第117話 すこやかな改造計画

 表彰式を見ることもなく、志穂は機上から次第に小さくなる府中の方向を眺めていた。

 東京第12レース、ジャパンカップ。推しと面倒を見たふたりは惜しくも勝ちきれなかったが、すべて掲示板入りの快挙を成し遂げたのだ。だからこそそれを負かした王者に祝福と、「今度は勝つ」と挑戦状を叩きつけたかったのだが、帰らないと翌日の学校や馬産に響いてしまう。

 財前には「学校など休め!」と言われたが、すでにもう一日休んでいるし、ハルやクリスが帰りを待っているのだ。


「また忙しくなりそう……」


 ため息をついて一人ごちる志穂の頬は、自然と綻んでいた。

 推しのプレミエトワールは二着。面倒を見たクリュサーオルは三着だったものの、あの壮絶な相手関係の中では大健闘。晴翔の父、義徳などは感涙極まって過呼吸になり、めまいを起こしていたほどである。

 無茶だと思われた夢、世界への門戸は徐々に開きつつある。


 ならば、できることをしたい。

 夢へと挑むクリュサーオルのため、愛馬を見守る斉藤萌子のため。

 そしてすこやかファームのためにも。


「明日に備えて寝る!」


 三時間弱のフライトと、洞爺への二時間弱の電車移動。

 せめて少しでも英気を養おうとまぶたを閉じて、焼きついて離れない最終直線での激闘を思い出していた。


 *


「いやー加賀屋さん、もうすっかり冬ですね! そう、冬と言えばいい商品があるんです! それがこちらの屋根つき坂路!」


 翌日。どこから噂を聞きつけたのか、すこやかファームには胡散臭い笑顔でお馴染みの営業マン、椎名が菓子折りとパンフレットを持参して現れていた。


 十二月初旬。

 東京はいよいよ晩秋がピークを迎える頃だったものの、洞爺の秋は一瞬で過ぎ去るほどに小さい。聳える有珠山が白く染まれば、すこやかファームにもはらはらと冬の知らせが舞っている。

 志穂にとっては、北海道で迎える初めての冬。

 馬産地周りを仕事にする椎名には、いろいろと尋ねたいこともあった。


「冬場って調教しにくいとかあるの?」

「さすがお目が高い! 新雪こそ柔らかく脚への負担も少ないですが、踏み固められた雪ほど怖いものはありません! これこそがアイスバーン! 人間なら滑って転んで骨を折る程度ですが、馬にとっては死活問題!」

「必死で雪かきしたらどうにかならない?」

「冬の北海道をナメてはいけませんよ! なんせここは試される大地、北海道! 我々は常に死の淵に立たされているのです!」


 とにかく大げさが過ぎる椎名に辟易とする志穂だったが、その寒さのほどは身に沁みていた。

 プリンの修行の際、テントの中で着膨れても凍えて死にかけたのだ。東京で凍死なんてしたら間違いなく不審死扱いだが、ここ北海道では冬場の日常なのである。

 すこやかファーム自宅兼事務所から、窓の外で舞う雪を眺める。ハルは楽しそうに駆け回っているが、すでにそこかしこに雪が降り積もっていた。ちなみに外気温は日中なのに氷点下を切る極寒の世界だ。


「だから屋根つきの坂路があれば、雪を気にせずトレーニングできるってことか……」

「ええ! お安くさせていただきますよ!」

「でもお高いんでしょう?」

「すこやかファームさんの八百メートル坂路なら出血覚悟、お値段据え置き十億円!」


 志穂は机に額を打ち付けた。

 パンフレットの写真を見るに、屋根つき坂路は長いがらんどうの空間が伸びているだけの代物だ。

 かといってぼんやり過ごす時間はない。他馬の調教が鈍るこれからの季節こそ、早生まれのハルが追いつく好機なのだ。


「……屋根はいいから、とりあえず馬房を増やしたいんだけど」


 惜しい気持ちはあるものの、まずは財前から預かる馬、セブンスワンダーの馬房だ。今後もすこやかファームで預かる馬が現れる可能性も考えて、クリスの厩舎を馬房二つ分増築する契約を結んだ。

