第12話 行動力だけはすごい
誕生日を迎えるたびに歳を取る人間と違って、馬は元旦を迎えるたびに歳を取る。
元旦生まれだろうが大晦日だろうが、生まれた年が同じなら
「つまり……どういうことよ?」
馬齢についての説明を受けても、志穂はすぐには飲み込めなかった。飲み込みたくなかったという方が正しい。
晴翔は真剣な眼差しで続ける。
「まず、馬は春先に生まれます。そのときは
「じゃあ、あの仔は今年二歳だし、そろそろデビューってこと?」
「それができない仔なんです。だから俺は売却したくなかったんだ……」
悔しそうに眉間をしかめる晴翔に代わって、茜音が諭すように告げてくる。
「競走馬ってね、だいたい生後二十四ヶ月で競馬ができる状態になるの。これは調教以前に馬の成長の問題。人間だって子どものうちは、四月生まれの子の方が大きかったりするでしょ?」
「ま、待って。それって要は、同世代より……」
「成長が遅れている。暦の上では二歳馬ですが、実質一歳馬です。だから、クラシックには間に合わない」
*
『シホーッ! いっしょに走る練習しようよーッ!』
放牧地の丘の上で、仔馬は勇ましく後ろ足だけで立ち上がっていた。自身が抱えた大きすぎるハンデなど知るよしもなく、あの日以来ひたすら放牧地を走り回っている。
「どうしたモンだかね……」
あと一週間遅く生まれていれば。ついそんなことを考えてしまう。
あんなに本人がやる気になっていても、桜花賞には間に合わない。もちろん無理にでもデビューさせることはできる。ただ、無理をさせた馬がどうなるかは晴翔の反応を見れば分かった。
無言。刺すような軽蔑の視線。
あれは志穂が持ち主だから強くは言わなかっただけだ。晴翔の態度には腹も立つけれど、馬への愛情だけは認めるしかない。
『あの仔はお姉ちゃんと走れそう〜?』
「ん〜……」
隣で若草を食べているクリスを撫でていると、困った声が聞こえてくる。
『私がちゃんと産んであげられなかったのかしらねえ〜』
のんきな彼女にしては珍しい弱気な物言いに、志穂は即答する。
「んなことないって。アンタはちゃんと産んだ」
『そう〜?』
「そうだよ」と頷いて、志穂は自分を納得させる。
早生まれだろうがなんだろうが、母子ともに健康ならそれでいいのだ。
「どっちも無事でしょ、それで充分だよ」
『ならよかったあ〜』
すりすりと鼻先を寄せてくるクリスを全力で撫でてあげた。少なくとも、娘を置いて勝手に死ななかったのだからクリスは偉いのだ。そんな偉い母親に自分を責めてほしくなかった。
「ま、クリスに比べたら私の母親はクソだけどね」
『ダメよ〜? お母さんをそんな風に言っちゃ〜』
クリスに嗜められて笑ってしまったが、おかげで志穂も決心ができた。
もう二度と早生まれについては考えない。無事に生まれた仔馬を育て上げて、立派な競走馬にする。
そしてたくさん褒めてやろう。クリスや志穂、姉のプレミだけじゃない。日本じゅう、世界じゅうの人々に拍手喝采を送ってもらえるような、そんな馬にしてあげたい。
そのためには、ひとつだ。
*
「いや、確かにアルバイトの募集は出したけど中学生の女の子はねえ……」
「なら晴翔さんに連絡を取ってください。私、晴翔さんの大切な人で、子どもの将来を約束し合った仲なんです」
牧場事務所の女性スタッフは一瞬ギョッとした目をしたが、すぐに意味を曲解して「まあ〜っ!」っと黄色い声を上げていた。
晴翔の実家、洞爺温泉牧場はすこやかファームのお隣にある。お隣と言ってもそこは北海道、歩いて数十分はかかるし途中にはちょっとした丘まである。ただ、馬産を学ぶ上でこれほどまで適した場所はない。
牧場スタッフが電話をかけると、さほど待たされることもなく晴翔が血相を変えて飛んできた。馬が絡まない限りは冷静な晴翔らしくもなく慌てて、牧場の隅まで腕を引かれた。
「君は何を考えているんですか!? 俺は君とつ……つっ、付き合ってないし子どもの約束などッ!?」
「大切な顧客でしょ? それに仔馬の将来を約束し合った仲じゃん」
だから嘘は言っていません。
しれっとした様子の志穂に、晴翔はただただ頭を抱えるだけだった。
第一、志穂は知っている。馬事研の部室にいれば嫌でもわかるのだ。志穂にも古谷先生にも目を合わそうとすらしない晴翔が、唯一目を合わせて喋る相手。他にも状況証拠はたくさんある。
「大丈夫、茜音さんにはうまく説明しとくからさ」
「な、なんで藤峰先輩が出てくるんですか!?」
「茜音さんがいるとひとり言増えるよね。あれは相手してほしいからでしょ?」
「ぐ……」
勝った。志穂はガッツポーズを決めた。
ただ、志穂の目的は恨みを晴らすことじゃない。そのためにわざわざ私服や制服ではなく、すこやかファームの作業着でやってきたのだから。
「それで、何をしにきたんですか君は……」
「ここで働かせてください♪」
スマホで洞爺温泉牧場の求人票を見せて、志穂は笑った。
「君の行動力だけは認めるしかないですね……」
かくして、洞爺温泉牧場での志穂の馬産修業が始まった。
牧場スタッフ達には通いの花嫁修業だと噂されているようだが、志穂の頭の中にあるのは仔馬を立派な競走馬に育て上げることだけだった。
*
「う〜ん、モタは今日も走らないか」
「
部下の報告を聞いたベテラン牧場長の大村は、馬房の隅っこで立ち尽くしている馬に優しく語りかけた。当然、馬は不調の理由を喋ってくれない。
仮に心の不調だとしたら、人間にできることは限られる。そもそも人間だって、心の不調はなかなか治せないのだ。
「なにか気分的なモノかもしれんねえ……」
モタは仔馬時代のあだ名。
登録名は《クリュサーオル》。栗毛の一勝クラス四歳牡馬だ。
その名の由来はギリシャ神話に語られる戦士、『黄金の剣を持つ者』から。皆に愛された祖父や偉大な父の名にあやかってつけられた馬名も、受け継いだ黄金の末脚も、今はどこか陰っている。
「お前さんは、何を考えてるのかねえ……」
クリュサーオル——ひと言で言えば彼は、見放された馬だった。
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