第22話 馬も夢もたいせつだ


 歯にモノが挟まったような口ぶりの大村を問い詰めたら、出てきた言葉は発情だった。

 さすがに馬産初心者の志穂であっても、その言葉の意味くらいは知っている。それと同時に、大村が言いにくそうにしていたのも察せてしまった。


「いやあ、どうしても志穂ちゃんには言いにくくてねえ」

「まあ、そうね……」


 大村の気遣いはともかく、志穂は頭を切り替えた。

 フケ——つまり馬の発情期は春先だ。

 周期的に排卵を繰り返す人間と違って、馬は日照時間が長くなるにつれて排卵とそれに伴う発情を起こすことが知られている。こうした特徴を持つ動物を長日性季節繁殖動物といい、その兆候を察知するのは馬産家たちにとってもっとも重要な関心事だ。

 ともかくざっくり言ってしまえば、クリスは仔を生める準備ができているという。


「うーむ、どうするか難しいね……」


 大村はクリスの窪みかけた背中をやさしく撫でながら難しい表情を浮かべていた。志穂にとっては馬産の師匠にあたる彼が悩むくらいだから相当だろう。

 わかるワケがないとは思いつつ、志穂は尋ねてみる。


「何が問題? 聞いてもわかんないだろうだけど……」

「大きくはふたつだね。まずはどの種牡馬しゅぼばを付けるかだ。クリスは良血馬だがインブリードがキツくて《ロベルト》の3×3がある。相手を選ぶし、そもそも走る種牡馬はお値段がなあ」


 志穂に理解できたのは、最後の方のお値段のあたりだけだった。


「ち、ちなみに高いってどれくらい……?」

「高いと二千万円くらいだねえ」

「交尾一回で二千万取るの!?」


 一夜を共にしてウン千万円払うホスト狂いの女性を想像して震えた。もちろんこれは馬の世界の話で、現金をやり取りするのは強いの馬を産みたい人間である。


「それなんか複雑……」

「すべてのホースマンが抱える自己矛盾だよ。馬の幸せを想いながらも、馬を食い物にしている自分は、最低の人間なんじゃないか、とね」


 大村は多くを語らなかったが、悲しげな顔の奥にはさまざまな想いが巡っていると志穂にもわかる。何十年も馬に関わってきたからこそ、悩むことも多いのだろう。

 「とはいえ」と大村は気分を切り替えて笑う。


「高い種牡馬の子なら走るワケでもないのが可愛くもあり難しいところでね。血も大事だし、馬自身が置かれた環境によっても変わってくる。だから僕たちも、幸せであらねばいけないんだ」

「なるほど……」

「そうそう。値段で言えばハルちゃんも一千万はしたよ」

「ハルそんなに高い仔だったの!?」

『なーにー? いまニンジンに忙しいんだけど〜?』


 元気と食い気が有り余っているハルをじっくり見つめてみる。

 馬なのに鹿と書く青鹿毛、青鹿毛なんて呼び名のくせに色は黒。そこにミルクを垂らしたような流星がちょろり。こんな色味の父馬にはまるで覚えがないが、実はイイトコのお嬢様だという。

