第140話 はるかなエトワール

 偽ロンシャン、五百メートルの最終直線。

 鞭を振るう羽柴とは対照的に、志穂は手綱を持ったまんまハルの背で必死に耐えていた。持ったまんまのノーステッキといえば聞こえはいいが、それは鞭が使えないがゆえ。片手で手綱を操り、もう片方の手で鞭を入れるような器用さは、さすがの志穂も持ち合わせない。

 それでも志穂には、鞭代わりの声援がある。


「ラスト! 全力でがんばれ!」

『がんばったら褒めてくれる!?』

「褒め散らかしてあげる!」

『振り落とされないようにね!』


 ハルは貯め込んでいた余力をとうとう解き放った。

 先行してペースを握り、道中で息を入れながらひと伸びする王道の競馬はスランネージュに教えてもらった。

 最後、残された力を振り絞ってでも勝ち切る燃えたぎるような勝負根性はクリュサーオルに教えてもらった。


 ——そして、ハルは思う。

 この先もう、志穂と一緒にレースをする機会はないかもしれない。しばらくすれば、プリンやクリュサーオルの待つ香元厩舎に入厩することになる。離れ離れになるのは寂しいが、そうしないとレースには出られない。

 志穂の夢や想いを乗せて、走ることができないのだ。

 これは、セブンスワンダーやレインから学んだこと。


『……ボクは、シホのために走る!』


 ハルは誕生が他より遅かったことは理解していても、早生まれであることなど知るよしもない。一月一日で馬齢が加齢されるなんて人間が勝手に決めたルールだ。日々を生きる馬にはなんの関係もない。

 だからどれだけ周りの人間に生まれを同情され、不幸な馬だと可哀想だと嘆かれても、ハルは何も思わない。仮にすべての人間の言葉が通じたとしても、ハルはけろりとしていただろう。

 ハルは決して、自身を不幸など感じたことがなかった。

 なぜなら、幸せであろうと努める少女によって育てられたからだ。


『お姉ちゃんと走るんだあッ!!!』

 

 そして、一番にハルを突き動かすもの。

 直近では敗れてしまったが、いかなる相手をも捩じ伏せてきた最強の三冠牝馬。

 テッペンで待ってくれている未だ見たことのない姉。

 美しく強く輝く一番星、プレミエトワール。

 姉と走るためには、苦しくても負けられない——


『うりゃああああーッ!!!』


 ハルの末脚が伸びる。気温は低く、足元はひどい不良馬場。それを二千メートル近く先頭で走ってきたにも関わらず、ハルは沈むことなく速度を増した。

 鞍上の志穂は驚いて舌を巻くばかりだ。

 何度となくこのコースをハルと走っていたが、いつもは単走だ。今回のような実戦形式の併せ馬は洞爺温泉牧場での二戦に次いで三戦目。過去二走の相手はいずれもG1級で、成長途上もあって大差に敗れている。

 だは今は違う。食べて走って寝てすこやかに育ったハルは、課題だったスタミナ不足を、技術で、そして気合いで乗り越えようとしている。

 だからこそ志穂も、ハルの懸命な努力に応えたい。


「行けッ! ハル!」


 しかし、背中に別の息吹が突き刺さってくる。

 恐る恐る志穂が左側へ目を向けると、セブンスワンダーの鼻先が見えた。


「やっぱ来てるか!?」

「まだ諦めません!」


 空気を引き裂くような鞭の風切りが聞こえる。鞍上で揺れ動く羽柴の気配が迫っていた。

 もちろんハルは全力疾走だ。だがそれはセブンスワンダーも同じ。わずかに彼の方が速いのか、リードはもう半馬身もない。じわりじわりと、前を向いていても視界の左にセブンスワンダーが入ってくる。

 直線は残り二百メートル。

 志穂の体感では、もう間に合わない。


「志穂ちゃんハルちゃん! そんなものですか!?」


 左で羽柴が叫んでいた。

 ハルの力はこんなものじゃない。もちろん諦めたくなどない。筋肉痛で体が悲鳴をあげていても騎乗を諦めないのは、勝ちたいからだ。たとえ相手がベテランの現役馬であっても、ハルがまだ幼い三歳馬であっても関係ない。

 ハルはもうすぐ現役馬になる。だったらせめて、勝ってハルを送り出したい。

 志穂はまだ義務教育中の中学二年生、そしてすこやかファームは本業の片手間みたいな資金難だ。すべてが万全で鍛え上げることなどできない。育成にも調教にも限界がある。


 志穂はずっと限界を感じてきた。馬の世話、その負担が志穂を追い込んでいる訳ではない。

 どれだけ創意工夫と努力を重ねても、敵わないのではないのかもしれないという不安だ。


「あなたの気合いを伝えるんです! もっと体を使って!」

「わかってる!」


 馬と喋れる能力こそあれ、技術も資金も何もかも足りない。限界だ。

 だが限界を決めたくない。たとえ限界を迎えるとしても、それは今じゃない。


「限界を越えるッ!」


 志穂はあらゆる思考を放棄した。元より、付け焼き刃の経験や知識からなる考えなんて、プロの羽柴にとっては児戯のようなもの。

 ただ一点、脇目も振らず前だけを見据える。視野が狭まる。ただ前へ、前へ。ハルの一完歩の動きに体を沿わせることだけに意識を向ける。心臓が肺が痛かった。だが、落馬の恐怖で振り絞られたアドレナリンが、あらゆる痛みを忘れさせてくれる。


