第55話 賭けなきゃ意味ない

 十三名の同級生たちは、すでに大海へ漕ぎ出す指針を決めていた。白紙のまま港に取り残されている者はただひとりしかいない。

 北野晴翔、中学三年生。

 夏休みの宿題の空欄は簡単に埋めてしまえたのに、たったひと言書き込めばいいだけの第一希望はいまだ埋めることができなかった。


 日頃の夜更かしのおかげか、背はどうにか成長を止めてくれている。自身の部屋の柱に、毎日のように刻んだ傷は175センチ付近だけ深く抉れていた。このまま止まれ、あるいは縮め。柱の傷を見るたびに自らの生まれを呪わずにはいられない。


「コラ、せっかく志穂が持ってきてくれたのに残すな! もったいないだろう!」

「仕方ないでしょう。イモは腹に溜まるんですから」

「んなこと知らないね! そんな痩せっぽちじゃウチは継がせないよ」


 母、北野翠は女性にしては高い身長172センチ。良質な肌馬を求めて欧州を放浪している父に至っては180を超える長身の血統だ。馬にとっては血は素質だが、人間にとっては——晴翔にとっては重すぎるハンデに他ならない。

 渋々巨大なじゃがバターと格闘していると、翠が「そう言えば」と切り出す。進路志望のことを聞かれないか。肝を冷やした晴翔だったが、心配は杞憂に終わった。A4用紙の束を食卓にドンと置いて、翠は言う。


「そうそう、今年の《洞爺ダービー》は客を呼ぶよ。町じゅうにチラシ貼ってきな」

「はあ……? 今まで通り従業員のお祭りでいいでしょう」

「理由は志穂に聞きな。アイツが言い出したことだからね」


 また志穂かと晴翔は歯噛みする。

 志穂が修行し始めてとからというもの、洞爺温泉牧場は前にも増して明るくなった。もちろん牧場出身のプレミエトワールやクリュサーオルの快進撃が大きな理由ではあるが、彼女の影響がないとは言えない。

 三ヶ月前までは馬に触れたこともないようなズブの素人が、今ではほぼすべての馬を手懐けている。まるで馬と心を通わせているような、馬の神——馬頭観音に愛された少女。

 彼女は恵まれている。一方自身は、どこまでも恵まれていない。


「……残酷だ」


 一度は腹に入れたじゃがいもを、悪いとは思いつつ吐き出して口を濯ぐ。

 馬も人も素質や生まれがすべての世界で、流れに棹をさすのは並大抵のことではない。日課の夜更かしと、これ以上背を伸ばさないためのあらゆる眉唾を試しながら、晴翔はひとり黙々と過去のレース映像を見て、不安定な木馬に跨り研鑽を続けていた。

 この努力も無駄なのかもしれない。頭の片隅で次第に大きくなる、猜疑心と戦いながら。


 *


「八月に牧場まつりをしまーす。よかったら遊びに来てくださーい」


 洞爺の民の食堂たる町一番のスーパー前で、志穂たちはビラを配っていた。

 《第一回 洞爺温泉牧場 洞爺ダービー》と銘打たれた催しは、これまで従業員たちで行っていた遊びの草競馬を、広く一般に開催するというものだ。


 メインレースは5レースの五頭立て、芝千六百メートル《洞爺ダービー》。

 残る4レースは人間による徒競走だ。

 第1レースは小学生一般の《洞爺フューチャリティS》。

 第2レースは中学生一般の《洞爺ホープフルS》。

 第3レースは女性一般の《洞爺女王杯》。

 第4レースは男女混合の《洞爺ヴァーズ》。

 めったに入れない芝コース、さらには実際にゲートから発走できるとあっては、ビラを受け取った人々の反応も好感触だ。競馬に興味がなさそうな子連れのママさんも、楽しそうに子どもと話している。

