第105話 悪魔が来たる丑三時

 月の光も届かない、草木も凍える曇天だった。

 聞こえるのは風の音。そして柵の向こうの大自然から、クマやシカたちの獰猛な息吹が冷えた空気を伝ってプリンの月毛を、肌を刺激する。


『怖い……』


 夜間放牧は運動量と精神力を鍛える修行だ。なんせサラブレッドは、ゆりかごから墓場まで人間の世話を受けて育つ。それゆえ脅威に満ちた厳しい自然界に身を置くと本能が目覚める——などと言われているが、本質は人間もさほど変わらない。

 置かれた環境が変われば、適応しようとするのはどの生物も同じ。

 プリンは必死に聞き耳を立てて、降りかかる脅威から逃れようと警戒心を高めていた。


『シホ、帰りたいよ……』


 月明かりすらない闇夜、唯一の明かりは放牧地の隅に立てた志穂のテントだけ。ピラミッド型の光が、ぼうっと浮かび上がっている。

 慣れない環境。危険な暗闇。そして自分を知る者が誰もいない心細さ。

 頑張りたいと言ったのに、そんな気力も失せてしまう。だが、どんなに近寄っても志穂の返事はない。『人間は夜、ぐっすり寝るんだよ』とハルが教えてくれたことを思い出して、心細さから泣きそうになる。


『友達って、どうやって作ればいいの……』


 この不安から逃れる唯一の方法は、友達を作ることだと頭ではプリンもわかっていた。放牧地には十数頭の夜間放牧中の一歳馬がいる。彼らとひと言二言でも交わせれば家に帰れるのだ。どう話しかければいいものかわからないが、ただ待っている訳にもいかない。

 一歩は重いが、踏み出さないと変われない。


『頑張らなきゃ……』


 どうにか勇気を振り絞って、放牧地を駆け回る馬たちの輪に加わるべく歩みを進めた。

 暗闇の中、聞こえる足音と楽しげな声を頼りに足を向けていると、三頭ほどのグループを見つけた。


『こんばんは……』


 とりあえず、友達作りは挨拶から。見つけた馬のお尻を嗅ぎに行くも、彼らは拒否して走り去ってしまった。暗闇から突如現れたプリンに驚いたのだろう、『不気味で怖え!』と言い残して。


『い、一生ここから帰れないかもしれない……!』


 プリンは頭を垂れて、大地にくずおれるように横になった。元々、自分から挨拶をしに行くことがなかったのだ。仔馬時代に唯一優しかった黒鹿毛の牝馬もあちらから話しかけてくれたし、友達どころか家族を自称するハルに至っては、プリンの台詞すら奪う勢いで話しかけるばかりだ。


『わたしなんて……話しても面白くないし……』


 あのうるさくてしつこいけど優しい人間みたいに強くなりたい。心ではそう思っていても、プリンの足はなかなか動かなかった。

 そんな時だった。


『やめてよ、痛いよぉ!』


 他馬の悲鳴が、プリンの耳に飛び込んできた。

 とっさに嫌な思い出が蘇って、プリンは耳を畳んで大地に低く寝そべる。それはイジメっ子たちに見つからないように身を隠す姿勢だ。すぐに見つかってしまって意味はなかったけれど。

 なおも暗闇の先から、悲鳴が聞こえてくる。

 自分が危害を加えられている訳ではないのに、蘇るのは苦い記憶だった。


『シホを呼ばなきゃ……』


 志穂ならきっと、あのイジメを仲裁してくれるはず。じっとテントを見つめて志穂が起きてくることを願うも、明かりは煌々と灯ったままだ。その間も、塞ぎ込んだ耳を貫通して悲鳴はまだ聞こえる。


『やめてよぉ!』


 志穂じゃなくてもいい、他の誰かが助けに行ってくれたらいい。

 そんな風に他力本願で、プリンは身を低く屈めて怯えることしかできない。「強くなりたい」だなんて口では言っても、報復が怖くて立ち向かえない。地面に投げ出した体はぷるぷると震えている。