 ちなみに仔馬の値段にはこの種付け料が含まれているそうなので、すこやかファームの借金は最低でも一千万円だ。めまいがしてくる。


「まあ、金銭的なことはともかく、問題はクリス自身の方だね」


 そして、大村は短く嘆息して言った。


「もうひとつが、クリスが出産に耐えられるかの問題だ」


 人間に喩えても無駄なのは分かっていた。だけどどうしても、写真でしか見たことのない母親の姿が志穂の脳裏をよぎる。


「どの生き物にとってもそうだけど、出産は命がけなんだ。特に高齢だったりすると仔馬と引き換えに亡くなる母馬も多い。母子ともに亡くなってしまうことも往々にしてある」

「じゃあ、クリスは……」

「毛ヅヤはいいし、栄養斑点も出てる。志穂ちゃんが世話してあげてるおかげでとても元気だよ。でも無事かどうかは保証できないな」

「……」


 クリスは命の危険を冒してまで、仔馬を産みたいのだろうか。


『やっぱりシホのニンジンは美味しいわねえ〜♪』

『おかーちゃん食べ過ぎ! ボクのなくなるよ〜っ!』


 馬の声が聞こえるばかりに、普通なら考えなくていいことを考えなければいけない。

 自分はどうしたいのだろう。そしてクリスはどう考えているのだろう。聞くに聞けなくて、志穂は押し黙る。


「まあ、まだ考える時間はあるよ。繁殖を引退してリードホースになってもらう手もある。種付けするなら、レースを見て種牡馬候補を探すのもいいかもしれないね。モタやマリーのレースも大事だけども」

「マリー……?」

「プレミエトワールの昔の名前だよ。いやあ、志穂ちゃんは馬券を買えないから残念だ」


 カカと笑って、大村は赤ペンでマークした競馬新聞を見せてくれた。

 最低十五番人気クリュサーオルと、二番人気プレミエトワールが赤マルでぐりぐり塗られている。


「爺ちゃんも馬券買うんだ……」

「馬は好きだし大切だ。そして競馬はギャンブルだ! そこにうまく折り合いをつけることさ」

「ちなみにいくら買うの?」

「なんせウチの子が走るからね。夢は大きく単勝一万円だ!」


 やっぱり競馬関係者は金銭感覚がイカれているらしい。

 改めて競馬サークルのイカれ具合に辟易しつつも、馬と夢を同時に語れる大村の姿が志穂の目には頼もしく映った。


「じゃ、ハルとクリスをよろしくお願いします」

『えっ!? 連れてってくれないのーッ!? シホーッ!!!』


 背後でハルが暴れ始めた気配がしたので、志穂は逃げるように走り去った。


 *


 修学旅行初日は土曜日。洞爺からバスで新千歳空港、空路で成田に降り立ったら、またバスで移動。移動だけで半日近くかけてインスタントラーメンの工場見学。

 右から左、ベルトコンベアで運ばれていくラーメンを見ながらも、志穂の頭の中は馬のことでいっぱいだった。

 クリスの気持ちを確認すること。クリュサーオルに嘘をついたままなこと。

 そして二冠のかかるプレミエトワールと、姉と一緒に走りたいハルのこと。


「加賀屋さん? 加賀屋さ〜ん?」


 古谷先生に呼び止められ、志穂はようやく意識を馬以外に向けた。気がつくと、ホテルのバイキングを前にプレートを持ったまま立ちすくんでいた。


「わ、私は今まで何を……!?」

「やっぱりな〜、今日ずーっと上の空だったから。何か心配なことがあるんでしょ? あるよね?」

「はあ、まあ……」


 ひとしきりうんうんと頷いて、古谷先生は本命予想だとばかりに当てにきた。


「わかった、オークスの買い目でしょ! そうなんだよ、先生も八頭までは絞ってるんだけどボックスじゃまずガミるじゃない? こっからはもうサイン馬券だよね。ちなみに加賀屋さん1から18までで好きな数字は?」

「……53で」

「なるほど5—10—3ってことね? 事前オッズ100倍か、加賀屋さんカタいな……」


 教師の風上にも置けない大ハズレだった。この人にはもう何も相談しないでおこう。

 馬産のことは晴翔や大村に聞けばいいし、それ以外のことは馬オタクの茜音に——


「あ、加賀屋さん今ギャンブル中毒者を見る目をした! 差別反対!」

「あの先生。茜音ちゃんさんは修学旅行なのに休みなんですか? つい昨日まで『オークス現地だー』って楽しみにしてた気がするんですけど」


 古谷先生はポカンと口を開けて、瞬間、堪えきれず吹き出した。しばらく志穂を無視してひとしきり笑った後、真相を告げる。


「藤峰さんは中学生じゃなくて大学生だよ。馬事研のOG」

「は? ……はあ!?」


 今日は頭を悩ませることがいっぱいだ。

 あまりにも考え疲れたせいで、志穂は久しぶりに朝までぐっすり眠ったのだった。

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