 もちろん、無類の競馬好きである茜音も瞳をキラキラさせていた。


「志穂ちゃん! あたし事前に叩きレースしていい!?」

「てか茜音ちゃんさんも出るの?」

「だってめったに走れるもんじゃないし! 先生も出ようよ、古牝馬戦!」

「あづい! 蒸れる!」


 問われた古牝馬こと古谷先生——もとい馬のかぶり物で風船を配っている女性は悲鳴まじりの声をあげていた。古牝馬呼ばわりされたことは聞こえてないのだろう、馬耳東風だ。

 その隣では、晴翔がビラを配ってはお年寄りたちを楽しませていた。なんせぱっと見すらりと長い長身で、顔が良く人当たりもいい。好かれない要素が見当たらないと志穂でも思うほどの好青年だ。ただし自分には厳しいので志穂は好青年ぷりを認めてはいないが。


「無茶言ってごめん、会長。これが一番いい方法なんだよね」


 悪びれる様子なく志穂が言うと、晴翔はため息がちに答えた。


「まさか食べきれないイモを処分するためにウチの祭りを利用するとは思いませんでしたよ……」

「まー、いいじゃん? 大勢いた方が競馬は盛り上がるでしょ?」


 そう。この洞爺ダービーは、志穂をイモ地獄から救う蜘蛛の糸だったのである。

 第一回洞爺ダービーの後援に入ったすこやかファームは、草競馬のお祭りを、食の面から盛り上げることになっている。自家製イモをふんだんに使ったじゃがバターやフライドポテトに、伝手で仕入れた焼きもろこしやフランクフルトの屋台。さらにはレースの勝者には、カレーに使える野菜の詰め合わせやいくつか商品を用意している。

 さらに、志穂のイモ地獄脱出策はこれだけに留まらない。


「ねえ加賀屋さん、先生レースの馬券買いたい!」

「馬券はないけど馬鈴薯はあるよ」


 志穂は考えた。馬券があるのだから、馬鈴薯券ばれいしょけんがあってもいいのではないか、と。

 馬鈴薯券。それはイモが当たる馬券である。入場者全員にマークシートを配って、開催される5レースの勝者を予想してもらうWIN5方式だ。全部当たればイモ十キロ、ダメでも参加賞としてイモ一袋がもらえる。もはやイモを配るイベントである。

 足に自信のある人は走って楽しめるし、そうでない人も応援して楽しめる。さらには参加者はイモをもらえて嬉しいし、志穂もイモ地獄から解放される。実に一石四鳥の冴えたやり方だ。


「いやあ、自分が天才すぎて怖いね……」

「そんなアイディアを通すウチもウチです……」

「ま、クズイモの処分はついでだよ」

「そっちは屋台で儲かりますからね。商魂たくましい限りですよ」

「てへぺろ」


 現金な志穂の様子に、晴翔は苦笑して言った。


「加賀屋さんがウチを継いでくれれば、すべて丸く収まるんですがね……」


 これに反応したのは、茜音だった。「きゃあ!」と黄色い悲鳴をあげて志穂と晴翔両名を見比べている。


「えっ! それって遠巻きなプロポーズだよね!? 大胆なことするじゃーん!」


 なぜそうなるのか、牧場を継ぐ気のない晴翔には一瞬理解できなかった。だが瞬時に誤解に気付いたようで、慌てて否定し始める。


「加賀屋さんが俺の妹だったらいいのに、という話です。そもそもタイプじゃないですから!」

「それはそれで腹立つな……」

「え、じゃあ逆にハルトのタイプってどんな子? おねーさんに教えてみなよー?」

「それは、まあ……その……」

「好みは年上? 年下? かわいい系? かっこいい系?」

「それはいいじゃないですか」

「えー、聞きたーい! なら茜音ちゃんにだけ、こっそり! 耳うちして!」


 意中の人に迫られている晴翔は露骨に狼狽えていた。

 一方、勝手にフラれたことになった志穂はただ気分が悪い。今度晴翔が乗る馬に「アイツが乗ったら大暴れしてやれ」と伝えてやろうかと陰湿な嫌がらせに考えを巡らせていたところで、馬ヅラの古谷先生がぽつりとつぶやく。