 プリンは知っているのだ。誰も助けてなどくれないことを。


 自身のイジメを助けてくれる者はいなかった。優しくしてくれた黒鹿毛の牝馬とは、放牧地が違っていたのだ。会えるのは放牧へ向かう際に、わずかに顔を合わせるだけ。世話をしてくれた人間がイジメと、プリンと黒鹿毛の牝馬の相性がいいことに気づいた頃には、育成期間は終わって彼女はトレセンに入厩していた。

 もし彼女と一緒だったら、助けに来てくれたのだろうか。そう考えて、プリンは頭をもたげる。


『わかってる……誰も助けになんて行かない……。やり返されるの怖いから……』


 きっと、助けてなどくれなかっただろう。

 最後に会った日、彼女が言っていた言葉を思い出す。


 ——なんでアタシがイジメないかわかるぅ? イジメっ子って自分をザァコだなんて認めたくないから、自分よりザァコなやつをイジメてるの。ダッサーい! だからアタシはイジメなぁい。だってイジメなんてする必要ないくらい強いもん。キャハハハハ!


 彼女は自信に満ちていた。だからこそ強く、イジメに加担もしなかった。

 一方、プリンは自信がまるでない。だからこそイジメられて、イジメっ子たちの自信を下支えする存在になっていた。


『…………』


 プリンの脳裏には、志穂の言葉も過ぎる。


 ——うだうだ言ってくるヤツらを実力で黙らせればいい。


 それに強い母馬、フィオナにも同じようなことを言われた。


 ——強さっていうのはね、体の大きさや速さじゃないの。どんな相手でも毅然と立ち向かう姿勢。自分の正しさを信じて、間違ってるヤツに「間違ってる!」って言ってやることよ。


『……やっぱり、間違ってる』


 プリンは鼻息を吐いた。そして前脚を強く地面に押し当て、勢いよく立ち上がる。背後に見えるテントから、志穂が出てくる気配はない。

 ならば自分が行くしかない。耳は引き絞ったままながらも、プリンはゆっくりと暗闇に向かって歩みを進める。

 本当はただただ怖かった。だけれど、自分のときのように見過ごされたくはない。幸いにして、放牧されている馬はみな一歳馬。年上であるプリンより、馬体も精神も幼いのだ。


 勇気を振り絞って近づく。そこには逃げ惑う仔馬と、それを追いかける三頭のイジメっ子がいた。先ほどプリンが挨拶するも無視して走り去った三頭だ。黒鹿毛の牝馬の言葉が思い出される。

 自分より弱い相手だからイジメる。裏を返せば、三頭がプリンを無視したのは強いと思われたから。


『強くならなきゃ……!』


 プリンは駆け出した。そして、イジワルに笑いながら追い立てる、先頭のイジメっ子に照準を合わせて突進した。

 一歳馬と二歳馬の体格の違い、体重差でゆうに百キロ近い差がある体当たりは、当然ながらプリンに軍配があがる。跳ね除けられたイジメっ子はバランスを崩しつつも無事だ。


『なっ、何すんだよ!』

『お前シホの知り合いだろ!? シホに言いつけるぞ!』


 しかし、とたんにイジメの矛先はプリンに向けられた。強い口調で迫られてとっさに後ずさりしてしまう。イジメを受けていた仔馬はどうにか逃がせたが、矢面にたったとたん過去のトラウマが蘇ってしまって、出かかった言葉すら出なくなる。


