第74話 諦めたら届かないよ

『あは! 勝利の銀色のヤツよろしくね? 敗北者ちゃん⭐︎』

「はいはい」


 模擬レースの直後。志穂はハルを連れてスランネージュの馬房を訪れていた。勝利の美酒のプルタブの音で即座に開いた口に缶を突き刺して、志穂も自身のコーラを煽る。ハルはご褒美のニンジンだ。

 スランネージュはひと息でビールを干して、ゲップとともに缶を吐き捨てて告げる。


『これでわかったでしょ? 本気でやって負けるのがみじめだってさ』


 模擬レース自体は大方の予想通りだ。ハルは健闘むなしくも十秒近い大差をつけられ、完全敗北を喫した。実際のレースであれば、次走の出走にペナルティが課せられるほどのタイムオーバーである。

 

「そうね、勉強になったよ。これまでやってきたことが間違いじゃないって」

『うん! ボクすごくがんばった! シホもすごくがんばってた!』

「それよ。やっぱ身体能力だけじゃなくて経験も大事っぽいよねー」


 だが、志穂もハルも負けても決して落ち込んだり塞ぎ込んだりしない。完敗の悲しさなど微塵も感じさせないほど、晴れやかな気分でお互いの健闘を讃えあっている。


『はいはい負け惜しみ乙。ケンカ売ってそのザマとか、今のキミたちの方がダサくない?』

「そりゃま、悔しいっちゃ悔しいけどさ。本気でやりきって負けたなら文句なしっしょ」

『ネージュお姉ちゃん、また走ろうね! 今度はボクが勝つよ!』


 もちろん、スランネージュも全力で走って本気で勝ち切った。おとなげなくぶっちぎったのは、姉に舐めさせられた辛酸を妹にぶつける憂さ晴らしだ。そんな本気の走りに途中までとは言えついてきたハルが本気だったことは疑いようがない。ゴールした直後の疲弊ぶりからスランネージュにも理解できる。

 ただ、どうしても理解できないことがあった。

 それがスランネージュには不思議で、かつ、神経を逆撫でする。


『……なんでよ。なんでそんな笑ってられんの? キミたちは本気出して負けたんだよ? だったら——』

「みじめじゃない。本気でやって負けんなら、それは誇らしいことだよ。手抜きしたなんてウソついて逃げるよりね」


 ***


 ——みじめなのは嫌だ。


 だから、いつも本気で走っていた。

 故郷の母は仔馬たちは牧場せかいを救ってくれたなんて言うけれど、実際は違う。

 ただ、みじめな自分が嫌だった。

 自分はみじめじゃない。そう思いたかったから走り続けてきた。

 自分は誰より強いのだと証明したかった。みじめさに打ち勝ちたかった。


 ——みじめなのは嫌だ。


 だけれど、あの女の登場で私はまたみじめな仔馬に逆戻りした。

 本気で走って勝てないのだ。

 否応なく、自分より優れたモノの存在を認めることになる。

 これ以上にみじめなことなどない。


 忘れようとしてきたみじめな頃の記憶ばかりが蘇る。

 ひとり食べ物を独占して、言い訳をしていたあの頃。

 姉妹を殺してしまったのに何もできなかったあの頃。

 ふたりの母の愛を奪って、のうのうと育ったあの頃。

 

 何もできない、誰も救えないのにただ生きているみじめな仔馬。

 もうあの頃の弱い自分には戻りたくない。

 これ以上、みじめな目になんて遭いたくない。


 ——みじめなのは嫌だ。


 賢い頭はよく回り、私はひとつの方法にたどり着いた。

 みじめが嫌なら、本気で走って負けたなんて認めなければいい。


 手を抜いていたことにすればいい。

 本気出せば私の方が強いのだ。

 疲れるから、ケガしたくないから本気を出さないだけ。

 そう思い込めば負けたってみじめさとは無縁でいられる。


 ***


『……何も知らないのに勝手なこと言わないで』


 そっぽを向いてしまったスランネージュに、志穂はスマホを取り出しながら言った。


「ごめん、もう知ってるよ。ユキナ。アンタの故郷、ひだまりファームのみんなと会ってきた」

『お節介な人間だね……』


 これが証拠だと、ひだまりファームの佐々木夫妻や繋養された母馬たちと撮った写真をスランネージュの眼前に見せて、志穂は続ける。


「アンタのおかげで食えてるって人も馬も感謝してた。近々アンタのお母さんも戻ってくるってさ」


 スランネージュがひだまりファームにもたらした経済効果は莫大だ。

 馬主が牧場再興に尽力してくれたこと、そして比較的アクセスのいい千葉には連日ファンが訪れ、グッズの売上や寄付金によって経営は回復。志穂が話を聞いた二頭の仔馬もすでに馬主は決まっており、来年には売りに出された竈馬を買い戻せるほど。


