第102話 月毛の悪魔にご用心
「なんでも言いな。できる範囲で叶えたげるから」
プリンの背に乗って、志穂は月毛の首の根元に抱きついた。言うべきか遠慮している彼女が落ち着けるように呼吸を合わせて肌を触れ合わせていると、絞り出すような声が聞こえてくる。
『会いたい子がいるの……』
「知り合い?」
『う、ん。その子だけは、優しくしてくれた……』
プリンの頼みは馬探し。話を聞くに、イジメられていたプリンに唯一優しかった馬なのだろう。
プリンの出自は知っている。超一流牧場で生まれた彼女は、そのまま系列グループの育成牧場で育った。となれば探すのは同じ二歳馬、同じ牧場出身の幼馴染だ。志穂は即座に競馬サイトで検索する。
「ダメだ、同期が多すぎる……」
超一流牧場の規模をナメていた。なんせ、プリンの出身牧場では年間六百頭ものサラブレッドが生まれるのだ。ちなみに系列すべて合わせると千頭をゆうに超える。この中から探すとなると大変だ。絞り込むための情報が少しでも欲しい。
「男か女かはわかる? あと毛の色とか」
『女の子……。ハルみたいに黒くて……』
『へへ。それボクだったりして!』
その可能性だけはゼロだが、これでかなり絞られた。同期の二歳馬六百頭の中から牝馬、黒鹿毛と絞っていくと、可能性は三十頭までに絞られる。一枚一枚写真を見せていったものの、プリンは首を横に振っていた。
『見ても、わからない……ごめんなさい……』
「謝んなくていいよ。写真映りの良し悪しあるし、子どもの頃だろうから変わってるしね」
該当する馬すべてにとりあえずチェックを入れていると、見知った二歳馬の名前が目に留まった。
黒鹿毛の二歳牝馬、ファルサリア。
戦績二戦二勝。札幌でのあの新馬戦の翌月、重賞の《札幌二歳ステークス》を獲ってオープン馬になっている。
「もしかしてこのメスガキだったり……しないか」
考えて、すぐ否定した。ファルサリアはどちらかと言えばイジメる側だ。アレが優しくしている姿なんてまるで想像できない。いちおうプリンにファルサリアの写真を見せてはみたものの、『わからない』とのことだった。
「ん〜……」
『えー? シホにもわからないの?』
「できることはあるけど、現実的じゃないね」
こうなると、方法はもうひとつしかない。リストアップした三十頭あまり全員に直接会って聞くしかないのだ。ファルサリアをはじめ半数以上はもう栗東・美浦の両トレセンに入厩してしまっている以上、会うには直接各地の競馬場を回る必要がある。美浦くらいは羽柴の伝手で入れてもらえるかもしれないが、栗東には知り合いがいないのだ。
「しかも昔は黒かっただけで、今は違うってパターンもある……」
探さなければならないのは黒鹿毛だけではない。芦毛もだ。スランネージュのように生まれた直後から芦毛だとわかる灰色の馬もいれば、初めは真っ黒なのに成長にしたがって白化していく芦毛馬もいる。こうなると探すのは大変だ。
そんな志穂の対応に、プリンはまたしても残念そうに首を下げてしまった。せっかく開きかけた心の扉が閉ざされていくような気がする。
「まあ、なんか考えてみるよ。他にできることあったら教えて」
『ううん、もういいの……。迷惑かけて、ごめんなさい……』
結局その後、プリンが口を開くことはなかった。簡単な挨拶や返答くらいはしてくれるものの、心の距離は遠い。
どうすれば、プリンに優しくしてくれた二歳馬に近づくことができるのだろう。馴致やリハビリだけでなく、探偵まがいのお願いまで抱えた志穂の頭は、馬のことでいっぱいになっていたのだった。
*
「加賀屋さん、加賀屋さん……?」
翌日。四時間目を寝て過ごした——国語の授業だったので古谷先生が見逃してくれた——志穂は、小野寺の声で重たい頭を起こした。頬にくっきり残ったシャーペン型の窪み。そしてへばりついた髪の毛を適当に弄んで、背もたれに体を預ける。