『……あの、ね……。その……間違ってると、思う……』

『あ? おれたちに敵うと思ってんのか!?』

『いいじゃん、やっちゃいなよ。数ではこっちのが上でしょ』

『覚悟できてんだろうな、おらー!』

『ひっ……!?』


 じわりじわりと、三頭が囲みながら迫ってくる。逃げ場はないし、そもそも逃げることはできなかった。恐怖で震えて、体が動かなかったのだ。

 結局、誰も助けてくれない。どんなに決意して行動しても、待ち構えるのはこんな結末だ。


 わたしは、強くなんてなれない。

 強くなれないのだから、イジメを受けたって仕方ない。

 遠くテントの明かりの中に、イジメられていた仔馬の姿が見えた。あそこには志穂がいるから安全だ。とりあえず助けられたから、よかった。なら甘んじて、三頭に噛まれよう。

 プリンが諦めて覚悟したそのとき、ひときわ強く風が吹いた。


『な……お、お前……!』


 三頭が突如、プリンから飛び退く。聞こえる声は怯えていた。

 まぶたを閉じていたプリンは目を見開く。それまで暗闇の中にあった放牧地は、光を受けて青く染まっていた。ふいに空を見上げると、分厚い雲間が割れて光が差し込んでいる。

 それは満月よりは心許ない、下弦の月。それでも大地を、そしてプリンを照らし出すには充分だった。

 月夜に神々しい月毛の馬体が浮かび上がる。


『もしかして月毛の悪魔……!?』

『え……?』


 彼らもまた、志穂が流した「月毛の悪魔」の噂を知っているのだ。正しくは、牧場を去る二歳馬が残していったもの。それが巡り巡って彼らの耳にも入っていた。

 そしてようやく、プリンは志穂の優しさに気がついた。


 あの噂はイジメっ子に復讐するためのものではない。

 これ以上イジメを受けないよう、プリンを守るためのもの。


『そうだったんだ、シホ……』


 強くなりたい。自分のためにも、志穂の優しさにも報いたい。

 自らを覆ってしまう臆病を、大地と共に踏み潰し、プリンは力強く叫んだ。


『わっ、わたしは……月毛の悪魔だよ! これ以上誰かをイジメるなら……食べちゃうぞッ!』


 覇気は風に乗り三頭の鼓膜を、そして全身を打ち鳴らした。

 上空の低いところに輝く月は、プリンの影を長く伸ばした。月光を受けて異質な光を放つ毛並み、そしてその強大なシルエットに、三頭は怯え竦んで背を向ける。


『ごっ、ごめんなさーいッ!』


 そして三頭仲良く、放牧地の果てまで走り去った。

 ひとり残されたプリンは振り返る。自身を守ってくれた下弦の月明かりと、背後のテントから漏れる光。その両方に感謝して、ようやく安堵のため息と、耳をピンと張り出すことができた。


『……つ、月毛の悪魔さん、なんですか……?』


 そんなプリンの元に、おずおずと一頭の馬が歩み寄ってくる。先ほど追われていた、イジメられっ子の仔馬だ。近寄りつつも恐れているのか、距離をとって見つめてきていた。

 噂はありがたいけれど、必要以上に怖がられるのでそれはそれで困る。


『い、いちおう、そういうことになってるけど……わたしは、怖くないよ?』

『食べない……?』

『たっ、食べないよ……!』

『よかった……。助けてくれてありがとうございます、悪魔さん……!』


 仔馬はプリンに近づいてきた。震えを感じ取ったプリンは、安心できるようすぐに寄り添う。震えも収まったところで挨拶を交わし合って、プリンはなんとか友達作りの目標を達成した。

 ただ、そんな小さな達成よりも、もっと大きなものを得られた気がした。


『わたし、だいじょうぶかもしれない……!』


 プリンは駆け出した。湧き上がる嬉しさが、勝手に四本の脚を動かしたのだ。仔馬とぴたりと合わせて放牧地をぐるりと駆ける。月に青く照らされた大地をのびやかに小さなストライドで息が切れるまで走り回った。


『そうだ、シホにありがとうって言わなきゃ……。これでシホもおうちに帰れるし……!』


 煌々と灯るテントに近づいて呼びかけるも、返事はなかった。

 それでもシホに出てきてほしかったプリンは、テントの支柱をゆさゆさと鼻で揺らす。揺れるたびに足元のベグが抜け、テントは形を保てず崩壊した。


『……あ』


 あわれ、志穂は仮住まいの下敷きになった。


『わっ、シホ……助けなきゃ……!』


 大慌てでテントをひたすらひっくり返すと、漫画本や魔法瓶とともに何重にも着膨れた志穂がごろりと転がり落ちていた。プリンはすぐさま呼びかけるも目を瞑ったまま返事がない。


『し、シホ……!? もしかして、死んじゃった……!?』


 ハルがよくやるように鼻先で突くと、ようやく返事が返ってきた。


「あはは、あったかいラーメンが見える……。えー、お母さんが作ってくれたのー……? わーい……」

『ねっ、寝たら死ぬよぅ! シホぉーっ!』


 翌日。志穂はひどい風邪を引いた上に翠からこっぴどく叱られ、学校もバイトも休むことになったのだった。

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