『……だけど私は姉妹を殺した。自分だけ助かればいいと食事を分けなかった』

「死んじゃったモン悔いたってしょうがないっしょ。アンタも私も生きてんだしさ」

『ボクもね!』


 同じく家族を殺した志穂は、自分に言い聞かせるようにつぶやく。

 自分が生まれなければ母親は死ななかった。だからと言って、生まれなければよかったなんて「もしも」を考えることにはまるで意味がない。死んでしまったものはどうしようもない。そのぶん好きに生きるだけだ。

 押し寄せる悲しさをハッピーで押し切って、志穂は微笑む。


「アンタはホントのアイドルだよ。死にかけた牧場を救って、今じゃ新しい命まで支えてる。そんなすごいヤツが手抜いて走って——いや、手抜きしたなんてウソついて逃げてていいワケ? 牧場の連中に顔向けできんのかよ?」

『…………』


 顔を背けたスランネージュに近づいて、志穂は両手で頭を抱きしめる。言葉にならない声をあげて暴れ出しても離れようとはしない。落ち着けて、まっすぐ届くように耳元に囁いた。


「本気で走ってたって正直に言いなよ。本気でやって負けたんだって、逃げずに言え」

『そんなみじめなことできないって……』


 スランネージュは幸せな馬ではなかった。彼女を蝕んでいるのは壮絶な過去の体験だ。悔やんでも悔やみきれない経験だが、それを乗り越えてでも彼女は変わろうとしている。

 確かにプレミエトワールは強い。だが、プレミエトワールに負けたからと言ってスランネージュが弱くてみじめな訳じゃない。

 誰しもが、口を揃えて言っているのだ。

 今年の三歳牝馬は、頭ひとつ抜けているふたりのヒロインがいる。

 そんな人々の記憶にも記録にも残る強いアイドルホースが、自分の走りを誇れないこと。負けたからみじめだなんて思い込んでいることが志穂には許せなかった。


「アンタ賢いくせに、そういうトコはバカだね……」


 賢すぎて硬くなっている頭をくしゃくしゃに撫でて、志穂は息を吸い込んだ。


「アンタは強いんだよ。もうみじめな仔馬なんかじゃない。だから自分に嘘ついて逃げんな。本気で走って負けたんだって胸張って生きてみろ。がんばったアンタをみじめだなんて笑うヤツは、私がブン殴ってやる!」


 檄を飛ばしても、スランネージュは悲しげに黙したままだった。

 やっぱり、こんな根性論じみたものでは届かないのか。自分の力不足を痛感した志穂に、答えが返ってくる。それは、ハルに向けられたものだった。


『ね、妹ちゃん。キミはお姉ちゃんに勝てると思う?』

『うん! 勝てない!』


 ニンジンをバリボリ食べながらも、ハルは即答して続ける。


『でもこれからボクはもっと強くなる! お姉ちゃんがテッペンで待っててくれるもん!』

『テッペンは、キミじゃ無理かもしんないよ? 諦めた方が幸せかもしんないのに?』

『え? 諦めたらテッペンには届かないよ?』

『…………』

『あれ? ボクなんか変なこと言った?』


 しばしの沈黙。その直後、スランネージュは頭を振って笑い出した。『バカバカしい』。まるで嘲笑するような棘のあるものに思えた志穂はまなじりを硬く結ぶも、答えは違っていた。


