第11話 やる気だけはあるよ

 タブレットには茶色と灰色、二頭の馬が写っていた。


 大変なことが起こった。実況や観客の盛り上がりから、何よりレース結果から志穂にも理解できた。

 クリスの長女——プレミエトワールは偉業を成し遂げた。


「はああぁああぁあ〜……」


 ため息すら震えていた。浅い呼吸を落ち着けようと志穂は深く息を吸う。それでも緊張は体じゅうに伝わっていて、全身がまるで動かない。そのまま、人をダメにするソファに沈み込むように、クリスの体に身を預ける。


『呼吸が荒いわよお? だいじょうぶう〜?』

「大丈夫、ちょっとびっくりしただけ……」

『そういうときは体を寄せ合うといいわよお〜』


 志穂を包み込むようにクリスが首を曲げてくる。

 馬に気を遣われてしまった。心配をかけまいと頭を撫でようとしたができなかった。腕を上げることすらできないほど力が抜けているとは思わなくて、情けなくて笑ってしまう。


 競馬は好きではなかった。

 自分の命と引き換えに死んだ母親を嫌いたくないから、嫌いだった。

 だけどたった一頭、縁のある馬がいた。夢で母親が応援していた馬と、同じ父親の馬。その娘がレースに出た。それだけで目が離せなくなって、食い入るように映像を見つめていた。夢中で応援していた。そして——


『どうなったのシホ!? お姉ちゃんは強かったの!?』


 仔馬の声にハッとして、志穂は映像を確認する。

 ちょうど着順が確定して3位までの馬のゼッケン番号が表示されていた。


 17 ー 7 ー 14


 レース後は馬券の話が中心だったが、志穂には関係がないことだ。

 一着につけたのは17番。プレミエトワールが背負った番号だ。

 濃紫のゼッケンを背負った彼女がゴールに飛び込んだ瞬間が、まぶたの裏に焼き付いて忘れられない。


『ねーねー! お姉ちゃんは速いよね!?』

「お姉ちゃん、すごい強いよ」

『やったああああぁぁぁぁぁぁ〜っ!!!』


 競馬について理解していない仔馬に、結果をわかりやすく伝えてあげた。

 すると仔馬は馬小屋を突き破って飛んでいくような勢いで跳ね回る。クリスが『危ないわよお〜』と嗜めても、勝利のステップは終わらない。全身で喜びを表現している。


『シホ! ボクもかけっこしたい! さっきみたいにダーッって走りたい!』


 仔馬は甘えて『早く早く!』と鼻先で突いてくる。もちろん仔馬と言っても三百キロはあるので受け止める方も必死だ。

 どうにか首を撫でて落ち着けつつ、志穂は以前言われたことを思い出す。


「そういやアイツも言ってたっけ。すごい馬だって……」


 思い出すだけで腹は立つが、会長が——クリスの面倒を見ていた洞爺温泉牧場の息子が言うのだから間違いない。

 仔馬は今でこそ幼いし、クリスほど賢いワケではない。馬体もクリスに比べると小さいし、走ってはすぐに寝てしまうくらいだ。

 だけど仔馬にはのびしろしかない。

 姉並みの——もしかしたら姉以上の能力を秘めているのかもしれない。


 ——もしそののびしろを、限界まで引き出すことができたとしたら。


『ボク決めた! お姉ちゃんといっしょに走る! できるよね、シホ!』

「……」

『ええっ、できないの……?』

「簡単なことじゃないよ」


 自分自身に向けて、志穂は問いかけた。

 晴翔の言う通り、志穂は素人だ。競馬は何も知らないし、馬の育成経験もない。

 それでも志穂には能力がある。認めたくないし、変人扱いされるから明かしたくないが、馬と喋れる。なにより——


『できるよ! ボク走るの好きだよ!』

 

