第75話 白紙の夢は秋に実る

 白紙だった進路指導用紙の第一希望欄を夢で埋めて、晴翔は頭を下げていた。向かい合う母、翠と洞爺ダービーの日に帰国した父親、義徳の表情はいずれも堅い。ただそれ以上に晴翔の決意も固く、北野家のリビングには剣呑とした静寂に包まれていた。

 口を開いたのは翠だ。大きなため息とともに頭を抱えて、絞り出すように告げた。


「私は反対だね。どんだけ命に関わるかわかってないだろ」

「落馬のリスクは百も承知です」

「何が承知なモンか。その身長で騎手なんてやってみろ。どれだけ体重制限が過酷か知らないからそんなことが言えるんだ」

「承知しています。それでも俺はやりたいんです」


 反対されることは目に見えていた。晴翔は目を背けず、母親を見つめる。視線は敵意でもあり蔑視でもあり、赦しを乞う子供のようでもあった。晴翔が抱きうる感情のすべてをぶつける。

 夢に、そして両親に挑む決意を固めたのは、賭けてみようと思ったからだ。

 古谷先生の言葉。そして馬産歴半年にも満たないのに人一倍どころか十倍ほどの努力を重ねている馬事研の後輩に負けたくない。


「まったく……。父親からもなんか言いな!」


 翠に小突かれた義徳は終始無言のまま、晴翔の出方を伺っているようだった。黙したまま口元の髭をさすり、背もたれにその長身を落として独り言のようにつぶやく。


「俺は十七のときに十五センチ伸びて、騎手を諦めた」


 晴翔の父、北野義徳。彼は身長百八十九センチの高身長だ。母、翠も百七十を越える高身長が約束された血統。今さらそんなわかりきったことを諭すのは、晴翔に対して暗に示すためだ。

 お前は騎手には向かない。

 ただ、そんなことは晴翔も百も承知である。


「俺もそうなるとは限りません。たしかに俺はもう競馬学校の入学規定身長は越えていますが、合格者には例外もある。第一、まだ受かると決まった訳でもない」

「たしかにな」

「なに納得してんだバカ! 子どもを危険な目に遭わせられんのか!? だいたい牧場はどうするんだい!」


 義徳は「それもそうか」と再び髭を撫でながら思案する。

 彼は長身で肩幅も広い、熊のような牧場長だ。言葉数も少なく、表情の変化も乏しいため、何を考えているかわからない。ただ物思いに耽っているだけでも周囲を威圧する迫力があり、従業員たちもたまにしか帰国しない義徳を目にすると堅くなるほど。

 そしてぽつりと漏らす言葉も、真意を図りづらい。


「浩二の娘は元気か?」

「志穂だろ? アンタの親友の娘だって言うからどんなクズがやってくるかとこっちはヒヤヒヤもんだったっての」

「クズだったか?」


 翠は大袈裟に肩をすくめてみせた。


「たいした子だよ。トンビがタカを産むとはこのことだね。根性があるし、なぜか馬も妙に懐いてる。馬と喋ってんじゃないかなんて思っちまうくらいだよ」

「浩二の娘ならそれくらいできるだろう。アイツは昔から破天荒で掟破りだったからな」

「アンタらの関係性なんて知らん!」


 ひとり呟いてくつくつと笑う義徳を遮って、翠はテーブルに置かれた進路希望用紙に手を叩きつけた。


「ともかく私は反対だ! 騎手がやりたきゃウチの庭でやんな!」

「でも俺は——」

「日本がいいのか?」


 反抗しかけた晴翔に義徳が割って入る。そして意図が掴みきれない発言を補足するように、義徳は髭を弄びながら続ける。


「俺は今、欧州を狙っている。今年買ってきた肌馬はTreveトレヴ牝系で、父をSeaTheStarsシーザスターズ

「またどこの馬の骨ともわからん馬を買ってきたのか!? いくらしたんだよ……」


 翠は知らなくとも、晴翔もその名は知っていた。馬の骨どころかどちらも大優駿だ。

 Treveはオルフェーブルの凱旋門賞を阻み、翌年には連覇を果たしたフランスの誇る名牝。

 SeaTheStarsは新馬戦以外負けなしの九戦八勝、凱旋門賞を含むG1だけで六勝という鳴り物入りでスタッドインした名種牡馬。父としてもマイル戦無敗のバーイードを含む怪物を何頭もこの世に送り出している。