『キミはホント、お姉ちゃんによく似てるよ。走ることしか考えてないんだ?』

『だって楽しいもん! モタおじさんでしょ? ネージュお姉ちゃんでしょ? レインお兄ちゃんとも走ってみたい! もちろんプレミお姉ちゃんとも!』

『……そっか。あの女も、楽しんでるんだろうね』


 短くつぶやいて、スランネージュはふかふかの馬房にごろりと横になった。


『ねえ、シホ。マッサージして。本気で走ったせいで今日は疲れた』

「自分から逃げないって約束したら、いくらでも揉んであげる。どうするよ?」


 ギョッとして二度見するように首だけ上げたスランネージュは、すぐに観念したかのように全身の力を抜いていた。


『ならちょっとだけでいい。全部を受け止めるのは、まだ難しいから』


 *


 そして、八月末。旅立ちの朝。

 牧場に入ってきた美浦行きの馬運車には、相乗りして帰るクリュサーオルが先に収まっている。先に牡馬を入れるのは、牝馬の尻ばかり見ていると牡馬が興奮してしまうからだそうだ。人間に想像すると——想像したくない。


「モタ最低」

『あァ!? 何も言ってねェだろ!?』

「冗談だよ。ま、がんばんな。次は重賞、相手も手強いからね」

『ハッ、世界に比べりゃ大したことねェ。薙ぎ払ってやんぜ!』


 クリュサーオルの次走は、G2京都大賞典に決まった。京都芝二千四百と得意な距離で、後方脚質でも勝ちの目がある。闘志に満ち、子分にも会えてリフレッシュできた彼ならその自信の通りに一掃してくれることだろう。

 そしてもう一頭、ぐうたら芦毛の三歳牝馬が大村に連れられてやってくる。


『またオッサンと一緒に乗るの? 最悪〜』

『口ではそう言うがテメェ、ずっとオレ様の走り見てたよなァ? 種付けして欲しけりゃいつでも言えよ! ゲハハハッ!!!』

『きんも〜ッ⭐︎』

「童貞のくせにね」

『それを言うなよメスガキ!』


 スランネージュは慣れた様子で、クリュサーオルの後方に収まった。するとちらりと志穂を見て、促すように顎を動かす。『ちょっとツラ貸せ』というところだろう。

 引綱を引いて馬運車に入った大村と入れ替わって、志穂はスランネージュの馬体を撫でる。


「ちょっとは気も休めた?」

『ん〜? クソみたいなガキのいる最悪な牧場だったけど、それなりに楽しかったよ⭐︎』

「はいはい。ウソついてないみたいで安心した」


 煽りも無視して頭を撫で回してやると、彼女もそれを振り解こうとはしなかった。

 静かな雪、スランネージュ。

 ほとんど白馬と化した芦毛の馬体がリフレッシュできたかどうかなんて触れてもわからないが、少なくとも心境の変化はあったらしい。ひと安心した志穂は、懐から缶ビールを取り出してやる。

 カシュっと小気味のいい音、それをゴクゴクと喉を鳴らして飲み干す景気のいい音。アイドルとしてどうかと思うが、この光景もしばらくは見られない。

 ご機嫌に『生き返るーッ!』と叫んで、スランネージュはやおら尋ねてきた。


『キミはレース見にくるの?』

「もう夏休み終わっちゃったから無理かな。京都は遠いし」

『ならそのあと。終わったら故郷の牧場に帰るって話だよね?』


 スランネージュの次走は秋華賞。その後は状態次第でもう一度京都でのレースに向かうと田端厩舎からは聞いている。それが終われば年内は千葉のひだまりファームで放牧オフだ。


「それも無理。てか、そんなに私に会いたいん? 好きになっちゃった?」

『そうかそうか。直接、私の活躍を聞かせてやれないなんて残念だよ〜♪』

「へー、どんな活躍する予定なワケ?」


 スランネージュは鼻息荒く、首を大きく振って答えた。


『私が勝つ。そしてキミの推しを引きずり落として、ファンにしちゃう⭐︎』


 外厩にやってきたときと同じ、馬なのに猫被りなアイドルトークで、彼女は自信満々に鼻を鳴らしていた。唯一初対面のときと違う、勝ちへの意識をにじませて、志穂にファンサの代わりのゲップをくれた。死ぬほど臭い。まったく、どんなアイドルだ。

 何か気の利いたことを言おうとしたが、別れの時間は迫っていた。

 馬運車の荷台から降りると、観音開きの扉が閉まり、昇降用のスロープがゆっくりと畳まれていく。隙間からずっとこちらを見ている彼女に、志穂は志穂なりの応援の言葉を送った。


「やれるもんならやってみな」

『やってやるわよ、本気でね』

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