ぼうっと霞む視界の中で、クラスメイトたちは思い思いのメンバーと机を寄せて弁当を広げていた。そこに小野寺が自分の椅子と弁当ポーチを持ってやってくる。
「おはよう。すごい寝てたよ?」
「昨日考えごとしてて眠れなくて」
「いちおう聞くけど、馬のことだよね……?」
「晴翔のことなんて考えてる暇ないって……」
「よかった」と口には出さないものの、小野寺は安堵したように頬を赤らめていた。
新学期が始まってから、志穂は小野寺とともに昼食を食べる仲になっていた。カースト上位にいた彼女が突然ケモノ臭いぼっち女とツルみ始めたとあってクラスは騒然。大半は「加賀屋が小野寺の弱味を握っている」と思い込んでおり、志穂への見方は以前よりも厳しいものになっている。
が、クラスメイトが何を思い巡らせているかなど志穂にはまるで興味がない。遊びの誘いどころか話しかけられることすらない現状は、そのぶん馬のことを考えられるのだから快適そのものだ。
お手製弁当に黙々と箸を伸ばしていると、向かいに座った小野寺が尋ねてきた。
「そういえば、考えごとって?」
「イジメられてるんだよね」
「えっ……」
ボソリと志穂の呟いた言葉で、小野寺どころか教室じゅうが凍りついた。動揺する一同のことなど露とも知らず、志穂は小野寺にだけ聞こえるように続ける。
「預かってる馬が、昔遭ったみたいでね。どうにかしてあげたいんだけど」
「よ、よかった。加賀屋さんの話じゃないんだね……?」
「なんで私?」
「と、とにかく。その子のために何かしてあげるの?」
志穂はプリンの現状を説明した。幼少の頃にイジメを受けてしまったからか、あまり心を開いてくれない。それでも信頼して頼まれたことがある。唯一優しくしてくれた馬に会わせてほしいという願いに応えたい。もちろん、イカれたホースマンだと悟られない程度に適当にウソをついている。
「要は、プリンちゃんの友達を探したいんだね?」
「ただ、候補だけで四十頭くらいいてさ。一頭ずつプリンを引き合わせればわかるだろうけど、そんなん無理だし」
「人間だったら、SNSで呼びかけられるのにね。クチコミ効果で」
「馬はスマホ持ってないからなあ」
馬と喋れる志穂からすれば、馬もほとんと人間と変わらない。それでも大きく違うのは、離れた相手と連絡を取る手段がないことだ。SNSであれテレビであれいくらでも情報を得られる人間と違って、馬には言葉通りのクチコミしかない。
「クチコミ……」
そう言えば、レインやシルヴァグレンツェは初対面なのに志穂が喋れることを知っていた。あれはクリュサーオルが折りにふれて触れ回っていたからだろう。
「そっか。クチコミならワンチャンあるかもしんない」
「え? 馬の? 喋れないよね……?」
「あ、そ……そうだったねー。てへぺろー」
怪訝な顔をする小野寺を適当にごまかしつつ、志穂は再び考えを巡らせる。
必要なのは、馬の耳目を惹くような噂だ。どんな噂を流せば、プリンをイジメなかった友達だけを見つけることができるだろう。
「ダメ元だけど、やってみるか」
ちょうど今週。洞爺温泉牧場からトレセンに入厩する予定の二歳馬がいる。彼らに協力してもらおうと決めて、志穂は弁当をかきこんだ。
*
それから数日後。早朝の栗東トレセン。
『ねえねえ知ってる? 月毛の悪魔の噂!』
実績馬から新馬まで、区別なく調教へ向かう栗東の朝は、まるで通勤ラッシュのターミナル駅のように行き交う馬で混雑していた。
たいした娯楽もない馬たちにとっての関心事と言えばただひとつ。どこかの誰かが言い出した、突拍子もない噂話で盛り上がることである。この間までは「馬と喋れる人間の噂」が世間話の大ネタだったが、今回はそれ以上にセンセーショナルな噂が飛び交っていた。
『そんなの興味なぁ〜い』
『じゃあ教えてあげるね! 私もさっき聞いたんだけどね。えっとね、えっとね!』
