第56話 競馬の熱を君に捧ぐ
かくして、洞爺ダービーは当日を迎えることとなった。
天候に恵まれ良馬場。洞爺温泉牧場芝コース前の仮設スタンドは、志穂の予想を上回るほどの賑わいを見せていた。駆けつけたのはビラを見た周辺住民ばかりではない。花村がSNSで拡散したためわざわざ洞爺までやってきた物好きなマニアや、地元のケーブルテレビ局のカメラも入っている。
ゆえに志穂は地獄だ。
「志穂、焼きそば足りないぞ! もっと早く焼けないのか!?」
「全力で焼いてんだから黙ってろクソ親父!」
想定以上の客入りに、すこやかファーム総出の仮設屋台はフル稼働。焼き地獄だ。
ホットプレートで焼く特製フランクフルトと焼きそばは、作っても作っても飛ぶように売れる。まるで終わりがない熱い戦いを繰り広げる合間にも、次々と顔見知りが挨拶にやってくる。
中学の同級生たちや、マニーレインを救ってくれた記者の花村。そして羽柴は盛岡で調教師をやっている父と旅行がてらの挨拶に来てくれた。娘と同じく、父も髪の毛はふわふわだ。せめて頭までふわふわでないことを祈りつつ、志穂は芝コースに目をやった。
一般開放された芝コースは、大勢の家族連れで賑わっていた。行われているのはレース前の催し物、乗馬体験だ。晴翔や牧場の従業員が乗る馬に子どもを乗せて、ゆっくり常足で回るリアル・メリーゴーラウンド。
一方、乗馬が怖い子ども達は、当歳馬とのふれあいコーナーに列をなしていた。一様に楽しむ子ども達とは違って、仔馬たちにとってはれっきとした調教の一環。たくさんの人に慣れると後々の馴致やレースに経験が生きるそうで、志穂もついでにハルも預けている。
そちらの様子も見に行きたいが、今日は予定でぎゅうぎゅう詰めだ。志穂は父親に焼きそばの調理を任せ、エプロンを脱ぎ捨てる。
「そろそろ行ってくる。あと任せた!」
「おう、やってこい!」
志穂が向かった先は『レース出場者受付』と張り紙が出されたテントの前だった。
出場者用のゼッケンを準備していた茜音と古谷先生に礼を言って、状況を確認する。想定よりエントリーが多く急遽予選会を開催したようで、その司会を勤めてくれた古谷先生はすでにクタクタだ。
「先生、お疲れさま。焼きそばとフランクあるから食べてよ」
「タダ飯!? やったー!」
即座に馬ヅラを脱ぎ捨てて焼きそばをすすり始めた古谷先生を横目に、志穂は茜音から出走予定者のリストを預かった。これを拡大印刷して掲示板に張り出せば、それがレーシングプログラムになる。
祭りはここからが本番だ。
「茜音ちゃんさん、盛り上げよろしく!」
「まっかせなさい! 見事な実況で盛り上げるよー!」
洞爺温泉牧場、一周千四百メートルの芝コースに、十頭立ての移動式ゲートが設置された。興味津々と準備が始まる様子を見つめる人垣を割って、地元小学校のちびっ子たちがゼッケン姿で芝コースへ飛び出していく。
子どもたちの本馬場入場を盛り上げるのは実況を買って出てくれた茜音の声だ。番号と名前、そして勝利への意気込みを読み上げるごとに応援する親御さんたちの声が響き、観客の足はレースを近くで見ようと芝コースの外ラチ沿いに人垣を作り上げていく。
どうかこのお祭りが盛り上がってほしい。それだけが志穂の望みだった。
*
『し、シホさん……。今日はなんだか騒がしくありませんか……?』
「そう? いつもと変わんないと思うけど」
近くで歓声が聞こえていたが、志穂はしれっとマニーレインに嘘をついた。そしてこの日のために用意した真新しい馬具を、慣れた手つきで取り付けていく。
これはあくまでサプライズ。真実は最後まで言わないでおこうとニヤケそうになる頬を押し留めていたが、さしものマニーレインも気づいたようで首を左右にキョロキョロ振り回していた。
『これ、走るときにつけるやつですよね……? い、いったい何を……?』
そろそろネタバラしをしてもいいだろう。ふっくらとしてきたマニーレインの馬体を抱きしめて、志穂はずっと黙ってきた真相を告げた。
「これからレインのレースだよ」
『え……?』
突然のことにマニーレインは固まっていた。リアクションはいまいちで残念だったが、志穂は改めて準備してきたことを説明する。
「軽く流すくらいなら平気だから、心配しないで」
『は、走っていいんですか?』
「約束したでしょ、あんたがヒーローになれるようにしてあげるって」
本当は、屈腱炎が治るまでレースをさせるつもりはなかった。だけれどマニーレインは、トウカイテイオーのようなヒーローになることを夢見て、毎日リハビリを続けている。