「北野くんは牧場、継ぐ気ないの?」


 あれだけ茜音に迫られていたのに、晴翔は固まっていた。

 一番に否定したのは志穂だ。


「何言ってんの、先生。会長めちゃくちゃ牧場の手伝いしてんだよ? 馬だって懐いてるし、継ぐ気なかったらンなことやんないって」

「そう……?」


 馬ヅラのまま首を傾げている古谷先生を見ると、どうも殴りたくなってくるから不思議だ。

 晴翔の気が逸れてしまったからか、茜音はつまらなさそうに唇をすぼめていた。


「でもさあ、いいなあ牧場主。あたしもロマン血統で全競馬ファンの脳を焼きたい!」

「ロマン血統って何?」

「あたしの夢はトウカイテイオー子孫の《クワイトファイン》! 滅亡しかけのヘロド系を再興する!」

「へえ、テイオーって子孫いたんだ。レインに教えてあげよ」


 茜音や志穂が盛り上がる中、晴翔の気持ちは晴れなかった。ぎこちない笑顔でビラ配りに戻るも、馬ヅラ先生が近寄ってくる。

 担任ではないとはいえ、古谷先生は教員だ。なるべく視線を合わしたくない。懸命にビラ配りを続けていたが、馬ヅラお面の鼻先が晴翔の耳元をつんつんと突いていた。

 そして、図星を突かれる。


「北野くん、他にやりたいことがあるんでしょ」

「……ないですよ。俺は牧場を継ぎます」

「話してみ? みんなには黙っとくから」

「教師みたいなこと言いますね……」

「教師なんですけど?」


 晴翔は改めて古谷先生の顔を見る。殴りたくなるくらいの馬ヅラで、呼吸するたびに空気穴の鼻の穴がぷるぷる震えていた。説得力も何もあったものじゃないが、かえってそのバカバカしさに呆れて笑ってしまった。


「俺は——」


 騎手になりたい。晴翔はたったひと言告げた。他人に本当の夢を告げたのはこれが初めてで、どんな反応をされるか気を揉む。

 古谷先生は競馬好きだ。それゆえに、高身長が騎手として絶対的に不利であることは分かっている。むしろ、いつも騎手や馬に対して罵声を浴びせているような、賭ける側の風上にも置けないような人間だ。

 どうせ否定される。そう晴翔が覚悟していたとき、馬ヅラは「うんうん」と縦に揺れた。


「大変なぶんがんばる覚悟はあるんだね? なら挑戦してみたらいいよ」

「あまり軽々しく言わないでくださいよ。受かるかどうかもわからないのに」

「それ決めるのはJRAでしょ。北野くんじゃないよね」

「それは、そうですが……」


 馬ヅラ先生は腕組みしてしばらく悩むと、閃いたとばかりに手を叩いた。


「先生ね、《エフフォーリア》の復活を信じきれなかったんだよね。知ってる? 三年前の年度代表馬なんだけど」

「知ってますよ。なんの話ですか……」

「いやさあ、三歳で年上の古馬なぎ倒して秋天有馬勝つくらいだから、四歳になったら絶対強いに違いない! って毎回単勝ぶち込んでたんだよね。そしたらまあ、あの成績でしょ? だから五歳は期待してなかったんだけど」


 今度はガクリと落ち込んだように首を垂れて言った。


「でもさ、五歳で復活したワケ。それまでずっと単勝買ってたのに買わなくなったとたん馬券に絡んでくるんだよ? それさあ、ただ負けるより悔しいんだよね。いやあの馬券買えたじゃん! って」

「はあ……?」

「要はね、賭けなかった後悔の方がデカいんだよ。競馬も人生も博打バクチ。賭けなきゃ意味がないからね」


 古谷先生はさも「いいこと言った」風に馬ヅラでポーズを決めていたが、馬券師ギャンブラーの論理すぎてよくわからなかった。それでも自身のための発言だとは晴翔にもわかる。


「まあ、気休めにはなりました。ありがとうございます……」

「うむ、苦しゅうない。さあ、とっととビラ配ってアイス食べよう! 先生このままじゃ熱中症で死ぬ!」


 晴翔は再び、ビラ配りに戻る。

 状況は何も変わっていない。重いハンデもそのままだ。だが少しだけ、晴翔の中で育つ後ろ向きな気持ちに喝が入ったような、そんな気がした。


 ————

 ※作者注

 執筆時点(2022年12月31日)ではエフフォーリア号はまだ現役でしたが、2023年2月14日に引退・種牡馬入りが発表されました。表記部分については修正せず、このまま残しておきます。これからはパパとして種牡馬としての活躍を期待しております。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る