退屈をあくびを噛み殺してファルサリアは無視を決め込むつもりだったが、隣につけてきた別厩舎の二歳馬はお構いなしだ。話したくてたまらないとばかりに、断られても気にせず告げる。
『すっごく怖い月毛の悪魔がいてね! その子を噛んだり蹴ったりした子は、頭からムシャラムシャラと食べられちゃうんだって! でも身に覚えのある子は、悪魔の使いの人間に謝れば許してもらえるんだって!』
『変なウワサぁ〜。謝ったところで人間には伝わらないのにぃ〜』
『え? こないだ馬と喋れる人間がいるって噂になってたよ!? きっとその人間が悪魔の使いなんだよ!』
『ふぅ〜ん』
『じゃ私、他の子にも伝えてくるー!』
ぴゅーんと走り去った噂好きの二歳馬は次々に噂を広め回っていた。ただこの二歳馬は少し流行に乗り遅れている。おどろおどろしい月毛の悪魔の噂は今や栗東じゅうに広まっているようで、ファルサリアが聞き耳を立てるだけでも周りの馬たちが世間話のひとネタにくわえて盛り上がっていた。
ただ、ファルサリアに噂は通じないのである。
『だって、馬と喋れるメスガキの噂流したのアタシだしぃ〜♪』
栗東に志穂の噂を流したのは、誰あろうファルサリアだった。隣の馬房のセンパイは『知ってるわ』のひと言だったが——知ってるなら言えよとは思ったが——、ごくまれに目撃証言も上がってどんどん信憑性が増しつつある。
だから、ファルサリアが噂を恐れることはない。
あの
『みぃんな、根も葉もない噂に踊らされておもしろぉ〜い♪ キャハハハ!』
『そ、そうだよな……。ウソだよな……?』
そんなファルサリアの隣に、今度は別の二歳馬がやってくる。
同じ牧場出身の幼馴染で、よく放牧地を我が物顔で走っていたグループの一頭だ。
『はァ? なんでビビってんのぉ? ダッサーい』
『だ、だってよ!? いたじゃん、妙な毛色のヤツ! アレが月毛の悪魔だったら!?』
『ふぅ〜ん? じゃあ、噛んだり蹴ったりしたから怖くなったんだぁ? 頭から食べられちゃうもんねぇ、バリボリメキメキ……グシャアって!』
『ひいっ!? や、やめろよ!?』
『キャハハハ! バァ〜ッカじゃないのぉ? あんなの単なる——』
そこまで言いかけて、ファルサリアは閃いた。
怯える馬を見て、悪知恵かイタズラ心が働いてしまったのだ。悪いメスガキの本領発揮である。
『——噂でもないかもぉ。アタシの知り合いも、突然消えちゃってさぁ? そういえばあの子も昔、月毛の悪魔をイジメてたなぁ〜?』
『う、ウソだろ……!?』
『さあ〜? でも、月毛の悪魔って実はいるのかも〜♪』
幼馴染の二歳馬から、サッと血の気が引いたのがファルサリアにはわかった。
やっぱりからかうのは面白い。いい気味だ。
『おれはどうすればいいんだ!? 喋れる人間を探せばいいのかっ!?』
『知らなぁ〜い。お部屋の隅でぷるぷる震えて、悪魔がくるのを待ってればぁ?』
『おい! 助けてくれよぉ!』
『アタシ関係ないしぃ〜? アンタと違って、噛んだり蹴ったりしてないし〜』
『で、でもお前! 馬と喋れる人間知ってるってこの間——』
『こんばんは、月毛の悪魔で〜す♪ 悪い子は食べちゃうぞぉ? バリボリメキメキグシャ——』
『いっ、イヤだァーッ!!!』
叫んで、イジメっ子らしい馬はおしっこを撒き散らしながらどこかへ飛んでいってしまった。
『キャハハハハ! ブザマぁ〜♪』
ファルサリアは気分爽快だ。これが根も葉もない噂だと知っているファルサリアは、月毛の悪魔に身に覚えのあるヤツすべてを怖がらせることができる。
『次はどの子に話そうかなぁ〜! 楽しみ〜♪』
退屈だったトレセン暮らしに最高の娯楽ができたファルサリアの足取りは、軽やかだった。
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