ウマの言葉は理解りませんだから静かにしてください!

パラダイス農家

第1話 おいでませ北海道へ

 また同じ夢を見ているのかと、おぼろげな頭で理解した。


 抜けるような青空がまぶしい五月。朝露を含んだ芝はキラキラと輝いていて。その光景を指して「きれいだね」と声を上げると、遠くを見つめていた母親が振り向く。まるで何かを待ちわびているかのように、期待に瞳を輝かせて。


「見て、志穂。来るよ!」


 父親の肩という絶好の特等席に陣取って、母親の指す方へ目をやった。

 目に入ったのは、彼方から伸びる緑の絨毯。寝起きでご機嫌ナナメな太陽が、芝の朝露を輝かせている。まるで宝石箱をひっくり返したような光の河。その上流に十数の点が浮かび上がり、近づく。点は、生命力あふれる力強い輪郭へと変わる。


 それは馬だ。馬が走ってくる。

 背には人間——騎手を乗せて懸命に脚を動かし、首を上下に振って。熱狂に満ちた声援の中を、地鳴りにも似た足音を響かせて引き裂いていく。

 幼いながらも、目で、耳で、肌で感じた熱は忘れない。


「さあ、志穂もお馬さんの応援しよっか!」


 なのに——思い出せない。

 浮かぶのは競馬の熱気ばかりで、母親の顔はおぼろげだ。日差しは意地悪な逆光で、一番会いたい人の顔を覆ってしまう。


「どうやって? おうまさんは言葉わからないよ?」

「お馬さんは賢いの。心を通わせたら声も届くから」

「ほんとう? おはなしできる!?」

「できるできる。ほら、あの子よ志穂! ゼッケン3番! 名前は——」


 馬の名前はあいまいで、毛色すらもわからない。

 けれど、言われるがままに目で追い、想い願った。


 どうか、私の応援が届きますように。

 どうか、馬の声が聞こえますように。

 どうか、互いに心が通いますように。


 コースは左回り。直線のはるか左端から、ゴールへ向かって馬群が迫る。ゼッケン3番。覚えたばかりの数字の3を馬群の中からようやく見つけだした瞬間、強く念じた。そして名前を呼び、声を上げる。


「がんばれ! がんばれっ!」

『聞こえたよ、志穂ちゃんの声』


 あり得ない、思い込みもいいところだ。

 それでも当時のあの瞬間——3番の馬と目が合った瞬間、心が通った。答えてくれたのだ。

 馬は賢い。言葉が通じる。それが嬉しくて応援にも熱が入っていた。

 馬は目の前をすごい速度で過ぎ去った。そして飾り付けられたゴール板の前を通過、無事にレースを終えることができたのだ。

 応援した馬と気持ちが通じた。お母さんの言う通りだ。


「おかーさん! おうまさんの声聞こえた!」


 嬉しくて様子を伺った母親は——


「ぜんぜん伸びねえじゃねえかボリクリの血引いてそのザマかーッ! 三千円返せヴォケーッ!!!」

「お、おかーさん……?」

「はあ、はあ……。馬券買ってくる! 取り戻すから三千円貸して!」


 ——これは夢だ。だって、母親と競馬場になど行けるはずがない。

 それに、この女性が母親だとは思えない。思いたくない。赤の他人であってほしい。自分の中に、生粋のギャンブラーの血が流れているなんて想像すらしたくない。

 夢から覚めるたびに、加賀屋志穂は手のひらに握った寝汗を拭きながら強く想う。


 *


「ね、東京と違って北海道はいいところでしょ。ゴミゴミしてないしご飯も美味しいし。全然田舎じゃないよね? そう思うよね?」


 だるまストーブの熱でスルメを温めながら、先生はなぜか勝ち誇ったように笑っていた。

 地元愛が強すぎて有無を言わせない担任に愛想笑いを返し、職員室の外へ意識を逸らす。窓の外に広がるのは、都会では見られない大草原だった。

 遡ること一時間前。

 生まれて初めて洞爺の町に降り立った加賀屋志穂は、ここが世界の果てだと直感した。

 「北海道はでっかいどう」なんてシャレが、まるでシャレにならない世界。ここではむき出しの自然こそが主役であり、人間は脇役。信号機より多い熊出没注意の看板が、その事実を如実に物語っている。


「な? 自然豊かでいいところだろう? 北海道ってのは」

「みんなイカれてるよ。タクシーの運転手も中学の先生も」


 今日出会った人間はみな、口を揃えて同じことを言う。まるで最初の町でプレイヤーを待ち構えるNPCのようだと志穂は思った。

 学校まで迎えにきた軽トラの助手席で、こらえてきた悪態を吐き出す。運転席で「じきに慣れるさ」と笑う父親を見ると腹が立ってきて、溜め込んでいた不満をぶつけないと気が済まなくなった。

 なんせこの男——加賀屋浩二は、四年前いきなり農業に目覚め、北海道へ旅立つような無責任な父親だ。身勝手が服を着て歩いているような人間である。


「だいたい勝手すぎるんだよ。娘を置き去りにして北海道で農業とか」

「その辛辣な感じ、母さんに似てきたな」

「知らんし」

「まあ、志穂には記憶もないか。十三年前だからな」

 

 十三年前。出産翌日に母は亡くなった。体が弱く、堕した方がよいとさえ診断されながらも、それでも諦めず必死で産み落とした一粒種が志穂だったという。

 親族のうち唯一、出産に賛成していた叔母から聞いた話だ。


「ところで。どうしてこっちに越してくる気になったんだ? みくるとケンカでもしたか?」


 せっかくひとり娘が一緒に暮らしてやると申し出たのに、父親は喜ぶでも嫌がるでもないまるで他人事だ。とは言え、裏を返せば干渉してこない親ということでもある。

 志穂は流れる車窓を見ながら言った。


「いつまでもみくる叔母さんに居候できないって。今年三十三だよ?」

「もうそんな歳かあ」


 今年三十三歳になる叔母のみくるには、まるで浮いた話がない。叔母は「世の男は見る目がないバカ」と豪語していたが、それがウソだと志穂は気づいていた。

 叔母が恋愛なり結婚しないのは、世の男がバカだからじゃない。

 居候の志穂に気を遣っているからだ。

 なんせ叔母は家事もていねい、仕事もできて、口も立つ完璧な女性。そんな彼女を世の男が放っておくはずがないではないか。

 このままではダメだ。叔母にも幸せになる権利がある。それに「お前のせいで婚期を逃した」と後々グチグチ言われたくもない。

 先日そう思い当たった志穂は、すぐに荷物をまとめて引っ越しを決めた。善は急げだ。今朝「これでいつでも結婚できるね」と伝えたら、叔母は涙目で送り出してくれた。近々おめでたい報告が聞けるはずだろう。

 そんな経緯を話してやると、父親はくつくつと笑っていた。


「だからド田舎に越してきたってワケよ。えらくない?」

「本当に母さんに似てきたよ、志穂は」

「ええ……」


 父親にしてみれば褒め言葉のつもりなのだろう。

 夢で見たあの母親に似てきたと思うと、まるで嬉しくないのだった。

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