えた羽柴の胸元はそれなりに大きく、こんなところでも志穂は妙な敗北感を覚えるのだった。


「あんなんついてたら邪魔じゃんね」

「何の話?」

「ハッシーのクソデカおっぱいの話」

「志穂ちゃんはいつも直球だな、リアクションしづらいよ」


 宏樹はせき払いののちに苦笑して、タブレットに視線を戻していた。ちなみに彼が読んでいるのは高卒レベルの世界史解説サイト。仕事の空き時間を使っては勉強を続けていて、志穂もときどき問題を出してあげたりしていた。

 たとえばこんなふうに。


「フランス革命について、アンシャンレジーム、ブルジョワジーの二語を用いて簡潔に説明せよ」


 問題集にあった設問を志穂が尋ねると、宏樹はスラスラと世界史の出来事を説明してみせた。

 フランス革命はざっくり言えば、王侯貴族・聖職者中心の旧体制——アンシャンレジームと、虐げられる立場だった市民の中から現れた資本家——ブルジョワジーとの軋轢によって生じた市民革命だ。結果、絶対王政は断頭台の露と消え民主主義に移行したが、今度はその民主主義があまりに極端すぎて暴動をもたらし、乗馬でキメた絵画でおなじみ英雄ナポレオンの軍国主義に繋がっていく。まさに激動の時代だ。


「……こんな感じだろ。合ってる?」

「知らんけど。つかフランスってこんな昔から競馬やってんでしょ? ヤバくね?」

「それだよ。馬絡みの歴史なら興味もあるんだけどなー」

「わかるー」


 茜音に教わった通り、近代競馬は十七世紀イギリスが発祥。フランスには十八世紀初頭に伝わっている。革命のごたごたで一時中止されたものの、ナポレオン政権下で馬匹改良を目的に再開され、いくたびの戦禍を乗り越えながらも今日まで続く馬事文化となった。

 ちなみにこの十八世紀初頭がサラブレッド最古の時代。競走馬の血統の歴史はここから始まっている。

 今度は宏樹が、志穂に問題を出してきた。


「この時代に、サラブレッドの三大始祖が誕生しました。三頭すべて答えよ」

「《トニービン》、《ブライアンズタイム》、《サンデーサイレンス》」

「まあ、ある意味三大始祖ではあるけども」


 茜音譲りの競馬ジョークで宏樹をからかって満足した志穂は、正当を答えておいた。

 遥か十七世紀から連綿と繋がる血統表スタッドブック。その最古に名を連ねる、はじまりの三頭。

 《ダーレーアラビアン》、《ゴドルフィンアラビアン》、《バイアリーターク》。

 この偉大なる三頭の種牡馬を、三大始祖と言う。


「人間で言えばアダムとイブなんだろうけど、記録残ってんのがすごい話よね」


 サラブレッドとは違い、最古の人類の血統書なんてものは当然ながら残っていない。

 いちおう分子生物学の分野では、母から子へ遺伝するミトコンドリアDNAを辿る形で、人類の母系祖先を特定する研究がなされている。それによれば今日を生きるすべての人類は、おおよそ十六万年ほど前にアフリカに住んでいた、とある女性の子孫ということになるらしい。

 ちなみに父系はDNAハプログループというのを追跡すればわかるという話だが、茜音から聞いた内容は、志穂にはちんぷんかんぷんだ。なぜこれだけ生物系の知識を有していながら茜音が法学部生なのかが、志穂には謎である。


「ハルやスワンも父親を辿っていくとダーレーアラビアンに行き着くんでしょ?」

「ああ。ついでにさっき志穂ちゃんの挙げた近代日本の三大始祖も、全部ダーレーアラビアンの子孫」

「ヤバすぎ」


 今日の競走馬の九割が、父系祖先にダーレーアラビアンを有している。ハルやセブンスワンダーだけではない。志穂が今まで知り合ってきた馬はすべてこの直系だ。

 ただし、それは父系に限ったこと。途中で母系に取り込まれたものも祖先とカウントすれば、どこかで三大始祖すべてとぶつかることになる。


「血統のロマン、私には全然わかんないな……」

「俺も詳しくはない。じいちゃんが好きだったんだよ、マイナー血統」

「財前のじーちゃんが?」

「セブンスワンダーの母系にいるだろ、五代前の母父。《ダイナナホウシュウ》」

「ダイナナホウシュウ……」

 