「もしお前が騎手になるなら、この肌馬には好きな馬をつけさせてやる。ただし条件は欧州でデビューするか、最低三十一勝する覚悟があること」


 JRA競馬学校の教育課程は三年間だ。来年の種付け、再来年の出産がうまくいけば、ちょうど晴翔が卒業する頃に、仔馬はデビュー戦を控える二歳馬となる。

 そして三十一勝というのは、中央競馬でG1レースに騎乗できる最低条件。勝ち鞍が三十一勝に満たなければ、たとえ主戦騎手だろうとG1レースでは乗り替わりが必要になる。

 「何を言ってんだ」と頭を抱える翠の一方、晴翔には義徳の真意がわかった。


「俺は日本の馬が好きです。勝つなら日本生まれ日本育ちの馬で、日本人の騎手で勝ちたい」

「その通りだ。ならば励め」


 進路希望用紙を翠の手から引き抜き、義徳は保護者記入欄に流麗な筆記体でサインした。


「なんで英語でサインしてんだよこのバカは」

「……あ、間違えた」


 真下に漢字でサインを書き直して、義徳は何も言わずに背もたれに体を預けた。途端、立て付けの悪かった背もたれが根本からぼきりと折れ、義徳の巨体はそのまま床にバタンと倒れ落ちていた。


「……すまん。椅子壊れた」

「あーあー、ウチの男はどうしてこうバカなのかね……」


 進路希望用紙をひったくって、晴翔は学校へ向けて駆け出した。

 踏み出した一歩は小さいながらも、大きな夢への第一歩。逸る気持ちを自転車のペダルに伝えて、洞爺の市街地へ続く一本道を心晴れやかに降っていった。


 *


「す、好きです! 付き合ってください! ううぅ……」


 小野寺は頬を真っ赤にしたまま、そのまま消えてなくなってしまいそうなほど小さくなっていた。


「それじゃ俺は好きになりませんよ」

「えええ〜ッ!? 練習だからってひどいよ加賀屋さん!?」

「ごめんごめん」


 あまりに慌てる小野寺の様子がおかしくて、志穂はニヤニヤが止まらなかった。

 ことは数時間前。

 レインのリハビリに付き合ってくれている小野寺が、晴翔への告白の練習を持ちかけてきたことに始まる。せっかくだから本格的にやろうと考えた志穂は、カメラロールの中にあった口取写真の晴翔の顔面を拡大印刷してくり抜いて、即席のお面を作っていたのだ。


「俺は年上の頼りがいのある女性が好きです」

「え……そうなの……?」


 全然似ていない晴翔のモノマネは、志穂の悪ふざけ。それでも志穂が知る限りの晴翔の情報を小出しにすると、小野寺は興味深そうにふんふん頷いていた。

 ただ、志穂にも「晴翔は茜音が好き」と言い出すだけの度胸はなかった。そもそも茜音が晴翔を相手にしているようには見えないのだ。この間それとなく探ってみると、「年下の男の子をからかうのは楽しい」と笑っていた。悪い女だ。だけど気持ちは志穂にもわかる。

 悪趣味な晴翔お面を投げ捨てて、志穂は告げる。


「正直、どこがいいのかわかんないんだよねー。人気の理由はわかるんだけど推したくないみたいな。一番人気を買いたくない気持ちと似てる」

「競馬に喩えられてもわからないよお……」

「でも競馬に喩えた方が会長は喜ぶと思うんだよね。あれはあれで馬大好きだし、騎手になろうとしてるくらいだし」

「やっぱり私も騎手になるしかないかな?」

「極端すぎる……」


 しばらく話すようになってわかったことだが、小野寺はいろいろと極端な女子だった。

 大きくて苦手だという馬も、晴翔が乗ったという理由だけでレインに乗るようになった。厳しい体重制限をしていると聞けば自分も体重管理に気を配るばかりか低カロリーの軽食レシピをたくさん覚えて持ってくるようになったし、晴翔が志穂にだけ冷たいのは何か理由があると探り回り、可愛らしかったふたつ結びを切ってまで志穂の髪型に寄せている。