 ——その本人が。家族がやりたいと言っているのだ。

 だったら、反対する理由はない。

 競馬に挑戦できるようにしてやりたい。


『それでカッコよく走って、おかーちゃんにもシホにも、お姉ちゃんに褒めてもらうんだ!』

『あら〜いいわねえ〜♪』


 親権者の同意も得られた。反対する者もいない。


『ちゃんと人間の言うこと聞けるう〜?』

『できるよ! ボク、シホの言うこと聞けてるもんね!』


 言いながら、仔馬はぐいぐい鼻先で突いてくる。

 何度となく「人を突くな」と言っても聞かない甘えん坊ではあるけれど、やる気はある。

 となればあとは、すこやかファームのウマ娘ことお世話係の志穂が決めるだけだ。


『いいよね、シホ!』


 志穂は、大きく深呼吸して頷いた。


「よし、目指すか。桜花賞!」


 *


「ということで、あの仔馬で桜花賞? を狙うことにしたので馬の育成について教えてください」

「君にはプライドってものはないんですか……」


 翌日。生徒会室に赴いた志穂は、いの一番に頭を下げた。

 相手はもちろん馬産の専門家、因縁の北野晴翔相手にである。


「じゃあこう言う。手塩にかけて育てた仔馬をダメにされたくなかったら、私に馬について教えろ」

「馬を人質にとる気ですか!?」

「そ。馬質うまじち

「こんなプライドゼロの脅し初めて見たわ……」


 晴翔はおろか茜音も目元をひくつかせていたが、志穂はけろりとしていた。

 どんなに馬と喋れても、馬にも分からないことは志穂には分からない。分からないことは素直に分からないと言う。それが志穂の方針である。

 頭を抱えた晴翔に変わって、茜音が尋ねてきた。


「あのさ、志穂ちゃん。まず桜花賞ってどんなレースかわかる?」

「分からないから聞きにきたんだけど」

「そりゃそっか! あはははは!」

「笑い事じゃないでしょう先輩……」


 これ見よがしにため息を吐いて、晴翔はスマホで馬の情報を見せてくる。ただ、馬名の欄が妙だった。


「クリスエトワールの2022? なにそれ?」

「加賀屋さんの買った仔馬の名前です。馬名登録が済むまでは、母馬の名前に生まれ年を表示するんです」

「へえ、じゃあ名前つければいいってこと?」

「まず馬主なんですか?」

「あはははは」


 父親譲りの方法でごまかそうとしたが、晴翔は呆れてため息をつくだけだった。


「中央にしても地方にしても馬主資格は絶対です。その辺りはご実家と相談してもらうとして」


 「それよりも」と晴翔は馬名の下に並んだ情報を見せてくる。妙にタコまみれだった晴翔の指が気になったが、スマホのスライドを止めて晴翔は「ここを見てください」と告げた。

 そこには仔馬の誕生日が記載されている。

 

 誕生日:西暦2022年 12月 25日


「へえ、あの仔クリスマス生まれなんだ。おめでたくていいじゃん」

「ウッソでしょ!? こんなことってあるの……!?」


 飛びついたのは志穂ではなく茜音だった。「うわあ……」と悲痛な声を上げている。

 さすがの志穂も、なにかよくないことがあると理解できた。


「え、なに……。クリスマス生まれは不吉とか……?」


 晴翔は瞑目して告げる。


「あの仔馬が桜花賞に出るのはおそらく無理です。デビューは早くても三歳夏の未勝利戦。世代戦は出られたとしても秋華賞……」

「な、なんでよ? 自分のことボクって言う男の子だから?」

「いや仔馬は女の子なので登録する資格自体はありますが……ボクってどういうことだ?」


 どうやら仔馬は女の子だったらしい。まるで気がつかなかった。


「ど、どうでもいいから! それよりなんで桜花賞出らんないの、ウチの子は!?」


 そして志穂は、仔馬が背負った宿命を知ることになるのだった。


「あの仔は早生まれなんです。同世代の馬より未成熟。生まれた瞬間から、一年近いハンデを背負ってるんですよ」

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