 再びその名を聞いて、志穂はセブンスワンダーの血統表を見直した。

 半世紀以上前の名馬、ダイナナホウシュウ。彼は父系ルーツを辿ると、滅亡一歩手前の三大始祖、バイアリータークへ繋がっている。ついでに言えばセブンスワンダーの二代前、母方のおじいちゃんであるメジロマックイーンもバイアリータークの子孫だ。

 ときどき茜音が「ロマン!」と声を荒げる大種牡馬、《ヘロド》から広がる父系である。


 志穂は、財前から頼まれた内容を思い出していた。


「引退レースの話だけどさ、ぶっちゃけ宏樹くんはどう思う?」

「どうって?」

「いや、なんつーか……」


 セブンスワンダーと話せる志穂は、なんとなく感じ取る部分があった。

 それは、彼の引退時期について。


「スワンはさ、まだ走れるような気がするんだよね」

「ですね! むしろようやくピークだと思います」


 ちょうど風呂から上がってきた羽柴が、パジャマに着替えた状態で現れた。濡れてしなしなになった髪の毛をタオルで乾かしながら、志穂の隣に腰を下ろす。調教助手としての経験からくるものなのだろう、セブンスワンダーに騎乗した感想を羽柴は続ける。


「特筆すべきはスタミナと、泥を被るのを厭わない根性です。春の天皇賞大きいところは難しいかもしれませんけど、あと一戦で終わるのはもったいない晩成馬ですね」

「だったらなんで引退させんの?」


 一度乗っただけの羽柴が感じるほどなのだから、担当厩舎は当然理解している。それを馬主である財前にも伝えているはずなのだ。

 セブンスワンダーは、ようやく競走馬としてのピークを迎えた。

 なのに、財前は引退を決めてしまった。


「……俺のせいかもしれない」


 志穂の疑問に答えたのは、その財前の孫、宏樹だ。こめかみを抑えながら、思い悩むように俯いている。


「実は、去年じいちゃんから連絡があってさ。そんときカッとなって言っちゃったんだよ。誰も継がないんだから競馬なんてやめろ、断捨離しろって」

「ひでえ孫」

「直球すぎる! 悪かったとは思ってるよ……」

「まあまあ、責めないであげてください。仕方ない話ですよ」


 意気消沈した宏樹を慰めるように、羽柴は寂しげに微笑んでいた。


「競馬ファンや私たちホースマンとしては、馬主さんには長く続けてほしいし後継ぎもいてほしい。ですが馬主を繋げるなんて簡単なことじゃないですからね」


 馬主になるには莫大な資産が必要だ。仮に資産があったとしても、それを馬に注ぎ込む狂気じみた愛着がなければまず馬主なんてやろうと思わない。財前の子——宏樹の親も資産家だが、馬主にはまるで興味がないのだ。

 仮に馬主が亡くなると、その所有馬は資産として扱われ、相続税の支払い義務が生じる。売却して支払おうにもまずは相続税を支払わねばならず、さらに買い手が見つかるとも限らない。


「世知辛い話だなあ」


 人間側の都合で明日をも知れぬ馬が、志穂にはただただかわいそうだった。

 ぼんやりつぶやいた志穂に呼応するように、宏樹がため息がちに答える。


「……寂しいよな、じいちゃんの馬がいなくなるの」

「有名人でしたからね、財前さん」


 髪を乾かしながら水を飲んで、羽柴も残念そうに眉をハの字に曲げていた。

 一方、志穂は状況を整理しながら考える。


 財前がセブンスワンダーの引退を決めたのは、宏樹の言葉が原因のひとつだろう。

 だが、双方の気持ちは志穂にも理解できる。

 財前はもうかなりの高齢だ。いつ何が起こるかわからない。

 であれば、馬など微塵も興味がない人々が相続するより、理解ある馬主仲間や牧場に売却した方が馬にとっては絶対にいい。財前の子孫に、預託料を払わせる必要もなくなる。馬主としての断捨離だ。


「でも、じいちゃんはホントに引退なんて望んでんのかな……?」


 ありありと浮かぶのは、矍鑠とした財前の姿だ。五所川原とプリンのセリで競い合うようなアツい男。齢八十を超えても着流しとシャッポで粋にキメるような精力的なじいちゃんなのである。


「ははーん。志穂ちゃん、なんか考えてますね?」

「ん。たぶんヒントは、この馬にある」


 言って、志穂はセブンスワンダーの五代祖先を指差した。

 ダイナナホウシュウである。

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