屈腱炎は回復はしても完治はしない病気だ。発症してしまえば一生涯に渡ってつきまとう競走馬のガンとさえ言われている。
それでもマニーレインはくじけていない。弱々しく自信なさげな口調ではあるけれど、心の奥底には強い意志を秘めている。
見てくれたみんなに勇気を与えるため、懸命にがんばっているのだ。
「これは家族になったレインへのプレゼント。今日だけはアンタがヒーローだから、思いっきり楽しんでおいで」
『シホさん……!』
マニーレインの反応は伺うまでもない。抑えきれないとばかりに屈腱炎を抱えた前脚でステップを踏み、凝り固まった筋肉を伸ばすように体を揺らしている。一方、馬具を取り付けた志穂もヘルメットをかぶって、屈伸や柔軟を繰り返す。
厩舎の外から聞こえるのは、人間ダービーの歓声だ。悲喜こもごもの喝采は次第に大きくなっている。いよいよ迎える第5レース本番に向けての観客のボルテージは最高潮に達していた。
そのときだった。
「なるほど。それが加賀屋さんの秘密だった訳ですか」
志穂の背筋が凍った。恐る恐る振り返ると、馬房の外に晴翔が立っている。表情は硬い。翠いわくの、何を考えているかわからない中学生男子の姿。
「たいしたもんですよ。愛馬のためにイベントまで企画するなんて……」
「あ、いやさ? 実はね——」
「イモの処分なんて単なる建前。本音はレース経験を積ませてやりたかったんでしょう?」
馬房の中に入った晴翔は、マニーレインの馬体を撫でる。ずっと硬かった晴翔の横顔には穏やかな微笑みが浮かんでいて、志穂は安堵した。馬と喋れる能力がバレずに済んだことはもちろんだが、晴翔も自身と同じだと気づけた。嫌なヤツではあるけれど、馬を愛する気持ちは変わらない。
そして、晴翔は切り出した。
「加賀屋さん、レインに俺を乗せてくれませんか?」
「会長が? 乗馬できんの?」
「中学の地方大会で優勝しましたよ」
「へえ。つまりいい馬に乗って勝ちたいんだ?」
「まあ、それもありますが……」
晴翔はどこか照れ臭そうに苦笑する。こんな風に穏やかに笑うところを見たのは初めてだった。
「俺も、賭けてみようと思ったんです。現役競走馬で負けるようなら、諦めがつきますから」
「なにそれ……?」
「ともかく、お願いします。加賀屋さん。俺をレインの騎手に指名してください」
今回の洞爺ダービーはマニーレインのために企画したものだ。彼を勝たせて、勝利と賞賛を浴びてほしい。本当はマニーレインに乗って晴翔を負かしたい気持ちがない訳でもなかったけれど、一番大事なのは志穂自身の勝利ではない。
「わかった。その代わり、絶対勝て」
「いらん心配ですよ」
差し伸べてきた晴翔の手を握り返した。マメだらけの手と硬い握手をして、厩舎の外へ出る。ちょうど人間ダービーの最終戦で盛り上がる仮設スタンドがよく見えた。
手を貸す必要もなく、晴翔はマニーレインに駆け上った。大きな馬体に、長身の晴翔が見事に収まる姿は、今にも競馬場を駆け出す競走馬と騎手のようで志穂は思わず息を呑んでしまう。
『シホさん。この人間さん、なんだか乗りやすい気がします』
「会長、レインが落ち着いてる。乗りやすいみたいだよ」
「はは。気に入られたようでよかったです」
言って晴翔は乗馬姿勢を変えた。馬の背から腰を浮かせて、鎧にだけ体重をかける乗り方。何度となく映像や、東京競馬場で見た騎手特有のモンキー乗りだ。
「その乗り方しんどくない?」
「馬を邪魔せず、走りやすいようエスコートするのが騎手の務めですから」
「騎手の務めって大げさな……」
背に乗った晴翔の表情は、逆光で伺えない。それでも、志穂が感じてきたいくつもの違和感がようやく結びつく。
最初に挨拶したときのマメだらけの手。長身のわりに少食で晩ごはんを残すこと。競馬観戦しても馬ではなく騎手を褒めちぎっていたところ。そして、牧場を継ぐなんて話のときに曇っていた表情。
「……そっか。会長は、騎手になりたいんだ」
晴翔は答えず、マニーレインの手綱を引いた。
「レインのために加賀屋さんが作ったチャンス、俺も利用させてもらいます」
そして、すでに本馬場入場を控えた乗馬たちの群れの中に走っていく。まっすぐ迷いなく遠ざかっていく人馬一体——ふたりの後ろ姿へ向けて、志穂は声を張り上げた。
「ふたりとも、がんばってーッ!」
晴翔は片手を、マニーレインは尻尾を振って返事を返す。
大歓声に迎えられる五頭の決着を、そして愛馬が勝つところを特等席で見たい。志穂は最後の仕事をすべく、茜音や古谷先生の待つスタンドそばの主催者テントへ向けて駆け出した。
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