第47話 体も心もほっこりと

 洞爺温泉牧場。

 洞爺湖のはずれにあるここが、なぜ洞爺牧場などという名前で呼ばれているのか。

 その答えは実にわかりやすく、かつ、ほっこりしたものだった。


「加賀屋さん、終わりましたか?」

「ピッカピカにしてやった。じいちゃーん、準備できたよー!」

「じゃあ入れるよー」


 デッキブラシ片手に、体操服姿の志穂と晴翔がいる場所は、牧場片隅にあるがらんどうの屋根の下。大きさにしておよそ十畳ほど、深さ一メートルほどのプールの底だ。

 大村が操作したのだろう、ゴボゴボと不気味な水音が近づき、瞬間、側面のパイプなら液体が吹き出した。わずかに湯気も立っていて、指先で触れると温かい。

 液体の正体は、温泉だ。


「ホントに温泉じゃん! 馬も温泉入んの!?」

「馬にも湯治の効果はあるんですよ」


 外厩としては小規模ながら、洞爺温泉牧場には他にはあまりない珍しい設備が存在した。

 それが《馬の温泉》である。


「だから洞爺温泉牧場なんだ。ふざけた名前の牧場だと思ってたんだよね」

「すこやかファームの人には言われたくないですね……」


 ふざけた名前とは裏腹に、温泉の効果は絶大だ。

 有珠山の恵みを受けた源泉から引く温泉水の泉質は、ナトリウムやカルシウムが豊富に溶け込んだ塩化物泉。効能は血行促進や疲労回復効果のほか、なまった末梢神経に働きかけたり気分障害を緩和する。温泉が心身ともにリフレッシュしてくれるのは、人間も馬も同じなのだ。

 志穂たちが綺麗に掃除したプールに、過ごしやすい初夏の洞爺にちょうどいい三十八度のぬるま湯が溜まっていく。

 志穂はミドルの髪の毛を後ろで縛り、おもむろに体操服を脱ぎ出した。


「か、加賀屋さん何脱いでるんですか!?」

「水着着てきたから大丈夫!」


 体操服の下は、タンキニタイプの水着だった。

 モノトーンの色味、シンプルかつ飾らない可愛げゼロの水着だが、それゆえ志穂は気に入っていた。東京にいた頃はごちゃごちゃした服やら水着もいくつか持っていたが、ここ洞爺では人の目を気にして着飾る必要もない。必要に迫られなければ、洗練されたシティガールはものの数ヶ月で田舎娘になってしまうのである。

 足首ほどの高さまで入ったお湯に体を浸して、志穂は声をあげた。


「あーっ! 生き返るー!」

「そうとも。うちの温泉はいいぞー! 浸かってるだけで疲れが取れるからねえ!」

「ほんとそれ! 溶ける〜……!」


 プールの底に大の字になった志穂は満面の笑みで、その様子を眺める大村も笑っていた。

 ただし、晴翔の視線だけは斜め上だ。


「俺は手伝いしてきます……」

「会長も入ったらいいじゃん? 気持ちいいよ?」

「どういう神経してるんですか!? あり得ないでしょう!」

「なんで? 馬と混浴すんのがイヤなの?」

「俺が言いたいのは——とッ、ともかく! 俺は行きますから!」


 晴翔は目も合わせず、さっさと去って行ってしまった。こんなに気持ちいいのにもったいない。

 次第に溜まっていく温泉をしばらく独り占めしながら、志穂は日々の疲れを湯に流す。

 この温泉なら、きっと彼も喜んでくれるはずだろう。志穂は水着姿のまま、厩舎まで迎えに行くことにしたのだった。


 *


『は、入っても平気なんでしょうか……溺れたりしませんよね……?』

「ハルも入ってるから平気だって。でしょ?」

『むふーっ! あったかくて気持ちいいーっ!』


 まるでゲート入りを嫌う新馬のように、マニーレインは温泉に入る坂の前で二の足を踏んでいた。いっぽうハルはすでに湯の中。お腹の下あたりまで温泉に浸かってぶほぶほ鼻を慣らしている。

 馬の温泉の水位は八十センチほど。人間のように肩まで浸かる訳ではなく、脚全体を温めて筋肉や皮膚、そしてメンタルをケアしてあげるのが湯治のポイントだ。


『う、うう……怖い……』

「入ったら治りも早くなるよ。がんばって」

『おにーちゃんも一緒に入ろ!』


 気持ちよさからか、ハルが全身を濡れた犬のようにぶるぶる震わせた。その飛沫で、志穂はあっという間にずぶ濡れた。「やったなー!」とハルに飛沫を喰らわせると、ハルもまた『わーい!』と全身を震わせてびしょ濡れになる。


『だけど、これに入ったら……元気になれる……!』


 賑やかなふたりを横目に覚悟を決めたのか、マニーレインもおずおずと屈腱炎を患った前脚を湯につける。ゴム素材で滑り止めの効くスロープに一歩踏み出すと、そのまま勢いよく湯に飛び込んだ。