 瞬間、志穂は、ハルと一体になった。

 同じ景色を見ている。同じ目標に向けて、同じように息を切らして。

 ふたりの声は、重なった。


「『うりゃああぁあぁあぁあぁああぁッ!!!』」


 残り百メートル。セブンスワンダーはハナ差まで迫っていた。だが差は変わらない。

 そのままゴール前までもつれ込んでいく。


 羽柴も吠えた。規定回数の鞭を使い切って、必死で追い立てる。

 そしてセブンスワンダーは、必死で走るハルの横顔を捉えた。


『嬢ちゃんみたいな子がいるなら、この牧場は安泰だネ』


 そのまま、二頭はゴールへ飛び込んだ。

 ゴール前に移動していた宏樹はストップウォッチを止めて、持っていた旗を高く掲げる。

 勝敗はハナ差、勝ったのは——


 *


 ハルから降りるなり、志穂は大地にうずくまって体を震わせていた。寒くて震えているのではない。泣いていた。出てくる涙を止めることができなかったのだ。

 キックバックの泥にまみれた顔を拭いながら、羽柴が近づいてくる。


「がんばりましたね、志穂ちゃん! 素晴らしい騎乗でした!」

「…………」


 志穂の返答はなかった。嗚咽のせいで言葉が出てこないのだ。すべて察した羽柴は隣に同じように屈んで、華奢な志穂の体を抱き留めた。


「わかりますよ、その悔しさは」


 言い当てられて、志穂は余計に涙を堪えきれなくなった。暖かく優しい、羽柴の言葉と回した腕が呼び水になって、震えは留まるところを知らなかった。


 ハルの併せ馬三戦目は、ハナ差決戦の末にセブンスワンダーに軍配が上がった。

 慣れた庭である偽ロンシャン、走り方を熟知した志穂とハルのコンビでも、いまだ現役馬には届かない。越えると決意した限界が、またしても志穂の前に立ちはだかっている。


「本気でやったからこそ、悔しいんです。その涙は、必死でがんばった証なんですよ」


 思い起こされるのは、スランネージュが味わったであろう悔しさ。あの時は逃げずに受け止めろとスランネージュに言った志穂だったが、いざ受け止める立場になるとその悔しさはむせ返るほどに喉を詰まらせる。


「……勝たせて、あげられなかった……」


 やっとのことで喉を通ったのは、嗚咽まじりの後悔だ。

 自身の不甲斐なさをただ噛み締める。父親は三冠馬コントレイル、母親は三冠牝馬の母クリスエトワール。素質は約束されているのだ。そして負けん気も強くて、前へ前への意識もある。素人の志穂でもちゃんと走ってくれる素晴らしい馬、それがハルだ。

 競馬の五割は馬の能力。残りの半分はそれ以外の要素。

 となればハルが負けたのは、その残り半分の部分。コースは同じ、となればハルの敗因はただひとつ。


「私じゃなかったら、ハルは勝ててたんだよ……」


 羽柴は黙って聞いていた。「そんなことはない」と否定しなかったのは、羽柴なりの優しさと、志穂を一人前と認めたがゆえの厳しさだった。

 競馬はあくまでも競争の世界。勝ち星に恵まれない騎手や調教師は居場所を失う。馬たちと同じく、優れていなければ生き残れない生存をかけた戦いだ。


 突き放すような態度しか取れないのが、羽柴にはもどかしい。だが志穂はもう、羽柴にとっては一人前のホースマンだ。甘やかして接するのは志穂にとって失礼。気休めのお世辞は不要なのだ。


「その悔しさは、絶対忘れちゃダメですよ」


 志穂の頭をくしゃくしゃと撫でて、羽柴は宏樹とともにセブンスワンダーを洗い場に連れていく。

 近寄ってきたのは、ハルだった。


「……ごめん、ハル。また勝てなかった」

『うん! でもボク今日は一番の走りができた気がする! 最後とか、志穂と一緒に走った感じだった!』

「ハルはいい子だね……」


 突いてくる鼻先が温かい。最後の最後まで先頭を走っていたから泥で汚れていないハルは、負けたというのに誇らしげだった。


「……悔しくないの?」

『悔しい! でもお姉ちゃんもたくさん負けたってシホから聞いたよ! だったらボクも負ける! そしたら強くなって、いつか勝てるもんね!』

「ハル……」


 志穂はただ、ハルの頭に抱きついた。

 元気で負けん気が強く、それでいて負けたってヘコまない。

 ハルはまだ馬体も幼いけれど、精神力だけはきっと一流だ。

 はるかなテッペンに輝くエトワール——星を目指して、ひたすらに走り続けている。


「はるかなエトワール……」

『なにそれ?』


 袖で涙を拭い、ついでに自分の腕で自分の顔面を殴って志穂は立ち上がった。

 いつまでも泣いていては幸せが逃げる。悔しくて涙を流した後は、もう二度と悔しい思いをしないように立ち向かうだけだ。


「……足元とか汚れたでしょ、おいで。体洗ってあげる」

『それとニンジン! あと頑張ったからたくさん撫でて!』

「素直でよろしい」


 ハルを連れて、志穂もまた洗い場へ向かう。冬場は温泉水を使う洗い場からは、熱狂のレースだったかのように、熱く湯気が立ち登っていた。

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