第21話 加賀屋キャラバン隊

 そして、修学旅行当日の朝。ようやく東の空が白んできた午前四時。

 朝が早いすこやかファームの従業員と父親に見送られ、志穂は二泊三日にしては多すぎる荷物を背負い、ハルとクリスの引綱を引いた。


「じゃあ気をつけて行ってこいよ志穂! クリスとハルもな!」

「はいはい。じゃ、東京行ってきます」

『行ってきま〜す!』


 ハルは勝手知ったる下り坂を軽快に進み、その後ろをクリスが着いていく。歩いては止まって朝露を含んだ道草を食べ、そしてまた歩き出すのが志穂とハルの登校風景だ。ハルを洞爺温泉牧場に連れていくようになってからは、このキャラバン隊みたいな移動が志穂の日常になっている。

 ただ、今日はクリスも一緒だ。理由は簡単。すこやかファームには志穂以外に馬の面倒を見られる人間がいないからである。


『あの牧場、案外近かったのねえ〜。運ぶ箱で来たから気づかなかったわあ〜』

「大村の爺ちゃんが面倒見てくれるってさ。ウチの人間は使い物にならないから助かるよ」

『え!? ボクお留守番なの!? プレミお姉ちゃんのかけっこは!?』


 もちろん修学旅行に馬は連れていけない。クリスもハルも洞爺温泉牧場でお留守番なのだが、二頭を喜ばせたくてオークスを——プレミエトワールのレースを観に行くと伝えてしまったのが失敗だったのだろう。

 クリスは『それは楽しみねえ〜』くらいののんびりしたものだったが、ハルは今にも暴れ出しそうな——右前脚で大地をかく——仕草だ。

 問題は、ここが牧場ではなく天下の往来であること。暴走でもしようものなら地方紙のお騒がせニュースになってしまう。見出しはこうだ。


 ——中学生ウマ娘、放牧中にうまをぴょいっと逃しちゃう。


 こんなことがニュースになってしまったら、今度こそ名刺の件を訴えられる。


「い、いい子にしてたら連れてってあげる……」

『ほんとぉ? シホ、嘘ついてない? 嘘ついたらボク暴れるよ……?』

「ついてないついてない。志穂嘘つかない」


 じとり、とハルの片目に睨みつけられていた。ちなみに顔の横に目がついている馬の視野角は350度ととんでもなく広い。唯一の死角が背後。つまり馬から騎手は見えないのだ。今すぐハルの背に乗ってしまいたくなる。


『シホを困らせちゃダメよお? がんばってくれてるの知ってるでしょう〜?』

『だってかけっこしたくてもできないんだもん! モタおじさんも居ないし!』

「あ、そういえばモタも走るって言ってたっけ……」

『おじさんのかけっこも見るの〜!? 志穂ばっかりズルいよ〜っ!!!』


 やってしまった。とうとうハルは暴れ出してしまって、引綱をぶんぶん振り回してしまう。このあいだ四百キロの大台に突入した実質一歳馬を女子中学生が止められるはずがない。

 ただ、志穂には秘策がある。まずひとつは、ハルの引綱をクリスと繋いでいること。さすがの元気盛りのハルと言えども、のんびり屋を引くのは体力を使う。

 そして二つ目の秘策がこれだ。


「ハル〜? うちのニンジン食べたことある〜?」


 すこやかファーム謹製ニンジン。ブランド名、《福紅すこや》である。

 一般的にはあまり知られていないが、ニンジンはこの十数年の間に驚異的な進化を遂げた野菜である。子どもたちの嫌いな野菜ランキングでピーマンとしのぎを削っていたのは過去のこと。現在は好きな野菜にその名を連ねるほど、皆に愛される野菜として生まれ変わっているのだ。