 晴翔が好きなのはわかるが、小野寺はやることなすこと極端だ。晴翔が食ったといえば馬糞でも食うんじゃないかと志穂はひそかに思っている。


「そういや会長、馬糞ボロの臭いがすると懐かしいって言ってたね。実家のような安心感ってヤツかな」

「ねえ、加賀屋さん。レインの馬糞って……」

「レイン、この人アンタのうんこ欲しいんだって。あげていい?」

『えっ……なんでですか……怖い……』


 レインは耳を引き絞っていた。そりゃそうだ。

 小野寺自作のおからクッキーを食べながら放牧地のど真ん中で休憩代わりのピクニックをしていると、大村がやってくる。志穂がスペースを作ると「ヨッコイショコラ」と体感気温が二度くらい下がるジジイギャグとともに腰を下ろし、一枚の紙切れを出してきた。


「志穂ちゃん。そろそろハルちゃんの馬名登録をしたほうがいいよ」

「ハルの馬名かあ〜……!」

『ボクはハルじゃないの?』


 そばでニンジンを噛んでいるハルの言う通り、ただハルでもいいじゃないかと志穂も思う。清々しい春の陽気を感じられるいい名前だ。しかし同じ名前の馬は過去に何頭かいるので、別の名前をつけてやりたい気持ちもある。


 どれだけ馬産の腕を磨いてもどうしようもないのがネーミングセンスだ。

 レインのときは渾身の名前を捻り出せたが、あれも悩みに悩んだ末のもの。つけるならプレミエトワールや、クリュサーオルと名付けた斉藤萌子のように先祖から連なる言葉や神話などからつけてあげたいと欲目が出てしまい、結果はボツ名の連続である。


「クリスもマリーも《エトワール》ってついてるから、ハルにもつけてあげたいんだよね」

「なら候補はハルエトワールかい?」

「でもマリーとは馬主違うじゃん。そういう名付けってアリなの?」

「ああ、デアリングタクトって馬がいてねえ」


 大村が言うには、かつての三冠牝馬デアリングタクトは曽祖母がデアリングダンジク、祖母がデアリングハート、母がデアリングバードとそれぞれ馬主が違うにもかかわらず勇猛果敢を意味する《デアリング》の名が引き継がれている。デアリングタクトの姉妹にもこの名は引き継がれていて、おそらくデアリングタクトの仔にもその名は続くと見られている。


「母系での血の広がりを牝系というんだが、この場合はデアリング牝系だな」

「なんかいいね、それ。うちもエトワール牝系がいいな」

「あるいは冠名をつけるってのもアリだねえ」


 あるいはレインが昔いたクラブのように、《マニー》と特定の名前をつける命名案。これを冠名という。

 大村が言うには昔は冠名のほうが多かったそうで、《トウショウ》や《メジロ》、《ダイワ》など競馬史に名を残す馬が多い。現在でも有名どころだと《ダノン》や《アスク》、《ニシノ》、《カレン》などは現在でも現役だ。


「カレンもいるんだ……」


 小野寺がボソリと呟いた。そういえば下の名前は花蓮である。


「カレンチャンとかいたりしてね?」

「ははは。いるんだな、これが!」


 いた。考えることは皆同じである。

 そして皆同じようなことを考えるから名付けは大変なのだ。


「まあ、じっくり考えるといいよ。ハルちゃんの場合は焦っても仕方がないからねえ」


 小野寺にもらったおからクッキーを食べながら、大村はのんびりしていた。


 夏休みは終わり、もうすぐ天高く馬肥ゆる秋が来る。本格的な秋競馬シーズンの到来だ。志穂が縁のある馬たちも、秋には激闘を控えている。

 クリュサーオルは十月のG2京都大賞典からG1ジャパンカップ、スランネージュとプレミエトワールはその翌週のG1秋華賞。そして生意気なメスガキことファルサリアは二歳G3アルテミスステークスに登録している。

 一方、ハルはまだまだ先だ。羽柴によると順調にいっても香元厩舎への入厩は三歳の春になるという。


「まあ、それまでに思いつけばいいか……」


 あまりにも思い浮かばないので放牧地に寝転んで、志穂は徐々に高くなっていく空を見上げた。視界の端に入り込んできたハルに額をぺろぺろと舐められたので、お返しに口元をくすぐってやる。


『シホ〜、あそぼ〜よ〜! ボクもっと遊んで食べて強くなりたい〜!』

「そうすっかー!」


 立ち上がり、勢いそのままハルの背に跨った。ハルの場合は焦っても仕方がない。だから三月の春までにできることをやるだけだ。


 そして季節は移ろい十月。

 いよいよ秋競馬が熱気を帯び始める。

 初戦は覚醒した黄金の末脚の四歳牡馬、クリュサーオルだ。

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