 契約が取れてホクホク顔の椎名を見送って、志穂は冷えた放牧地へ脚を踏み入れる。うっすら積もりかけた放牧地を、やはりハルが全力で駆けてきた。


『見てシホ! 雪降ってる! なんか走り出したくなる!』

「犬じゃないんだからさ」


 雪の中を走り回ったからか、ハルの体にもうっすらと雪が積もっていた。馬は寒さに強いとは言ったものの、濡れた体のままでは風邪をひいてしまう。だからと手で雪を払ってあげたが、お構いなしに降り積もるばかりだ。


『雪っていいよねー! ネージュお姉ちゃんみたい!』

「私は雪が憎い!」

『えーっ!?』


 志穂は改めて、屋根つきの坂路の必要性を痛感する。だが雨雪をしのぐ馬用の傘は、お値段十億円だ。そんな金があるのなら、他にたくさん回している。


「なんかいい方法はないもんか……」


 唸りながら事務所に戻ると、従業員たちが昼間から飲んだくれのパーティーに興じていた。

 北海道の冬は農閑期。なんせどんなに作付けしたところですべてを枯らす極寒の大地だ。それゆえ農家は長い冬休みをとったり、観光業や工場での出稼ぎ労働に精を出す。すこやかファームは比較的給料がいいからか、住み込みの従業員五名は春まで趣味の音楽やら読者やらで寝て過ごすらしい。まるでクマの冬眠だ。

 人の気も知らないで気楽なものだとデリバリーのピザを一枚頬張ったところに、追加のビールを手に父親がやってきた。


「お? 商談はまとまったのか、ウマ娘」

「お前の娘だよ。屋根つき坂路十億円だってさ。足元見過ぎ」

「屋根なんて必要か? 雪積もってても走れはするだろ」


 相変わらず馬産をまるで知らない父親に、志穂はくどくどと説明するハメになった。

 融雪のぬかるみに、踏み固められたアイスバーンの危険性。それに濡れた体では風邪を引く。医療の発達した人間と違い、馬の病気は命取りだ。なるべくハルや他馬たちにノンストレスで過ごしてもらいたい。

 うんざりしつつも志穂が告げたところで、父親は豪快に笑って告げた。


「要は屋根があればいいんだな? なら農業用のビニールハウスなんてどうだ?」

「ハルは春野菜じゃねえ——」


 言いかけて、志穂は言葉を呑んだ。


「——待って、アリかもしれない……! 雪も防げるし、地面は土。しかもいくらでも長くできる……」

「お前が切り倒した林があるだろ。近々あそこに大型のハウスを建てるんだ」

「マ!? じゃあとっとと建てて! 八百メートルくらいのクソ長いヤツ!」

「ハハハハ! そんなバカみたいに長いハウス誰が使うんだ!」

「私とハルが使うんだよ! 誰が切り倒したと思ってんだ!?」


 かくして数日後、馬房と大型ビニールハウスの建設が始まった。

 これでどうにか冬場の運動量は確保できると安堵した志穂だったが、石崎みたいな人間にナメられない牧場になるためには設備投資を急がなければいけない。


「次にやることは……」


 雪が降りしきる偽ロンシャンをぐるりと見渡し、志穂は当面の目標を定めた。

 幸いにして、財前が建て替えてくれたお金がまだ四百万ほど残っている。うまくDIYしてやりくりすれば、それっぽいものをすぐにでも用意できるはずなのだ。


「よし! すこやかファーム改造計画だ!」


 志穂は意気込むと、さっそく洞爺の町にあるホームセンターへ自転車を飛ばしていくのだった。志穂が雪道での自転車の危険性を知るのはこの直後である。

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