「うわッ!?」

『わわーッ!!!』


 マニーレイン。その名の通り大雨のような水飛沫を降らせて、今度は志穂とハル双方がびしょ濡れになる番だった。


『あ……! あったかい、ですね……。それになんだか包まれるような……』

「じゃあもっと包んでやる! ハル、暴れてよし!」

『いっくよーッ!!!』


 今度はハルが喜びの舞を披露して、巨大な水飛沫を上げた。温泉に大きな波が立ち、水飛沫が舞う。志穂も負けじとマニーレインの顔めがけてバシャバシャとお湯を浴びせた。


『わっ……! ぼ、ぼくもーっ!』


 温泉は偉大だ。

 疲れも沈んだ気分もお湯に溶かして吹き飛ばしてしまう。マニーレインのリハビリなんてことも忘れて、志穂はくたびれるまでお湯を掛け合っていたのだった。


 *

 

 温泉から上がった志穂は、二頭を洗い場に並べて体を拭き上げていた。

 元気いっぱいのハルは元より、マニーレインの毛並みは見違えるほどだ。さすがに馬体はまだまだゆるいけれど、やって来たときのみすぼらしさに比べると雲泥の差だろう。

 全身を隈なく撫でていると、マニーレインが鼻先を志穂の方に向けてくる。


『シホさんのおかげで、少し元気になった気がします……!』

「私はたいしたことしてないよ」

『そんなことはないです……! シホさんは優しいし、褒めてくれるじゃないですか……!』

「そう?」


 思わずにんまりしてしまって、気分よく顔じゅうを撫で回してあげた。

 実際、マニーレインは飼い食いもよくなっている。放牧中の様子も見に行くと、リハビリ最初期よりは運動量も増えているようだった。

 ただ、それは志穂のおかげじゃない。すべてはコツコツ続けてきたマニーレイン自身のがんばりの賜物だ。


「じゃ、私が2、レインが8くらいがんばったおかげ」

『えー、ボクもがんばったよねー!?』


 隣の洗い場で待つハルの不満そうな声が聞こえてくる。たしかにハルもがんばってくれた。リハビリのパートナーとして、互いの乗馬の練習台として。ついでに志穂が三キロ走らなくて済んだとんでもない功績がある。


「なら私が1、ハルが1。残りはレインのがんばりってことで」

『うん、ボクがんばった! おにーちゃんもすごい!』

『そう……なんでしょうか……』

「そ。すごいことだから自信持ちな。きっとレースにも出られるからさ」


 そう言いつつも、志穂は診察結果はマニーレインに話さなかった。

 ティナのお産でも世話になった獣医にエコーで診てもらったところ、屈腱炎の進行度は二十パーセント。初診時よりは改善しているが、まだまだ盤石とはいかないらしい。

 獣医いわく、二十パーセントの屈腱炎から競争復帰できる可能性は五分五分。治療に九ヶ月を要する長い戦いだ。マニーレインが夢見る《トウカイテイオー》ばりの復活劇を演じるには、まだまだ時間がかかる。


 マニーレインは走れない。レース勘を養う併せ馬や追い切りも難しい身だ。

 だからせめて、走れないにしても勘くらいは養ってほしい。志穂のイカれた能力は、こんなときこそ真価を発揮する。


「んじゃ、レースに備えて動画を見よう。見てたらなんかわかるかもだしね」

『ならプレミお姉ちゃんの見たい!』

『ぼ、ぼくはテイオーさんのを……!』

「いーや、まずはふたりも知ってる馬のレースから」


 便利な板ことタブレットを出して、ふたりが同時に見られる場所へ移動した。

 映し出されたのは東京競馬場。ちょうどホームストレッチ前に準備されたゲートに、各馬が吸い込まれていくところだった。


『あ! モタおじさんだ!』


 ハルがめざとく見つけたのは5番のゼッケン、クリュサーオル。奇数番ゆえ真っ先にゲート入りして、スタートの瞬間を今か今かと待っている。


『親分、やっぱりカッコいいです……!』

「気合い入ってるね。さすが一番人気」


 始まるのは、東京競馬場第9レース。

 三歳以上二勝クラス《町田特別》。芝二千四百メートル、十頭立て。

 前走快勝した距離と同じ、クリュサーオルの得意な舞台だ。そして今回は単勝一番人気。穴党くらいしかいなかった前回とは違って、大勢の期待を背負っている。


『し、シホさん。親分は勝てますか……?』


 馬券も何も買っていないが、マニーレインに言ってやる言葉は決まっていた。


「信じてやって。勝てってさ」

『ボクも信じる! おじさんとも一緒に走るって約束したから!』

『いいなあ……ぼくも親分と走ってみたい……』

「そのためにはライバルの研究しとかんとね。おっ、スタートした!」


 ゲートの開放とともに、クリュサーオルは出遅れずに飛び出した。

 その一挙手一投足を、志穂たち三名は食い入るように見つめるのだった。

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