「うちのニンジンはすっごい甘いよ〜? リンゴ並みの糖度だからね〜」

『ニンジンなんていらない! かけっこしたい! お姉ちゃんやおじさんと走りたい〜!』

「まあそう言わず、一本どうぞ!」


 暴れるハルの口元にぐいっと押し込んだ。ちなみに一本三百円する高級ニンジンである。

 首をぶんぶん振っていたハルは、とたん静かになった。そして無心でバリボリ《福紅すこや》をむさぼっている。


『おっ、おいしーっ! なにこれー!? 甘くて噛みごたえもある〜!? おかーちゃんこれすごいよーっ!?』

『ふふ。ハルもオトナの味を知ってしまったのね?』


 こんなこともあろうかと、ハルにだけは食べさせなかったのだ。

 ひとたびニンジンの味を覚えてしまったらもう使えない奥の手ではあるが、使い道は今しかない。


「はいはいまだあるから大人しく歩いてきてね〜」

『ちゃんと歩いたらくれる!?』

「あげるよ〜。たくさんあるからね〜」


 背負ってきた大荷物の中身は、大量の《福紅すこや》だ。

 最悪の事態に備えて大量に持ってきたニンジンが役に立つ時がきた。葉の繁ったとれたて新鮮ニンジンをハルの前にちらつかせる。

 こんなマンガみたいな手が効くだろうか。そんな疑問は一瞬で消えた。


『シホ! 食べたい! ちょうだい!』

『私も食べたいわあ〜』

「じゃあみんなのいる牧場へ行こう。いちにーさんしー、いちにーさんしー!」


 ハルを食欲で釣れたおかげで、朝のニュースを賑わせずには済んだだろう。

 志穂は生まれて初めて、父親に感謝してもいいと思えたのだった。


 *


 どうにかハルを連れてきた志穂は、牧場に着くころには満身創痍だった。帰りもこれをやらなければいけないと思うとすでに気が滅入ってくる。


「いやあ、志穂ちゃんには驚かされることばかりだよ。ひとりで二頭も引いてくるなんて、こりゃあ前世は群れのボス馬だったのかもしれないね!」

「あり得る……」


 傍らではご褒美の福紅すこやを『おいしい!』とバリボリ食べているハルとクリスがいた。なんせ馬と喋れるなんてイカれた能力だ、前世が馬だったくらいじゃないと納得がいかない。別に納得できたところで何の意味もないのだが。

 志穂はとりあえずハルとクリスの体調を大村に伝え、預かってもらう礼として深々と頭を下げた。エサはニンジンを持参しているし、足りなくなれば送るよう実家には伝えてあるが、足りそうもないのはニンジンを食べるペースで充分わかる。


「大村の爺ちゃんにはたくさんお土産買ってくるよ。何がいい?」

「気持ちだけで充分だ。この子たちは任せて、たくさん見て学んでおいで」

「爺ちゃんの子に生まれたかったわ……。孫でもいい……」


 遠くの親族より近くの他人とはよく言ったものだ。クソ親父と死んだ母親に爪の垢を煎じて飲ませたい。

 そんなときだった。大村が「おやまあ」と声を上げたのは。


「志穂ちゃん、こりゃあ大変だ。クリスが……信じられないんだけども……」

「え、クリスが……?」


 瞬時に嫌な予感が駆け巡り、したくもない想像をしてしまう。

 なぜならクリスはもう十九歳。そろそろ平均寿命が近づいている。

 ハッピーの消えた神妙な表情の大村に、志穂の思考は固まった。


「えっ、嘘だよね……?」

「志穂ちゃん、言いにくいんだが……」

「えっ、えっ……!? 待ってよ、爺ちゃんちょっとそれは……」

「クリスがね……」


 パニックになった志穂の両肩を掴んで、大村は言葉を選ぶように切り出した。


「もうかなりの歳なんだけどね、フケてる……」

「老け? いやそりゃ年は取ってるけど……」

「そうじゃなくてだね。う〜ん、志穂ちゃんには説明しづらいなぁ……」


 何を悶々とした表情をしているのだろう。老いからくる病気かもしれないならハッキリ言ってほしい。生き死にをごまかされてることが一番不幸せなのだ。志穂はクリュサーオルの件で痛いほど知っている。


「いいから言ってよ爺ちゃん! クリスがどうしたの!?」

「あのね……クリスが発情、してるんだよねえ……」

「はつじょう……?」


 大変だ! 大セクハラ案件だ!

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